「光あれ」、すると光があった
【聖書順索引】
53. 「光あれ」、すると光があった
【聖書箇所】 創世記1章3節、4節前半
【読み】
3 ヴァヨーメル エローヒーム イェヒー オール ヴァイェヒー オール
4 ヴァヤルー エローヒーム エット ハーオール キー トーヴ
【文法】
「ヴァヨーメル」וַיֹּאמֶרの「ヴァ」וַは未完了の動詞についてそれを完了の意味に変える力を持つ「継続ヴァヴ用法」と言われるものです。
【翻訳】
【新改訳改訂3】
3 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。
4 神は光を見て良しとされた。
【口語訳】
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。
【新共同訳】
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。
【NKJV】
3 Then God said, "Let there be light"; and there was light.
4 And God saw the light, that it was good;
【瞑想】
「神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」という「光」の創造において、神はその光を「よし」と見られたというフレーズに注目したいと思います。
「神は見て、それをよしとされた」ー「ヴァヤルー・エローヒーム・キー・トーヴ」は創世記1章に見られる定型句です。1:4, 10, 12, 18, 21, 25, 31。この「良しとされた」という意味は、私たち人間の視点や基準で「良かった」ということでは決してありません。神の目には良かったのです。だとすれば、神の目にはどのように良かったのでしょうか。そのニュアンスを理解したいのです。
神が創造された最初のものは「光」でした。3節で「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」と聖書はしるしています。「そのとき」とは、「やみが地を覆っていた」のです。そこに神は、『光よ。あれ。』と命じたのです。尾山訳(現代訳聖書)は、この部分を「神が一声、『光は、出て来い』と仰せられると、光が出て来た」と訳しています。そして、「神はそれをご覧になって、満足された。」と訳しているのです。そして1章の最後の31節では、「このようにして、神は、お造りになったすべてのものをご覧になった。それはすばらしいものであった。」と訳しています。
「トーヴ」というヘブル語を「良しとする」という言い方ではなく、神の目に、神のみこころに「満足する」ものであったと訳しているのです。決して、意訳ではなく、原語のもつ意味合いを表現したすばらしい訳だと私は思います。
神は見て、「良しとされた」の「キー・トーヴ」とは、神が光を創造されたときに、神の口から発したことばですが、実に、これは神の感動を表わす表現です。すべての被造物が「はなはだ良かった」という神の感動は、光の創造と深く関連しています。創世記1章3節の「光」は、光源としての光ではなく、神と被造物とのかかわりのいのち、かかわりの秩序を意味します。なぜなら、「光」の中にすべてのものが創造され、そして存在しているからです。それまですべてが混沌、茫漠、かかわりなき世界でした。そこに「光」が創造されたのです。
使徒パウロはこの「光」の創造について次のように表現しています。その前に、パウロは(彼はキリストに出会う前はサウロと言っていましたが)、ダマスコへの途上で突然「天からの光」に照らされました。彼は「天からの光」によって目が(開いてはいますが)見えなくなりました。三日間、暗闇の中で、また一切の飲食も絶って、彼は自分に起こったことを考え巡らしていたことと思います。そして三日目にアナニヤという主の弟子が主から遣わされて来て、彼の頭に手をおいて祈った時、目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになったのです。そして彼は立ち上がりました。「目が見えるようになった」というのは、単に肉体的な目が見えるようになったことだけを意味しません。霊の目が開かれて、彼が迫害してきたイエスこそ、メシア(キリスト)であることを論証するほどに(ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせるほどに)なったのです。なにが彼をそうさせたのでしょうか。―その答えは「天からの光」です。
その光を受けたパウロが「光」を創造された神について説明するときに次のように語っているのです。
「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(Ⅱコリント4章6節です。)
この節を尾山訳でみると次のようになります。
「『光がやみの中に輝け』と言われた神は、キリストの御顔にある栄光の知識を理解させてくださったのである。」
「キリストの御顔にある栄光の知識」とは、キリストの「福音」のことです。つまり、天からの光なしに福音を理解することができないということです。ですから、ここでは「光」は、悟りを与える光であり、私たちに神とのかかわりを与えるいのちの光、救いの光、恵みの光、愛の光、福音の光なのです。
2013.4.8
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