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礼拝用語Ps142

詩142篇 「言う」 אָמַר アーマル

(カテゴリー:祈り)

5節「主よ。私はあなたに叫んで、言いましたאָמַר。」

Keyword; 「言う、申し上げる」  say, said, speak,

  • 「言う」と訳されるアーマル(אָמַר)は、へブル語の中でも最も多く使用されている動詞です。その数は旧約全体で5,503回、詩篇では100回使用されています。
  • この動詞が聖書で最初に登場するのは、創世記1章3節「そのとき、神が『光よ、あれ』と仰せられた(אָמַר)。すると光ができた。」です。神はその時から語り続けておられます。聖書の神はまさに「語られる神」と言えます。一方、人間がはじめて語ったのは、同2章23節「すると人は言った(אָמַר)。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉、これを女と名づけよう。・・』」でした。その女に対して語った(אָמַר)のが最も狡猾な蛇でした。「・・・と神は、本当に言われた(אָמַר)のですか。」(3章1節) ・・このようにして、神の創造、人ヘの語りかけ、敵の人に対する誘惑・・、救いのドラマはすべて「言う」「語る」ということを通して展開していきます。そして語る「ことば」が神の出来事(ダーバール)を引き起していきます。それゆえ、アーマル(אָמַר)に次いで多い動詞が、ハーヤー(הָיָה)―(to be, become, happen)であることもおのずとうなずけます。
  • ところで、詩142篇は祈りの用語が多く使われています。
    1, 5節の「(声を上げて)叫ぶ」ザーアク(זָעַק)、
    2節の「(嘆きなどを)注ぎ出す」シャーパク(שָׁפַך)、
    同じく2節の「言い表わす」ナーガド(נָגַד)、
    そして5節のアーマル(אָמַר)です。
  • 人が神に言う(語る)ことは「祈り」という領域です。祈りの対象が神に向かうこともあれば、自分自身に向かうときもあります。その内容は、訴え、嘆願、愚痴、信仰告白など様々ですが、自分に気遣ってくれる者、自分の存在を認めてくれる者がなく、完全に孤独と不安の中にある鬱積した感情を注ぎ出すことのできる者は幸いです。自分の嘆きや苦しみを訴えるだけでも、ある種の浄化作用(カタルシス)を経験できます。しかしこの作者は、それで終わることなく、神への信仰を告白出来ていることは見習うべき教訓です。ちなみに、この詩篇の作者は主なる神を次のように告白しています。

①「あなたこそ、私の道を知っておられる方」(3節)
②「あなたは私の避けどころ、生ける者の地で、私の分の土地です」(5節)
③「あなたは私に良くしてくださる(方)」(7節)

  • 代々の聖徒たちの荒野経験、あるいは牢獄(洞窟)経験は真の祈りを学ぶ訓練場です。旧約のダビデ、ヨセフ、ダニエル、新約の使徒パウロとシラス、ペテロとヨハネはみな、こうした訓練を受けました。自分ではどうすることもできない閉塞状況で彼らは神に祈ることを身につけたのです。そして神はその祈りを聞き、不思議な方法をもって彼らを救い出されました。このことが「マスキール」―(すなわち、教訓詩)―と言えるものです。

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