瞑想Ps142/A
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瞑想Ps142/A
- 詩142篇の表題は「ダビデのマスキール。彼が洞窟にいたときに。」となっています。マスキールは教訓詩と言われますが、この詩篇の中にどのような教訓が含まれているのか、それを瞑想のテーマとしたいと思います。
- ダビデの放浪生活において洞窟で敵から身を隠していたことが二度あります。一つは、アドラムで、サウロ王の追手が追い迫ったとき、はからずもペリシテ軍の侵入があり、それに対処するためにサウロは引き返さざるを得ず、ダビデは難を逃れました(Ⅰサム23章)。もう一つは、エン・ゲディの野でサウロ王が用をたすために洞窟に入った折り、その奥にダビデの一向が隠れていました。しかし、ダビデは油注がれたサウロ王に、このときとばかりに自ら手を出すことはしませんでした。なぜなら、ダビデはさばきを神にゆだねたからです。
- 詩143篇3節に「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私にわなを仕掛けているのです」とあります。この箇所をLBでは次のように訳されています。「どの道を進めば、敵の仕掛けた罠にかからずにすむかは、神様だけがご存知です。」と。窮地に追い込まれている場合に、私たちは神にゆだねることをせずに、自分の考えで行動し、敵の罠に陥ることがあります。ダビデはそうした危険を察知できる人でした。窮地に追い込まれている時こそ、神を信頼して、神に祈るべきときです。
- 洞窟(牢獄)経験と言えば、ダビデだけなく、ヨセフもそうでした。また新約では、使徒パウロとシラスのピリピでの牢獄。ペテロとヨハネもエルサレムでの牢獄に入れられました。自分ではどうすることもできない状況です。しかし、これらに共通していえることは、すべて神がそうした状況から不思議な方法で救い出してくださったということです。
◆私たちの人生にも、思案投げ首の閉塞状況、卑しめられたり、追いつめられたりといった状況に陥ります。また、だれひとり声をかけてくれる者もなく、だれひとり自分のために動いてくれる者もいない。そうした孤独の枷があったとしても、神は必ず救い出してくれるという教訓が語られているように思います。
- ちなみに、この詩篇におけるダビデの三つの信仰告白は私たちの魂を励ましてくれます。
(1)「あなたこそ、私の道を知っておられる方」
(2)「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。」
(3)「あなたは私に良くしてくださる方」
- 特に、「あなたは・・・私の分の土地」という告白は、自分の力によって得るものではなく、神の賜物としての財産(祝福)であるということです。とすれば、最も大切なことは、神を信じることしかありません。イエス・キリストは「神が遣わされた者を信じること、それが神のわざ(単数)です。」(ヨハネの福音書6:29)と言われました。神が遣わされた方、イエス・キリストこそ神の最大の賜物です。しかも、私たちの受け継ぐべき唯一の永遠の財産です。