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ヨルダン渡渉の記念の石

4. ヨルダン渡渉の記念の石

【聖書箇所】 4章1節~14節

画像の説明

はじめに

  • ヨシュア記4章では、神がイスラエルの民の前でヨルダン川をせきとめたこと、そして民が乾いた川底を歩いて渡ったことその事実を記念として、祭司たちの足が堅く立ったところから12の石を取って来て、宿営地(ギルガル)に据えることを命じました。これは彼らの間で「しるし」(記念)となるためでした。

1. 記念とすること

  • 神はご自身がなした大いなるみわざをご自身の民に末永く覚えさせるために、記念とすることを命じています。出エジプトの出来事においては、神は民にその事実を覚えさせるために、年に一度の「過越」の祭りを制定しています。すでに、エジプトを出てから1年後には幕屋が完成しますが、そのときにも過越の祭りをしています。記念はすべて神の恩寵的みわざを覚えるためのものです。

ヨルダン渡渉の記念は、単に、渡れたことを感謝するためのものではありません。3章で述べられていたように、この出来事は神がカナンの7つの住民を「追い払い」、約束の地を神の民に必ず(完全に)所有させるという確約的な出来事だったのです。

2. 石を取って記念とした他の例

  • ヨシュア記4章は神の大きなみわざを経験したことをイスラエルの民が忘れないために石をもって記念とするよう命じられました。聖書の中には、同じく主の恵みを経験したとき、あるいは契約を結んだことを記念するために石を取ったことが記されています。ここにそのいくつかを列記しておきたいと思います。

(1) ヤコブが主の語りかけに感動した立てた石の柱(創世記28章10~22節)
ヤコブは父イサクをだまして祝福の祈りを独り占めにした後、母リベカの勧めに従って伯父のいるハランへ独り旅をすることになります。道中、日が暮れて彼は石を取ってそれを枕にして寝ます。その中で、彼は夢を見ました。天からの梯子の夢、そして神の臨在の約束の語りかけを聞きました。ヤコブは朝早く起きて、枕にしていた石を取りねそれを立てて柱とし、その頂に油を注いで、ベテルと名づけました。ベテルとは「神の家」という意味です。彼はこの場所で自ら神と出会った感激を記念とする石を立てたのでした。

(2) ヤコブとラバンが結んだ契約の記念としての石の柱(創世記31章43~53節)
ヤコブと伯父のラバン、20年間の中である種の確執がお互いにもつようになったいた。しかしヤコブが元いたところに帰るよう種から示された時、お互いが将来敵意をもって近づいたりすることがないための境界線としての石の柱を立てました。その場所はミツパ(「ミツパー」מִצְפָּה、見張り場)と呼ばれました。

(3) 強敵ペリシテ人が打ち負かされたことを記念する石(1サムエル7章5~12節)
周囲の国の脅威にさらされていたイスラエルはミツパに集まり、主に祈りをささげようとしたとき、ペリシテ人が攻め上ってきた。サムエルはイスラエルのために主に祈った時、主は大きな雷鳴をとどろかせてペリシテ人をかき乱したので、イスラエル人は彼らを打ち負かすことができました。その勝利を記念して、サムエルはひとつの石を取り、ミツパとシェンの間に起き、それに「エベン・エゼル」と名をつけた。「エベン・エゼル」(אֶבֶן עֵזֶר)とは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味だとありますが、厳密には「助けの石」の意味。


3. 紅海渡渉とヨルダン川渡渉との比較

  • 「紅海徒渉」と「ヨルダン渡河」の霊的な意義は、前者の「紅海徒渉」が「エジプト」つまり「世」に対して死んで神にあって生きるのに対して、後者の「ヨルダン渡河」は「肉」(たましいとからだ)に死んで、霊によって生きることを啓示しています。約束の地は「良い地」であるキリストのすべてを象徴しています。キリストのすべてを得るためには、霊によって生きることが不可欠です。
    そのためには、霊とたましいを見分けることです。

    【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
    神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。


2012.3.14


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