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新しき地に踏み出す(ヨルダン渡渉)

3. 新しき地に踏み出す(ヨルダン渡渉)

【聖書箇所】3章1節~17節

はじめに

  • ヨシュア記1章1~3節において神がヨシュアに語られた約束は次の通りでした。

    今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地へ行け。あなたがたの足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

  • その最初の難関であるヨルダン川を渡らずしては約束の地カナンに行くことはできませんでした。どのようにして渡ることができたのか、そこに神の不思議があります。

1. 神の奇蹟としてのヨルダン渡河

  • 人間的な視点では、ヨルダン川を渡るということは危険極まりない、無謀な行為としか思えないものでした。なぜなら、この時期(渡った後に過越のいけにえをささげている)は4月頃祭りの時期であったからです。「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれる」(15節)からでした。
  • どのようにして川の水がせき止められたのか、ひとつの事実として、ヨシュアたちが渡河したと思われる場所から北25キロほどの地点にアダムという町があります。その辺りは石灰岩層が両岸から迫って深い渓谷になっており、1927年の地震の際、この石灰岩層の断層が崩れ落ち、水流をせき止め21時間、下流が干し上がったという出来事がありました。16節と同じような事態が起こったと考えられます。しかし、ヨシュア記のヨルダン渡渉の奇蹟は、神の言われるままに従って契約の箱を担いだ祭司たちが、ヨルダン川の中に足を踏み入れたまさにそのとき、水が完全にせき止められたところに、まったく予測不可能であったところに神の奇蹟があります。

2. 人の側に求めたこと

  • 3章にはさまざまな指示(命令)が飛びかっています。

つかさたちが民に対して(3~4節)
神の臨在の象徴である「契約の箱」のあとを進むことでした。指示としては約2千キュビト(900m)の距離を保つことです。その理由は4節、「それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ」とあります。神が「渡って・・行け」というからには、不思議を起こしてくださるに違いない。そのことを見極めるために距離を保ちました。

ヨシュアが民に対して(5節、9~13節)
「身をきよめよ」、その理由は、あす主が不思議を行われるから。

主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏がヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水はせき止められるられること。

ヨシュアが祭司たちに対して(6節)
契約の箱をかつぎ、民たちの先頭に「立って、渡りなさい」と。

主がヨシュアに対して(7~8節)
イスラエルの民全体の前で、神はヨシュアを大いなる者とし、そのことによって、神がヨシュアとともにいることを民たちが知るため。ちなみに、「大いなる者とする」とは「ガーダル」גָּדַלの強意形ピエル態でヨシュアを指導者として「養育する、育成する」という意味も込められています。


3. ヨルダン渡渉が意味すること

  • ヨルダン川の水がダムのようにせきとめられる出来事は、主がカナンの地に住む7つの民を「必ず追い払われる」ということのしるし(保障、確証)であることが10節に記されています。

    【新改訳改訂第3版】
    10 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。

  • 「必ず追い払われる」と訳された箇所は、原文では「ヤーラシュ」יָרַשׁという動詞が二つ重ねられています。新共同訳は「完全に追い払ってくださる」と訳しています。「ヤーラシュ」は、イスラエルの民が約束の地を自分たちのものとするための重要な語彙で「占領する、相続する、所有する、追い払う、滅ぼす、得る」という意味を括っています。
  • なぜ神はヨルダン川を渡って約束の地へ行くようにされたのか、それはヨルダンを渡河することによって、約束の地が完全に(必ず)イスラエルの民の所有となることを確証させる出来事だったのです。約束だけでは約束のままです。しかしその約束の確証をイスラエルの民に与えることが必要だったのです。
  • 新約時代に生きる私たちに対するキリストにあるすべての霊的祝福がすべて私たちのものとなるという確証、保証は聖霊の賦与によってもたらされます。したがって、ヨルダン川の水がせきとめられて乾いた地を渡ることができるという経験は、まさに聖霊によって、神から与えられるすべての祝福の神の側からの保証であり、同時に私たちの側の信仰の確証となるということが言えるのです。


2012.3.13


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