****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

占領すべき地、なお多し

12. 占領すべき地、なお多し

【聖書箇所】 12章1節~13章7節

はじめに

  • 11章23節には「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。・・ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」とあります。その地をどのように分け与えたかが13章から記されてます。
  • ここでの聖書箇所の中から、13章1節で主がヨシュアに語られた有名なことばにのみフォーカスしたいと思います。

13章1節
ヨシュアは年を重ねて老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。


1. 年を重ねて老人になったヨシュア

  • ヨシュアは110歳で死んでいます。ヨシュア記13:1で主が語られた時期は、おそらく100歳近くになってからと推定されます。「余生を過ごす」ということはがありますが、「余生」とは「残りの命」という意味で、それは社会での働きの能力的な基準で言われることばです。本来の人生が終わって、後は残りの(余りの)人生を過ごすという見方ですが、聖書にはそのような考え方はありません。なぜなら、信仰生活という霊的な面においては決して年齢にかかわりなく成長を続けるという考え方があるからです。

2. まだ占領すべき地がたくさん残っている

  • 神が備えられたカナンの地はまだまだ占領されていない地があり、それを自分の所有地とするようにヨシュアにチャレンジされました。ちなみに「所有地」はヘブル語で「イェルッシャー」(יְרֻשּׁה)で、「所有する、占領する」という獲得動詞「ヤーラシュ」(יָרַשׁ)の名詞形(女性)です。ヨシュアはイスラエルの指導者として約束の地を自分のみならず、神の民全体のための所有地としてさらに占領すべきことを語られて言います。これは「あなたは年を取ったが、その人生において私が与えようとしている祝福は無限にある」と言っているように受け止めます。
  • このことは現代の私たちに何を語っているかということが今回の瞑想のテーマです。ヨシュアに対して語られた神のチャレンジは使徒パウロ風にいうならば、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16)ということばとつながります。「外なる人」とは肉体的・身体的機能を持つ部分で、ヘブル語でいうならば「バーサール」(בּשָׂר)(目に見える部分)です。それに対して、「内なる人」とは神とのかかわりにおける霊的機能をもっている部分で、これもヘブル語でいうならば「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)(目には見えない部分)です。その霊的部分が日々新たにされていることが重要です。申命記6章では「心(レーヴ)を尽くし、精神(ネフェシュ)を尽くして、・・・主を愛せよ」とあります。
  • モーセの生涯は120歳でしたが、そのときの彼を、聖書は「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7)と記しています。これはモーセの目が白内障にもならずによく見えていたという意味ではありません。ヘブル的視点からみるなら、「目」は身体の中の一部分ではなく、「目」はその存在全体を意味します。ですから、「モーセの目はかすまなかった」とはモーセの内なる人は日々新たにされ続けていたことを意味します。それゆえ「気力も衰えることはなかった」のです。

3.「 内なる人が日々新たにされる」という継続的な積み重ね

  • 「内なる人が日々新たにされ続ける」なら、その延長線上に円熟した輝き、熟年の輝きが保証されます。ヘブル的な老人観はまさにそれなのです。外なる人は衰えることがあっても、内なる人が日々新たにされ続けることによってもたらされる重みのある輝きと充実感、それは継続的な積み重ねの結果だと言えます。
  • ヨシュア記は13章を境として前半と後半に分かれます。前半を総括する12章の終わりには、31人の王たちの名前があり、これらの征服した王たちの記録は、ヨシュアたちの霊的な歩みの継続的戦いの結果と言えます。一回一回の真剣な戦いの積み重ねの記録であり、決して一朝一夕にしてなされたものではないことを心に刻む必要があります。

4. 今日的課題

  • ヨシュアは24章で「私と私の家とは、主に仕える」(15節)と宣言しています。これは神から与えられた相続地を受け継がせていくために、家族全員が主に仕えることを告白しています。この告白の重要性は今日のクリスチャンホームがなさなければならない最も重要で、かつ早急な取り組みです。しかもこの取り組みは、神のご計画に参与するということにもなるのです。
  • 神から与えられている子どもの教育を、家庭に取り戻すということです。「学校教育」でも「教会教育」でもなく、「家庭教育」です。そのためには両親が「家族としての召命」を正しく受けとめて取り組む必要があります。第一のものを第一にするという精神を家庭の中で教育することです。教会の奉仕を優先させて家庭教育をないがしろにすることは、聖書的ではありません。子どもたちを教会へ連れて行くこと、教会学校に参加させることで良しと思っているならばそれは大間違いです。第一の取り組みは、家庭教育の中で神を第一とする生活を目に見える形で実現させることです。とても大変な取り組みですが、必ずや、大いなる実りがあるはずです。
  • 自分自身の「内なる人が日々新しくされる」と同時に、若いクリスチャンホームの両親たちに家庭教育を重視するよう励ます必要があります。そしてそこから流れ出る祝福を次の世代へと継承していく責任を促すべきです。

2012.3.30


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