10.詩篇18篇の神への信頼
詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。
10. 詩篇18篇に見る神への信頼(43~45節)
ベレーシート
- 表題には、「指揮者のために。主のしもべダビデによる。主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った。」とありますから、この設定の枠の中で解釈しなければなりません。と同時に、詩篇を書いたダビデ自身が「預言者」でもあったのですから、そこにダビデを型としたメシア的預言が含まれていると考えることができます。これは神のご計画のマスタープランを理解する上で重要な聖書の解釈法です。たとえば、43節の「あなたは、民の争いから、私を助け出し」という部分を、自分に語られているみことばと解釈して理解するなら、聖書が語ろうとしていることから離れていきます。聖書のことばを常に自分に対して語られていると思い込む読み方は、ある意味で、神のご計画を見えなくさせて行く読み方です。ですから、鳥瞰的視点(=神の視点)から聖書を読むという訓練が求められます。
- さて、今回の瞑想箇所は43~45節の箇所です。
【新改訳改訂第3版】詩篇18篇43~45節
43 あなたは、民の争いから、私を助け出し、
私を国々のかしらに任ぜられました。
私の知らなかった民が私に仕えます。
44 彼らは、耳で聞くとすぐ、
私の言うことを聞き入れます。
外国人らは、私におもねります。
45 外国人らはしなえて、
彼らのとりでから震えて出て来ます。
1. 民の争いから助け出されたダビデ
- 43節 の「あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらに任ぜられました。私の知らなかった民が私に仕えます。」という背景には、ダビデの生涯においてどんなことが考えられるでしょうか。
- この節には、「民」と訳されたヘブル語の単数形の「アム」(עַם)が2回、そして「国々」と訳されたヘブル語の複数形の「ゴーイム」(גּוֹיִם)が1回使われています。前者の「アム」は同族の者を意味し、後者の「ゴーイム」は異邦人たちを意味します。前者と後者がどのように結びつくのでしょうか。
- ダビデはイスラエルの王となる前に、同族との争いを経験しました。具体的にはサウル家とダビデ家との抗争です。サウルが生きている時も、サウルが死んでからも抗争は続きましたが、特に、サウルの死後、サウル家の中には様々な動きが進行してサウル家の中にも抗争が起こるようになります。そんな状況の中で、ダビデはヘブロンに行き、ユダの人々から油注がれて王となりました。
- 当時のユダの中心はヘブロンでした。七年半、ダビデはユダで王として治めました。最初の二年間は、サウル家との抗争に巻き込まれますが、「雨降って地固まる」ように、次第にサウル家の勢力は弱まり、ダビデ家の勢力は逆に強まっていきました。そこでイスラエルの全部族(=全長老)はヘブロンのダビデのもとに来て、ダビデをイスラエルの王としたのです。これが、43節の「あなたは、民の争いから、私を助け出し、私を異邦人のかしらに任ぜられました。」という意味です。
- ダビデは預言者サムエルを通してイスラエルの王となることが語られ、そのための油注ぎを受けていましたが、自分からイスラエルの王とはならなかったのです。しかし時が来たとき、イスラエルの全部族から「イスラエルの王」として要請されたのです。それからの33年間、ダビデはエルサレムで全イスラエルとユダとを治めたのです。
- それからというもの、ダビデは周囲の国々(=異邦人たち「ゴーイム」גּוֹיִם)と戦い、勝利を治めて行きます。「私の知らなかった民が私に仕えます」とありますが、その「民」とは全イスラエルとしての同族を意味すると考えられます。ダビデによって全イスラエルは一枚岩となったことを意味します。このことを44節では「彼らは、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。」と記しています。
- 44、45節の「外国人ら」と訳されたヘブル語の「ベネー・ネーハール」(בְּנֵי־נֵכָר)は「外国の民」「外国の子ら」という意味ですが、戦いに敗れてダビデの支配下に置かれた外国の民たち、力を削がれた異国の者たちを意味します。なかには「おもねり」(へつらい)ながら、ダビデに仕えるようになった者たちもいたようです。これは、メシア王国(千年王国)の「型」です。
2. メシア王国の視点からの解釈
- ダビデの治世はやがて訪れる「メシア王国」(千年王国)の型です。この王国は、サタンが幽閉されているために罪と支配がかなり抑制されている王国ですが、完璧ではありません。その証拠に、メシア王国の最後に、サタンが解き放たれて、地上での戦いが起こります。
【新改訳改訂第3版】黙示録20章7~10節
7 しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、
8 地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
9 彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
10 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
- たとえサタンが、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集して戦いをしようとしても、簡単に敗北してしまいます。重要なことは、このことを契機に、光とやみが完全に分かたれるという神のみこころが永遠に実現するということです。つまり、「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」ということが成就するのです。
2016.11.29
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