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生存の保障

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13. 水とパンという「生存の保障」

【聖書箇所】15章22節~17章7節

はじめに

  • 出エジプト記15:22~16:36で扱われていることは、人間が生きていく上での最も必要なものとされる「生存の保障」です。アブラハム・マズロウという米国の心理学者は、人間の欲求の五段階について述べています。その第一は「生存の欲求」、第二は「安全の欲求」、第三は社会的欲求、第四は(自分を認めてもらいたいという)自我の欲求、そして最後の第五は「自己実現の欲求」です。特に、これらの欲求を満たすために人間は働き、労していると言えます。とりわけ、第一、第二の欲求が満たされ、保障されることがなければ、人は安心して生きていくことができません。
    画像の説明
  • 神がイスラエルの民をエジプトから救い出して、ご自身の民として成立させ、また確立させるためには、最も基本的な「生存と防衛の保障」を与える方であることを民が知る必要がありました。イスラエルの民が自分たちが神から選ばれ、特選の民としての自覚を持ち、整えられて、やがては主体的に神に仕えることができなければ、神の召しにふさわしい民となることはできませんでした。
  • 荒野の経験は、神の民が神の民としてふさわしく整えられていくためになくてはならない神の訓練でした。

1. マラでの出来事

  • エジプトを出たイスラエルの民にとって、荒野の経験ははじめてでした。持っていた水がなくなったとき、あるいは食糧が尽きたとき、「つぶやき」が出ることを神を知っておられました。水やパンは生存を保障する最も基本的なものと言えます。その保障がなければ、イスラエルの民は組織的崩壊をもたらし、統制の取れない民となってしまいます。
  • だれがこの保障を与えてくれるか、だれがこの私を生かしてくれるのか、本当に、主が自分たちの中におられるのか、おられないのか、そうしたことが問われるのが「荒野経験」と言われるものです。荒野とは、神と神のことばをに対して絶対的な信頼をもって生きる者に、神は必要のすべて与えてくださるということを経験して行く場と言えます。
  • 「マラの出来事」(15:22~27)は、紅海渡渉という前代未聞の出来事を経験して主への賛美をささげた三日後のことで、マラというところに来たとき、「マラの水は苦くて(מָרִים)飲むことができない」ということで、民はモーセにつぶやいたのです。「マラ」の語源は「マーラー」(מָרָה)で「反逆する、不従順になる」ことを意味します。

24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。
25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木示された(יָרָה)ので、モーセはそれを水に投げ入れた(שָׁלַח)。すると、水は甘くなった(מָתַק)。その所で主は彼に、おきて(חֹק)と定め(מִשְׁפָּט)を授け、その所で彼を試みられた。

  • 25節に「主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」とあります。苦い水を飲める水に変える方法として、主はモーセに一本の木を示しています。この「示す」というヘブル語は「ヤーラー」(יָרָה)で、本来は「投げる」という意味ですが、そこから「示す、教える、指示する、方向づける」という意味にもなり、「律法」を意味する「トーラー」(תּוֹרָה)の語源です。つまり、神が示したこの一本の木とは「トーラー」を象徴しているのです。「トーラー」は神が人に示すみおしえであり、神の民が神の民としてふさわしく生きていくために無くてはならない道標です。
  • モーセに示された「一本の木」が、苦い水を甘い水に変えたのは、神の「トーラー」に従って生きることが、神の民としての喜びとなることの「型」と言えます。それは神の民が烏合の衆とならないためです。「甘くなった」と訳された「マータク」(מָתַק)は、神と神の民の関係が楽しい快いものとなることを意味しています。
  • ちなみに、「水」と「木」の関係は、エデンの園に流れる水の流れとそこにあった木(「いのちの木」と「善悪を知る知識の木」)にも、またヨハネ黙示録22章にある「いのちの水の川」とその両岸にある「いのちの木」にも見ることができます。新しいエルサレム神の民が神の教えによって生きる世界なのです。
  • 神の民の旅路は、神によって立てられた指導者モーセに率いられて行きますが、今回の民の「つぶやき」は彼らの心の中にある「苦い根が芽を出した」きっかけにすぎませんでした。モーセに対するつぶやきは、すなわち、「神」に対する不信を意味します。マラの水が苦かったのは、実は彼らに対する神への信仰のテストだったのです。つまり、神を信じて生きるかどうかの試みでした。

2. マサ(メリバ)での出来事

【新改訳改訂第3版】出エジプト記17章1~7節
1 イスラエル人の全会衆は、【主】の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ【主】を試みるのですか」と言った。
3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
4 そこでモーセは【主】に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
5 【主】はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。
6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。


ホレブの岩.JPG
  • 水の問題は、荒野を旅するイスラエルの民にとって常にモーセとの争いを引き起こしました。エリムから出た民はレフィディムでも主を試みました(出17:1~7)。ここではホレブの岩を杖で打つことで、岩から水が出る主は言われました。この出来事にある「岩」について、使徒パウロは「キリスト」のことだと理解しました(Ⅰコリント10:4)。
  • 40年後のツィンの荒野でも、イスラエルの民は主を試みたのです(民20:2~13/27:14)。ちなみに、「つぶやいた」と訳される「ルーン」(לוּן)は出エジプト記と民数記の特愛用語です。出エジプト記では、15:24/16/2,2,7,7,8/17:3などに、民数記では、14:2, 27, 29, 36/16:11/17:5どに使われていますが、「すべて指導者に対して不平を言うこと」(それは同時に指導者を立てた神に対して不平を言うこと)を意味しています。「水」の問題はいつもあったようです。
  • 17章1~7節では、水の問題でモーセが石で打ち殺されそうになりました。それほどに民たちの「つぶやき」は根の深い問題だったのです。民たちの「つぶやき」によって、40年間の放浪の旅を余儀なくされ、結果的には第一世代の者たちは約束の地に入ることはできませんでした。さらにはモーセを感情的に怒らせてしまったため、彼を約束の地に足を踏めなくさせてしまったのです。
  • 荒野の旅路の最初の出来事である「マラでのつぶやき」に対して、神はモーセを通して「苦い水」を「甘い水」に変えられました。そして、イスラエルの民は旅を続けてエリムに着くのですが、そこは何と12の水の泉と70本のなつめやしの木があったのです。神ははじめから民をそこへ導こうとしておられたのです。

3. マナの賦与

  • エジプトを出て一ヶ月後に、食物のことでつぶやく民に対して、神は不思議な食べ物を与えられました。「天から降ったパン」、すなわち「マナ」です。
  • この「マナ」はイスラエルの民が約束の地に入るその時まで、毎日、荒野で与えられた食物です。時折(ある季節には)、夕方になるとうずらが飛んで来て、その肉を食べることができたようです。「マナ」に対する神の「おしえ」は次のようでした。

    ①「各自、自分の食べる分だけ、必要に応じて集めること」
    ②「翌朝まで取っておくことができないこと」
    ③「安息日の日にマナは降らないこと、それゆえ、六日目には二倍の分を取って良い。しかも、それは翌朝になっても食べることができること」


  • とても不思議なことは、神のマナは毎日与えられること、しかも一人ひとりに必要な分が与えられること。しかも蓄えることができないことです。そのことから次の教えが成り立ちます。
    (1) 明日のことを思い煩わないこと(マタイ6章34節)
    (2) 与えられたもので満足すること(テモテ第一、6:6)
    これらは、別の言葉で表現するならば、信仰的自己管理能力ということができます。この能力を培う必要があります。神は私たちに必要を与えてくださるからです。その能力を培うことによって主の平安が心を支配するようになります。そして神への集中が可能となります。
  • 使徒パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大き利益を受ける道です」と愛弟子のテモテを諭しています。必要以上に求めることは強欲であり罪です。それゆえ、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であり、それを求めたがゆえに、「信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテ第一6:6, 10)

4. 神の「生存の保障」に対する信仰と「安息日」という関係

  • 神の民に対する「生存の保障」は、神の民の本来の召しと深く関係しています。安息日の前日には二日分のパンが与えられるということは、安息日には安心して神を礼拝することに集中することができるからです。主の聖なる安息は、聖なる方を礼拝し、その救いを楽しみ、主への信頼を深めるときです。そこから、あらゆる領域において、この世とは異なる神の民としての聖なる文化の創造がなされていくのです。

2011.12.17


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