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瞑想Ps90/C

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瞑想Ps90/C

  • 詩篇90篇にある3つのシューヴ(שׁוב)に注目したいと思います。
    ひとつは、3節「あなたは人をちり(※1)に帰らせ(שׁוב)て言われます。「人の子らよ、帰れ(שׁוב)。」もうひとつのシューヴは13節にあります。「帰って(שׁוב)来てください。」
  • さて、13節に見られる「帰って(שׁוב)来てください。」は、神に対する嘆願です。3節に見られる神の呼びかけとしてのシューヴと13節に見られる嘆願としてのシューヴ、この二つはいったいどのようにつながるのでしょうか。それがこの詩篇の味わうべきポイントのように思えます。
  • 罪に落ちて弱り果てた人間に対して、神の呼びかけのシューヴは、神ご自身の顧みがなければ、その呼びかけにすらこたえる事の出来ないほどに弱く、はかない存在なのです。
  • この詩篇は人間の弱さ、その存在のはかなさを歌っています。同時に、7節~11節では、この詩篇の作者の「死に対する理解」を伺うことができます。7節と11節を見てみましょう。
    • ①7節「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消え失せ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。」
    • ②11節「だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っていることでしょう」と述べています。
  • つまり、ここでは人間の「死」とは、罪に対する神の御怒りであり、神の憤りであるということが述べられています。しかも、その「死」の本当の恐ろしさをだれひとりして知っている者はないということを述べているわけです。「死」の本当の恐ろしさを知っていたのは神から遣わされた神の御子キリストだけです。イエス・キリストが十字架にかかられる前にゲッセマネで祈っていたとき、「イエスは深く恐れもだえ始められた。」(マルコ14章33節)とマルコは記しています。そして、イエスはこの死という怒りの杯を私から取りのけてくださいと祈っています。なぜなら、イエスは本当の死の深淵の恐ろしさを知っていたからです。
  • 私たちは太陽を直視できないように、死も直視することができません。それは直感的に不可解で、恐ろしい世界だと知っているからです。「死」はこの世において得たすべての栄光をみな失わせてしまう世界です。多くの人々はそうした「死の現実」をできるだけ遠ざけ、考えないようにして生きているのです。しかしこの詩90篇の作者はそれを直視しようとしています。
  • 死を直視することから出てくる祈り、すなわち13節の「帰って来てください。」との祈りは、罪の結果もたらされた死から、いのちへと生き返らせる回復の「シューヴ」だと信じます。それはイエス・キリストによる福音(十字架と復活のみわざ)を通してのみ実現します。
  • キリストの復活という視点から次節14節以降の祈りを見てみると、すべてが意味を持ってきます。

    ①14節「どうか、朝には(※2)、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」

    ②15節「あなたが私たちを悩まされた日々と、私たちがわざわいに会った年々に応じて(※4b)、私たちを楽しませてください。」

    ③16節「あなたのみわざをあなたのしもべらに、あなたの威光(※3)を彼らの子に見せてください。」

    ④17節「私たちの手のわざを確かなものに(※4a)してください。」

    ⑤12節「私たちに自分の日を正しく数えることを教え、知恵の心を得させてください。(※5)」

  • このように詩90篇は新約の「キリストの福音の光」を通して理解するとき、きわめて預言的な詩篇として見えてきます。そしてまさにこの詩篇がキリスト教葬儀に最もふさわしい「慰めに満ちた詩篇」となり得るのです。

(※1)

  • 3節にある「ちり」の原語はダッカーדָּכָּא(daka’)で、「打ち砕く,crush」という意味の動詞の名詞形です。名詞形も形容詞も同じ語ですが、「心(霊)の砕かれた者」という意味です。形容詞では3回(申命記23:2、詩篇34:18、イザヤ57:15)使われています。創世記3章19節にある「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」にある「ちり」はアーファールעָפָר(`aphar)で、別の語彙です。後者の「ちりに帰る」とは罪による刑罰的意味合いがありますが、前者の(つまり詩90篇)それは、心の砕かれた者に対して、わたしのもとに「帰れ」との恩寵的呼びかけであると考えます。その証拠に、1節には「主よ、あなたは代々にわたって、私たちの住まいです」と告白されています。

(※2)

  • ここでの「朝」とは、「復活の朝」(イースターの朝)として預言的に解釈することができます。

(※3)

  • 「威光」と訳されたヘブル語はハーダールהָדָר(hadar)は「誉れ、威光、威厳」という意味で、英語ではsplendor と訳されています。つまり「輝き」です。詩篇8篇5節には人間が本来神に与えられた創造の冠が「栄光と誉れの冠」であったことを記しています。まさにキリストの復活によって回復されるのは、この輝かしい神の冠です。

(※4a)

  • 「私たちの手のわざ」はキリストにあることによって「主のわざ」となります。それが確かなものとなるのはキリストの復活によってです。使徒パウロはコリント第一15章58節で「ですから、愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」と述べています。

(※4b)

  • また、最後の「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでない」という部分は、詩90篇15節の祈りに対応しています。

(※5)

  • 「知恵の心を得る」とは、キリストにあって自分に与えられた限られたいのちを、正しく、そして最高に意味のある生き方をする神の知恵です。

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