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注いでください。あなたの恵みを

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86. 注いでください。あなたの恵みを

【聖書箇所】 詩篇36篇10節

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【読み】
ショフ ハスデー レヨデエーー ヴェツィドカーテー レイシュー ーヴ

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。
【口語訳】
どうか、あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し、心の直き者に絶えず救を施してください。
【新共同訳】
あなたを知る人の上に/慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に/恵みの御業が常にありますように。
【岩波訳】
絶やさないで下さい。あなたの恵みを、あなたを知る者たちに、あなたの正義を、心の直き者たちに。
【NKJV】
Oh, continue Your lovingkindness to those who know You, And Your righteousness to the upright in heart.
【NIV】
Continue your love to those who know you, / your righteousness to the upright in heart.

【瞑想】

詩篇36篇10節のフレーズの中から二つの語彙に注目したいと思います。

(1) 注ぐー「マーシャフ」מָשַׁךְ
10節の「注いでください」の「注ぐ」と訳されたマーシャフמָשַׁךְは、多くのニュアンスをもった動詞です。「引き上げる」(to raise)、「広げる」(to extent)、「引き寄せる」(to draw)、「そそのかしておびき寄せる」(to entire)、「待ち伏せして捕える」(to siege)、「楽器などの音を長く吹き鳴らす」、そして「続ける」(to continue)などです。詩36篇10節では最後の「続ける」という意味で使われています。旧約では36回。継続的な時間的延長、および、空間的拡張をイメージさせることばです。

日本語訳を見ると以下のように訳されています。
「常にありますように。」(新共同訳) 
「絶えず・・・施してください。」(口語訳)
「絶やさないでください。」(岩波訳)
「・・を保たせ、・・を絶えず与えてください。」(関根訳)
このように、マーシャフ(מָשַׁךְ)は、絶えず、保たせ、絶やすことなく与え続けること、注ぎ続けることを意味します。そこにある思想は、持続性、継続性、保持、恒常性と言ったイメージです。

ダビデが自分の上に、絶えず、常に、そのままずっと、継続して(あるいは永続して)、注がれることを期待しているものとは「あなたの恵み」です。31篇19節、32篇10節、33篇18、22節、34篇8節にもそのことが強調されていますが、36篇に至っては、それがたたえられ、それが継続して注がれることを祈っています。ダビデにとって必要だった神の恵みは、今日に生きる私たちにとっても必要だと信じます。

(2) 恵みー「ヘセド」חֶסֶד
次に、「ヘセド」ということばに注目したいと思います。新改訳の「恵み」、新共同訳の「慈しみ」という訳語だけでは、実はこの言葉がもっている真の意味を理解することができません。ちなみに、英語でもこの「ヘセド」はいろいろな言葉で訳されています。たとえば、NIV(New International Version)訳では、①love(129)、②kindness(41)、③unfailing love(32)、④great love(6)、⑤mercy(6) などという訳語を使っています。他の英語訳をも調べてみると以下のように訳しています。
constant love・・不変の愛
steadfast love・・確固たる愛
unfailing love・・尽きることのない愛
loving-kindness・・親愛

unfailing loveとは「尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切ることのない、確実な愛という意味です。それを新改訳では「恵み」と訳し、新共同訳は「慈しみ」と訳しているのです。調べてみると、ヘセドという語彙には常に「力、堅固さ、着実さ」といった意味があります。また、かかわりにおいて「熱心な、激しい欲求」を意味するルーツがあるようです(N・H・スネイス著「旧約聖書の特質」参照)。

神の民イスラエルの歴史において明らかにされたことは、神の、人に対するヘセドに対して、人間は常にきまぐれで、不忠実であったということでした。捕囚以降の時代において、苦難の経験を通して神の律法の大切さを学んだ者たちを、ハシーディームと呼ばれますが、彼らはやがてパリサイ派となっていきます。彼らは神のヘセドに誠実さを表わすものとして、神の律法にどこまでも忠実であろうとしました。そのパリサイ派の申し子と言っても過言ではない使徒パウロはこう言っています。彼のことばは、神のへセドに対する人間の応答の限界を要約していると思います。

「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善(神のみこころ)をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。」(ローマ7章18節)

たとえ、人が神との契約に忠実であろうとしても、自分の意志と実行の間には隙間があるのです。その隙間を埋める力は私たち人間にはないのです。そのことを認めたうえで、はじめて「注いでください」という祈りが力を持ちます。「注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。」この祈りは今日に生きる私たちの祈りでもあると信じます。と同時に、私たちの今日的課題は、いたずらに忙しくすることではなく、静まって、「いのちの源泉」「光源」である主を知り、その主に絶えずとどまることなのです。


2013.5.11


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