こうして・・ヨシュアはその地をことごとく取った
ヨシュア記の目次
11. こうして・・ヨシュアはその地をことごとく取った
【聖書箇所】 11章1節~23節
はじめに
「こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。」(11:24)
- アイでの一時の敗北を別とすれば、約束の地での戦いにおける勝利はまさに破竹の勢いでした。11章24節は「その地に戦争はやんだ」と記して締めています。11章16節と23節にある「こうして」ということばはヨシュア記の信仰の戦いがどういうものであったかを振り返るキーワードです。
1. 「こうして」
- 「こうして」とあるからには、「どのようにして」そのような結果がもたらされたのかを振り返る必要があります。「こうして」と訳されているヘブル語は単なる普通の接続詞の「ヴァ」(וַ)です。16節と23節はいずれも「ヴァイッカハ」(וַיִּקַּח)とあります。接続詞の「ヴァ」(וַ)と「取った」を意味する「ラーカハ」(לָקַח)の未完了形です。ヴァヴ継続法で意味としては完了形です(「ラーカハ」לָקַחは獲得用語です)。
- 10章では西側の町を「いちどきに」占領しました。後にその地はユダ族が受け継ぐ地となります。11章では北方の連合軍と長い間戦った後に、すべてのものを取りました。19節にはカナンの地でギブオンの住民を除いてはイスラエル人の和を講じた町はひとつもなかったとあります。
(1) 完全に一掃させるために王たちの心をかたくなにした
- 「こうして」における「どうして」の理由の一つとして、主が彼らの心を頑なにして戦わせたと言えます。これはエジプトのパロに対して同じことをしました。やがて神の民となるイスラエルが、エジプトから完全に縁を切るためにそうさせたのでした。カナンにおける戦いにおいても、ギブオンの住民を除いては、彼らがその地から完全に一掃されるために、また少しの偶像が入り込まないように、カナンに住む多くの王たちの心をかたくなにして戦わせ、聖絶させたのです。
(2) ヨシュアの奇襲的戦術
- イスラエルはカナンの軍勢に比べるならば、人間的には完全に劣っています。一方のカナンは多くの馬と戦車を有する軍勢です。まともに戦うならば勝ち目はありません。イスラエル側の戦術の多くは、夜襲、奇襲、不意打ちといったものでした。夜の戦いであれば、馬や戦車を用いることはできなからです。また神も自然界の雨や雹といった奇蹟を通して戦われました。
(3) ヨシュアと民の信仰的姿勢
- 「こうして」の理由となる最も重要な戦術は神を信頼するということです。みことばに忠実に聞き従うかどうかその一点に集約できます。
2. 神以外のものには決して頼らないという捨て身の信仰
- この戦いで顕著なことは、戦利品としの馬の足の筋を切ることと戦車を火で焼くことでした。それはそのような殺傷力のあるものに頼らせない、それに依存させないためでした。唯一、神にのみ頼ることが求められています。
- 戦いの勇士であったダビデはその生涯の戦いにおいて、あるとき600頭の馬の足の筋を切らなかったことを聖書は記しています。イスラエルの王は神を信頼させるために、馬の足の筋を切ることをモーセは語っていましたが、ダビデの子ソロモンに至ってはむしろ、馬を買い求めました。とすれば、ヨシュアと彼が率いる民たちの戦いが神によって完全に勝利がもたらされた理由は、彼がモーセに語られたことを一言も取り除くことなく、むしろ従順に従ったことにありました。
- このように、非常識とも思える神の命令を実行することで、ヨシュアはカナンの地の連合軍を完全に打ち破ることができたのです。イスラエルは軍備力においても、経済力においても、なんら秀でたものはありませんでした。むしろその領域においては完全に弱いのです。しかし彼らは連合軍にはないものをもっていました。それは神に対する信頼です。この信頼に立つ時、神は考えられないような大きなみわざをなさってくださるのです。弱き者、小さな者に対する神の励ましを心に留めたいと思います。
恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。
2012.3.28
a:7434 t:1 y:1