****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps97/B

これらのキーワードがハイライトされています:ギール

Ⅳ/A(90~106篇) | テキストPs97 | 原典テキストPs97 | 瞑想Ps97/A | 礼拝用語Ps97 | 恩寵用語Ps97

瞑想Ps97/B

  • 神が王として支配する神の国(御国)の基調は、「喜び」と「楽しみ」です。それは「ダビデの幕屋の霊性」ともいうべきものです。モーセの幕屋にはなかった新しい基調なのです。
  • 特に、93~99篇の『王の詩篇』と呼ばれる一連の詩篇の中で、この詩97篇には「喜び」を現わす語彙が5回使われています。
    1, 8節では「こおどりする」(「ギールגִיל) 岩波訳「歓喜する」、関根訳「喜び呼ばわる」
    1, 8,1 2節では「喜ぶ」(「サーマハ」שָׂמַח)
    ギール」(גִיל)と「サーマハ」(שָׂמַח)とは、詩篇ではしばしばワンセットととして使われています。
  • キリストの初臨の時にも「喜び」が支配しました。ルカの福音書ではそのことが強調されています。そのひとつである「マリヤの賛歌」(創作賛美歌)には、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」とあります。その理由の第一は、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」です。第二の理由は、「力強いわざのゆえ」です。心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力のある者を追ういら引き下ろされ、低い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、とその逆転の恵みを記しています。
  • しかしそうした喜びはまだ「種」のようなものです。やがてキリストの再臨の時には、それが30倍、60倍、百倍の規模で鮮やかに実現するのを私たちは見るのです。
  • 王の統御、支配にあって、私たちは生存と防衛の保障が与えられているだけでなく、神の目に留められ、愛されるという存在論的な喜びを経験できます。そうした喜びを持つ者は、生きることにおいて自信が与えられるだけでなく、その人自身に与えられている力のすべてが引き出されてきます。なぜなら、「喜び」と「楽しみ」の世界は何ら強制的や義務がなく、すべてが自発的だからです。それゆえ、与えられた時間や賜物、チャンスや立場など、すべてが楽しみの材料となってしまいます。そして時間に制約されているという意識もなく、疲れません。そこから創造的なものが生み出されます。それが「喜び」と「楽しみ」がもたらす力と言えます。
  • 神の支配のもとに生きる者たちは、まさに聖なるホモ・ルーデンス(遊び人)と言えます。換言すれば、「聖霊に満たされた人」です。
  • 主にある喜びと楽しみは今はまだ「種」です。しかし、やがて花婿なるキリストとの婚姻の時には永遠の喜びと楽しみが訪れます。そのことを考えただけでも、「主は王として統べ治められる」という約束とその現実に心踊らされるのです。

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional