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1章4節


創世記1章4節

【新改訳2017】
神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。

ד וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת־הָאֹור כִּי־טֹוב
וַיַּבְדֵּל אֱלֹהִים בֵּין הָאֹור וּבֵין הַחֹשֶׁךְ׃

「ヴァッヤル エローヒーム エツト・ハーオール キー・トーヴ
ヴァッヤヴデール エローヒーム ベーン ハーオール ウーベーン ハホーシェフ」

ベレーシート

●使徒パウロはこの「天からの光」に照らされることで、はじめて自分が「闇」の中にいたことを知らされました。それだけでなく、それは彼の心を照らしてキリストにある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちもこの「天からの光」なしには、キリストにある神の栄光を知ることはできません。なぜなら、この世の神(サタン)が、キリストの栄光に関わる福音の光を輝かせないようにしているからです。

●しかし創世記1章3節の「光」は、キリストの栄光を表す福音の「光」です。イェシュアは自分のことを「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われました。創世記1章を意識して書かれたヨハネの福音書はまさにその「光と闇の相克」を描いていますが、「闇はこれ(光)に打ち勝たなかった」というのが、その結論です。

1. 「光を良しと見られた」

●「光がやみの中から輝くように」と呼び出された神は、「光」を 「良しと見られた」とあります。神はなにゆえに「光を良しとされた」のでしょうか。それは、「トーフー・ヴァヴォーフー」の地に、神の創造のわざを表わすためです。

●「良し」という語彙は「トーヴ」(טוֹב)です(1:4, 10, 12, 18, 21, 24, 31節)。31節に至っては「非常に良かった」(「トーヴ・メオード」טוֹב מְאֹד)とあります。この語彙は単に「良しとされた」だけでなく、神ご自身が「トーヴ」(טוֹב)な方でもあります。神がドーヴな方であるゆえに、その方が創造されるものはすべて良いということになるのです。「トーヴ」は常に人に対する神の恩寵の総称とも言える語彙なのです。

●神をたたえる詩篇の中に、「主に感謝せよ。まことに主はいつくしみ深い。」(「ホードゥー・ラドナイ・キー・トーヴ」הוֹדוּ לַיהוה כִּי־טוֹב)という定型句(106:1, 107:1, 118:1,29, 136:1)があります。これは神をたたえる永遠のフレーズです。このフレーズにはなにゆえに「主に感謝するのか」という問いかけがあり、その答えとして「主がいつくしみ深い(良い)から」だとしています。神がまず最初のわざとして「光」(אוֹר)を呼び出したのは、神の栄光が現わされて、すべてのものが主に感謝するようになるためなのです。このように、「神は光を良しと見られた」には、神の創造の究極的目的が示されているのです。神のトーヴに関する瞑想を参照のこと。

2. 「見られた」

●「神は光を良しと見られた」の「見られた」と訳された語彙は、ヘブル語の「ラーアー」(רָאָה)です。創世記1章では「良し」(「トーヴ」טוֹב)ということばと結びついて使われていますが、新改訳改訂三版では「良しとされた、ご覧になった」とも訳されています。しかし新改訳2017では、すべて「良しと見られた」で統一されています。神が「良し」とされることが、イスラエルにおける歴史的出来事となって、つまり、人の目に見える形として示されてくるのです。

●「ラーアー」(רָאָה)は、1章だけでも8回(4, 9, 10, 12, 18, 21, 25, 31節)出て来ます。ヘブル語の「知る」を意味する「ヤーダ」(יָדַע)、「聞く」を意味する「シャーマ」(שָׁמַע)と同様、「見る」は「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサム16:7)と語られたように、物事の表面的ではなく、深み、本質、核心を理解する概念です。神のご計画とみこころを正しく明晰な目でみて理解することです。旧約で「先見者」(「ホーゼ」חֹזֶה)や「予見者」(「ローエ」רֹאֶה)と言われる人は、隠されたことを見ることのできる人なのです。

3.「光」と「闇」とを「分けられた」

神は、光と闇とをはっきりと「分けられる」(区分される、分離される)方です。「分けられた」と訳されたへブル語の「バーダル」(בָּדַל)は、「区別する」と言う意味で創世記1章に5回(4, 6, 7, 14. 18節)使われています。

●神は「光と闇」だけでなく、「聖なるものと俗なるもの」、「汚れたものときよいもの」、「食べてよい生き物と食べてはならない生き物」とを区別される方でもあるのです。他にも、出エジプト記26章33節では「至聖所」と「聖所」を「仕切る」、民数記8章14節にあるように、イスラエル人のうちから(つまり、イスラエルのうちの初子の代わりとして神にささげるために)レビ人を「取り分ける」という意味で使われています。このように、「バーダル」は「区別する、分ける、より分ける、仕切る、取り分ける」を意味する聖別の概念なのです。これは、神と人との関係においてきわめて重要です。

●前節に記したように、「光」が神のご計画とみこころ、みむねと目的を示す概念だとするならば、「闇」は光を悟ることができないだけでなく、それを拒絶し、逆らう概念(力)なのです。それゆえ、パウロは次のように言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント6章14節~7章1節
14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」
7:1 愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。


2019.12.31
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