Ps47の「かかわりの構造」
Ⅱ/A(42~72篇) | テキストPs47 | 原典テキストPs47 | 瞑想Ps47/A | 瞑想Ps47/B | 礼拝用語Ps47 | 恩寵用語Ps47 |
- 詩47篇に登場するのは、「すべての国々の民」という存在と、それらに呼びかける「私たち」という存在、そして「神」です。
- この詩篇の特徴は、神とかかわる「私たち」(イスラエルの民)が、異邦人である「すべての国々の民」に神への賛美を呼びかけている構造となっています。
- 「私たち」であるイスラエルの民は、神に対する信仰の告白をしています。この告白へと導き、支えている隠れた存在(御霊)があること言うまでもありません。すべての神への信仰告白はこの内なる「助け主」によるものです。
- この詩篇では「神」は次のように告白されています。
(1) 「いと高き方主は、恐れられる方」(2節)
(2) 「全地の大いなる方」(2節)
(3) 「全地の王」(7節)
(4) 「大いにあがめられる方」(10節)
- そしてこの神のみわざが語られています。
(1) 「国々の民を私たちの足もとに従わせる」(3節)
(2) 「私たちの受け継ぐ地を、私たちのためにお選びになる」(4節)
(3) 「喜びの叫びの中を、角笛の音の中を、上って行かれた」(5節)ーそれは「聖なる王座に着く」ためです(8節)。
- このことが実現するのは千年王国においてです。千年王国においては、キリストが再臨されて、その聖なる都エルサレムにおいて、王として統べ治められます。そのときには、それまで地上を治めることを許されていたサタンは幽閉されます。そしてヤコブの民(ユダヤ人)も異邦人もすべて信仰の民(アブラハムの神の民)として集められます。特に、ユダヤ人は千年王国においては、この地上の支配国(民)となることが預言されています(3節)。異邦人である神の民も千年王国においてなんらかの役割を担うはずです。
- ちなみに、新改訳では3節、4節の「私たち」が、6節においては「われら」と訳されています。原文ではどちらも「ヌー」נוּという人称代名詞が使われていますが、新改訳では微妙に訳を変えています。無意識なのか、あるいはその意味する内容が異なるという解釈からなのか。前者の「私たち」とは神の民イスラエル(ユダヤ人)のことであり、後者の「われら」とはユダヤ人と異邦人を含めた神の民を意味しているようにも見えます。
- 重要な点は、「私たち」という存在が祭司的役割を担っているということです。御子イエスが人としてこの世に来られたとき、神の民たちはこの祭司的な務めを見失っていました。400年にわたる異邦人たちによる支配と搾取の経験のゆえに、異邦人のための祭司的役割を考えることさえありませんでした。むしろ、ユダヤ人と異邦人の間には頑強な「隔ての壁」が建てられていました。神殿においても、「異邦人の庭」という場所があり、それ以上奥に入ってはならないという立て札が立てられていたほどです。ユダヤ人と異邦人が神の中に一つになるなどということは考えられませんでした。
- キリスト教の歴史において、キリスト教徒がユダヤ人を迫害するという痛ましい歴史は、長い間、この隔ての壁が崩されなかったことを意味しています。この分裂の根はユダヤ人と異邦人の間にあります。神の敵であるサタンはこの両者が一つにならないように、あらゆる時代において働いてきました。しかし、イエス・キリストによって、この「隔ての壁」は打ち破られたのですが、それが完全な形で実現するのは「千年王国」においてです。
- 祭司的役割を担わされた神の民イスラエルはその務めに失敗しましたが、彼らの中からメシアである御子が遣わされて、この務めを成就されたのです。
- 御子イエスはヨハネの福音書で次のように語り、そして御父に祈っています。ここに御父のみこころが示されています。
●10:14~16 〔ユダヤ人に対して〕
- 「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」
- ここにある「この囲いに属さないほかの羊」とは異邦人のことです。
●17:20~22 〔御父に対して〕
- 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つになるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
- この祈りにある「彼らのことばによってわたしを信じる人々」とは、異邦人のことです。イエスの弟子であるユダヤ人の「彼ら」のことばによって、「わたしを信じる人々」が起こされ、両者は御父と御子がひとつであられるように、一つになることを御子イエスはとりなして祈っておられます。
- 神のご計画は敵の牙である「分裂」という根が根絶されて、ユダヤ人と異邦人がひとつになることです。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。・・主はそこに、とこしえのいのちを命じられた。」(詩篇133篇)とあるような世界が到来することを、詩篇47篇は預言しているのです。
- 御子イエスの誕生は、まさに、天の軍勢が賛美したように、
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)
が実現することだったのです。
- 私たちは御子イエスにとどまることによって、自分のうちに分裂の「隔ての壁」を持っていないかを自ら問いかけなければなりません。なぜなら、主イエス・キリストこそ「平和」なる方だからです(エペソ2:14)。