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礼拝用語Ps106

詩106篇 「(破れに)立つ」 עָמַד アーマド

(カテゴリー:祈り)

23節「・・もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい怒りを避けるために、御前の破れに立たなかったら、どうなっていたことか。」
30節「そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。」

Keyword; 「立つ」  stand, 22:5/107:13, 19/142:1, 5

  • 「立つ」と訳されるアーマド(עָמַד)は、旧約で523回、詩篇では32回使われています。しかし詩106篇のように、祭司的な使命をもってとりなしのために、御前に立つという意味で使われているのは、わずかに3回だけです(106:23, 30/107:31)。
  • 神が激しく怒られたならば、本来だれも神の御前には立つことができないのですが、モーセとピネハスは、神と人との間に「立ち」、神の怒りをなだめるべくその仲裁の務めを果たしました。それゆえに、イスラエルの民は神のさばきを免れるという経験をしました。特に、ピネハスはこの行為によって神から称賛され、個人的にその祭司職の契約を与えられたのです。民数記25章参照。
  • 「立つ」アーマド(עָמַד)と言う言葉は様々な意味合いがあります。ある場所で「立つ」という意味、「主の義、主のはかりごと、誉れが永遠に堅く立つ」という不変的な意味、任務として立つという意味、自分の立場を守るために親しい者から距離を置いて「立つ」といった意味などがあります。しかし詩106篇のように、神と民の破れを繕うために、とりなしの祈りをするために「立つ」ということは重要です。
  • 新約では、初代教会における最初の殉教者ステパノが石打ちの刑の最中に見たヴィジョンは、主イエスが神の右の座に立っておられる姿でした。私たちには、主イエスが神の右の座に座っておられるというイメージがあります。しかし、ここでは主イエスは「立って」おられるのです。黙示録5:6でもヨハネは「御座―そこには四つの生き物がいるーと、24人の長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見ています。これはとりなしのため、仲介者として「立って」おられることを意味するかもしれません。ステパノは立っているイエスを見て、自分も大声で「この罪を彼らに負わせないでください。」と祈っている姿は、まさにイエスのとりなしそのものです。
  • この「立つ」という行為は、礼拝用語というよりもミニストリーの用語です。しかし、このミニストリーは、自分が神の御前で義と認められていなければなすことのできない務めです。イエスはいつも御父の家に住み、その方の隠れ場に住み、そこにとどまることにより、御父のなすことをすることができました。とすれば、私たちも「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」(詩篇91:1)とあるように、そこにとどまりながら、神と人との間にあって、力あるとりなしの務めをしていく者でありたいと思います。


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