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過越の祭りとその預言的な意味

2. 過越の祭りとその預言的な意味

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ベレーシート

  • 主の例祭には、神の不変のご計画(マスタープラン)が啓示されています。 今回はその第二回目、「過越の祭り」を取り上げます。以下の聖書箇所は、「過越の祭り」について言及しています。

    【新改訳改訂第3版】レビ23章4~5節
    4 あなたがたが定期に召集しなければならない聖なる会合、すなわち【主】の例祭は次のとおりである。
    5 第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを【主】にささげる。

  • 「第一月」を口語訳は「正月」と訳しています。最初の月の十四日の夕方から始まる例祭のことを「ペサハ」(פֶּסַח)と言います。この「ペサハ」を「過越しのいけにえ」(新改訳)、「過越の祭り」(口語訳)、「過越」(新共同訳)と訳されています。この「第一月」は元々「アビブの月」と言っていましたが、バビロン捕囚以降から「ニサンの月」とも言われるようになりました。古代ユダヤには、春(3~4月)から1年が始まる宗教暦と、秋(9~10月)から1年が始まる政治暦の2種類があり、今日のユダヤ人たちの新年は後者によっていますが、主の例祭として制定された「ペサハ」は春の祭りとして今日も続いています。
  • ユダヤ人にとって「過越の祭り」はきわめて重要な祭りで、いわば、彼らの建国記念日とも言うべき祝日なのです。この祭りを毎年することによって、ユダヤ人は神への信仰があってもなくても、あるいは世界のどこにいようとも、自分たちの民族的アイデンティティを確認する重要な日として守っているのです。

1. 「過越の祭」の起源

  • レビ記23章は一年の祭りの順序として「過越」が記されていますが、出エジプト記12章にはこの祭りの起源が記されています。まずはその箇所を開いてみましょう。その起源は今からおよそ3千5百年前にまで遡ります。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記12章1~14節
1 【主】は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり
7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける
8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。
11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは【主】への過越のいけにえである。
12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは【主】である。
13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない

小羊の血.JPG
  • 約400年に渡ってエジブトの王パロの奴隷であったイスラエルの民が、エジプトから解放される時が来ました。当時のエジプトは世界最強の軍隊を持ち、パロを絶対専制君主とする国家でした。その絶大な力を誇るエジプトからイスラエルの民を救い出すために神が取られた方法は、エジプトの地のすべての初子を打つというさばきでした。神は、父祖の家ごとに傷のない羊をほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱とかもいに、それをつけた家々にいる初子は、滅びのわざわいが起らないとしました。そして14節、「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」と主が語られました。これが過越の祭りの起源です。
  • 主が民をエジプトから救い出されたのは、アブラハムと交わした契約のゆえです。この契約も重要なので、みことばで確認しておきましょう。

    【新改訳改訂第3版】創世記15章13~18節
    13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
    14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
    15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
    16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
    17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
    18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。

  • これは、主がアブラハムに約束したことばです。13~16節の約束はそのとおりに実現しました。しかし、18節の前半の「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。」の部分は成就しましたが、後半の「エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」の部分はまだ完全には成就していないのです。しかし神は、出エジプトの奇蹟的な出来事を通して、主は必ず約束を守られる方であることを神の民にあかしされたのです。「過越の祭」は、神が約束に対して真実な方であること、その方によって後半の部分の約束も必ず成就することを信じさせようとされたのです。

2. 「過越の祭」の歴史的経緯

  • 「過越」のテーマは「解放と自由」です。出エジプトの出来事はエジプトでの奴隷であったその状況から解放されました。それは神の遠大な救いのご計画の一つの型(パターン)です。その型はイスラエルの歴史の中で繰り返されます。

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  • バビロンの捕囚からの解放は第二の出エジプトです。そして罪と死からの解放は第三の出エジプト、第四の出エジプトは敵である悪魔(反キリスト)からの解放です。それぞれの出エジプトの出来事の解放者は、第一はモーセ、第二はペルシャの王クロス、第三は十字架上で死に復活された神の子イェシュア(メシア)、第四は再臨のイェシュア(メシア)がその役割を担います。神の約束は神の子イェシュアによって実現することを「過越の祭」は意味しているのですが、いまだ神の民である多くのユダヤ人はそのことに霊の目が開かれていません。しかしこのことのなかにも神の深いご計画が隠されているのです。それぞれの解放の前には必ず苦しみがあります。特に、最後の解放の前の苦難はユダヤ人にとっては最大の大患難を通らせられます。
  • イスラエルの歴史の中で「過越」が意味あるものとして想起された事実は必ずしも多くありません。以下は、「過越の祭の歴史的鳥瞰」です。

①民数記9章2~5 節
エジプトを出た民たちは、一年後の第一の月にシナイの荒野で過越のいけにえをささげました。

②ヨシュア記5章10節 
40年後にイスラエルの民はヨシュアを指導者としてカナンの地へ入国した後、ギルガルに宿営しているとき、(割礼を施した後)、民たちは過越のいけにえをささげました。

③Ⅱ歴代誌8章12~13節
ソロモン王の治世の後半(神殿が建設されたあとの20年間)、毎年、過越の祭りがなされました。

④Ⅱ歴代誌29章1~36節
B.C.720年、ヒゼキヤが王となって最初に取り組んだのは宮きよめでした。はからずも、その月は第1の月、つまり「ニサンの月」であり,過越の祭を行うべき月(出エジプト12章)でした。しかし宮きよめが終っていなかったため、それを実施出来ず、ヒゼキヤは人々と相談して、翌月の第2の月にずらして行うことを決めました。ヒゼキヤの呼びかけによって、おびただしい大集団がエルサレムに集い、過越と種を入れないパンの祭が執行されました。

⑤Ⅱ歴代誌35章
ヨシヤ王の治世(B.C.639~)での過越の祭は,ヒゼキヤの盛大さを超えるものであったようです。

⑥エズラ書6章19~22節
バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民たちは、イスラエルに戻り、神殿を完成したあと、再び過越の祭が守られるようになりました。     

  • 以上のように、イスラエルの歴史において「過越の祭」が行われた経緯を見てみると、神の民がモーセの律法に従って意識的(自覚的)に過越の祭りをすることが、神の民としてのアイデンティティの確立と深いかかわりがあることが分かります。

3. 過越の祭りは、イェシュアによる贖いのパターン

  • 過越における主のさまざまな規定にはすべて意味があります。それはやがて遣わされるメシア・イェシュアを指し示しています。過越の羊に関する規定からいくつかのことを取り上げてみたいと思います。

(1) 「羊は傷のない一歳の雄」

  • それぞれの家で用意する羊がなぜ傷のない一歳の雄でなければならないのでしょうか。神が指定されることには必ず意味があるはずです。「傷がない」という条件はすべてのいけにえに共通しています。問題は、なぜ「一歳」の雄の羊なのかということです。「マトン」と「ラム」、どちらが価値あるかといえば、後者の「ラム」の方です。小羊というのは「一歳の雄の羊」のことです。
  • バプテスマのヨハネがイェシュアを見た時、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と二度も言いました(ヨハネ1:29, 36)が、ここでの「小羊」はギリシヤ語の「アムノス」(ἀμνὸς)が使われています。「新約ギリシヤ語辞典」(岩隈直著)には、この「アムノス」は1歳の羊だと説明されています。バプテスマのヨハネは、イェシュアを過越のいけにえとなる1歳の小羊と結びつけて語ったのです。
  • 「アムノス」は他にも二箇所使われています。一つは伝道者のピリポがエチオピアの宦官が読んでいたイザヤ書にある「毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった」というフレーズにある「小羊」を、「受難のしもべ」としてのメシアに結びつけてイェシュアのことを語っています。残るひとつは、使徒ペテロがその手紙1章19節で「あなたがたが贖い出されたのは、・・傷もなく汚れもなく小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と記し、ここでも過越の一歳の雄の羊とキリストとを結びつけています。ここの「小羊」も「アムノス」が使われています。

(2) 「この月の十日に」

  • 出エジプト記12章3節で、主はイスラエルの全会衆に「この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。」と言います。なぜ、羊を選ぶ日が月の十日なのでしょうか。その意図については直接語られていませんが、「十日」ということばを検索してみると、以下のように偶然とは思えないつながりがあることが見えてきます。

① レビ記16章29節
「以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。」
第七の月の十日は大贖罪日です。その日には全土に角笛がなり響き、イスラエル全会衆のための年一度の大贖罪日です。レビ記16:29、民数記29:7を参照のこと。

②ヨシュア記 4章19節
「民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。」
ギルガルに宿営したその日は、40年前、イスラエルの民が過越の羊を用意した日でした。そして彼らは割礼を執行し、「十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた」(ヨシュア記5:10)とあります。ヨシュアは割礼を受けた者たちとともに、時も時、第一月の14日に「過越」のいけにえをささげました「過越」もエジプトを出てから翌年の幕屋の建造が完成した月に一度行われていますが、それ以来荒野において「過越」がなされた記録はありません。民の不信仰のゆえであったと思われます。エリコの草原において、イスラエルの第二世代の民たちが割礼を受け、また「過越」のいけにえをささげたことは、神と民のかかわりがここで完全に修復されたことを意味します。「ギルガル」とは「石を転がす」という意味で、神への信頼を意味しています。もし、割礼をしたときに攻め入られれば簡単に敗北してしまいます。しかし、彼らはエジプトから救い出して下さった神を信頼して割礼を施し、神の民であることを再確認した後に、カナンの地を占領して行ったのでした。

③Ⅱ列王記25章1節/エレミヤ記52章4節
「ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。」
このエルサレム包囲は神の民が神に頼ることなく偶像をたよったことによる神のさばきの結果でした。神の民が自らのアイデンティティを見失う時、大きな苦難を味わうことになることを神は教えようとされたのです。

④エレミヤ記52章12、13節
12「第五の月の十日──それは、バビロンの王ネブカデレザル王の第十九年であった。──バビロンの王に仕えていた侍従長ネブザルアダンがエルサレムに来て、13【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。」
エルサレムの包囲が第十の月の十日に始まり、二年半後の第五の月の十日にエルサレムと神殿は破壊されています。しかも不思議なことに、第一神殿と第二神殿が同じ日である第五の月の十日に崩壊しているのです。

  • 以上のように、神のご計画スケジュールにはある種の正確なパターンがあることが分かります。決して偶然ではないのです。

(3) 「羊は火で焼く」

  • 過越の羊は十四日の夕暮れにそれをほふって食べなければなりませんでしたが、火で焼かなければなりませんでした。生のままで、または、水で煮て食べてはならず、その頭も足も内臓も火で焼かなければなりません。なぜ、火で焼かれなければならなかったのでしょうか。それは「火」が神のさばきを表わすからです。後に、預言者イザヤは「受難のしもべ」について預言していますが。そのしもべのことを、「ほふり場に引かれていく小羊のように、・・しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。」(イザヤ53:7. 8)とあります。なぜなら、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)。

(4) 「種を入れないパンと苦菜を添えて」

  • 火で焼いた傷のない小羊を食べる時に、「種を入れないパンと苦菜を添えて」食べなければなりませんでした。このことにも深い意味があります。「種を入れないパン」とはイースト菌の入らないパンです。いつもおいしいパンを食べている人には、決しておいしいと感じられないはずです。この「種の入らないパン」は一週間にわたって食べなければなりません。このことについては、次回に触れるつもりです。なぜ、苦菜を添えて過越の小羊を食べなけれはならないのでしょうか。この「苦菜」は長い間、イスラエルの民がエジプトで苦しんだをことを思い起こさせるためのものです。「苦菜」の味は「パセリ」とか「わさび」のような味とも言われていますが、実際、どんな味なのかわかりません。「苦菜」はヘブル語で「マーロール」(מָרֹר)です。出エジプト記15章23節にある「マラの水」(苦い水)と同じ語根(מַר)です。
  • 過越の羊がイェシュアの型であったことを示すために、イェシュアの最後の一週間と比較してみると以下の事が分かります。イェシュアこそ、過越の羊が指し示していた実地教育の本体であったことを物語っています。

    画像の説明
    訂正「イェシュアがエルサレムに入場したのは日曜日」

4. 過越の食事と新約における聖餐との関係

  • 新約時代のキリスト教会において、「主の晩餐」(聖餐)は「過越の祭り」に相当します。イェシュアと弟子たちが過越の祭りの食事をしている時に、イェシュアは「わたしを覚えるためにこれを行ないなさい」と言われたのが、主の晩餐(=聖餐)と言われるものです。このことを記しているのはマタイの福音書とルカの福音書です。若干異なる部分がありますが内容的には同じです。ここではマタイの福音書を開いてみましょう。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書26章20節、
20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。
26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

―イェシュアとその弟子たちの最後の晩餐の光景―
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  • マタイの27~28節にある「この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です」とあります。ルカでは「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」となっています。ここでイェシュアの言われる「新しい契約」とは、エレミヤ書31章31節で言われている「新しい契約」(脚注)のことです。これ以外の「新しい契約」は聖書には存在しません。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

  • エレミヤが預言した「新しい契約」ですでに実現しているのは、「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」という部分です。神の側ではすでに罪の贖いは実現し、一度限りの完全ないけにえ(イェシュアの罪のないからだ)によって、永遠に罪の赦しは完全になされているのです。しかし、他の部分であるー「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。」―という約束は未だ完全には実現していないのです。
  • このことが実現するのは、メシアがこの地上に再臨されたメシア王国、あるいは新しい天から新しい地に降りてくる神の幕屋、「新しいエルサレム」においてです。そこは、神の永遠の御国です。
  • イェシュアが弟子たちに過越の食事の時に制定された「聖餐」は、すでに主がなされた贖い(罪の赦し)を思い起こしながら、同時に、新しい契約のもう一つの面である「主を知ること」が、やがて御父の御国で実現するという望みを信仰によって新たにすることなのです。聖書の神は約束されたことを必ず果たされる真実な方です。「アルファーであり、オメガなる方」。「真実な、アーメンなる方」に、私たちは今日も生かされていることを心から感謝したいと思います。


脚注

●新約聖書で「新しい契約」という言葉が登場するのは以下の箇所です。ヘブル人への手紙に集中しています(引用はすべて新改訳改訂第3版)。

①ルカ 22:20
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
②Ⅰコリ 11:25
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
③Ⅱコリ 3:6
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
④ヘブル8:8
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
⑤ヘブル8:13
神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。
⑥ヘブル9:15
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
⑦ヘブル12:24
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。


2015.1.11


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