****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

06.「ヨハネの福音書4章の『二つのしるし』」


06.「ヨハネの福音書4章の『しるし』」

ベレーシート

●ヨハネの福音書4章には「二つのしるし」があります。一つは「ヤコブの井戸」であり、もう一つは「ゲリジム山」です。つまり「井戸」と「山」、これらの二つのしるしはサマリアにある「伝統的なしるし」です。それらに対して、イェシュアは「生ける水」と「霊とまことの礼拝」について語っています。主にある私たちの「井戸」は「神の御子イェシュアとその霊」です。それは汲み出す「井戸」ではなく、私たちの内から湧き出る源泉としての「泉」です。「井戸」は「聖書知識や神学、伝統的な教理」を意味します。これらすべては「ヤコブの井戸」の類です。また「山」も然りです。「山」は「神殿」を象徴します。サマリアのゲリジム山にある神殿か、あるいはエルサレムの神殿かといった礼拝の場所ではなく、神はいつの時代でも「霊とまことによる礼拝」を求めておられるのです。ヨハネ4章の舞台は「サマリア」であり、そのサマリアに住む一人の「女」が登場します。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章3~6節
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時(=午前九時~正午まで)であった。


1. 神の必然 

●4節に「サマリアを通って行かなければならなかった」とあります。ヨハネの福音書4章には「神の必然」を表す語彙「デイ」(δει)が3回使われています。
①4節 しかし、(必ず)サマリアを通って行かなければならなかった
②20節 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、(必ず)礼拝すべき場所はエルサレムにある(でなければならない)と言っています。
③24節 神は霊ですから、神を礼拝する人は、(必ず)御霊と真理によって礼拝しなければなりません

●「必ず・・・しなければならなかった、しなければならない」という神の必然は、神のご計画において予め定められているということです。それは「あの書」(=いのちの書)に名が記されているなら、必ず歴史の中でイェシュアと出会い、イェシュアを信じて救われ、永遠のいのちを得ることが定まっているのと同様です(ダニエル12:1~2)。人間的に見るなら偶然と思えるようなことが、実は神がそうなることを予め定めておられたということを意味します。神には偶然というものは存在しません。偶然とは、であるならば、そこにだれの意思も存在していないということです。似たような神の必然が、ルカの福音書19章のザアカイとの出会いにおいても見られます。取税人のかしらで金持ちであったザアカイは、イェシュアがどんな方かを見ようとしていちじく桑の木に登りました。ところがイェシュアはそのいちじく桑の木の下に来られて、上を見上げてこう言ったのでした。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」・・「泊まることにしている」、いったいだれがそんなことを決めたのか、イェシュアが決めておられたのです。ザアカイにとって、いちじく桑の木に登ったのは自分の背丈が低くて見えなかったため、たまたま近くにあった木に登ったに過ぎません。彼にとっては偶然でしかありませんでしたが、その木の下でピタリ、イェシュアの足が止まったのです。偶然ではありません。神の必然です。彼の家に泊まることにしてあったのです。この「神の必然」によって、ザアカイはイェシュアを自分の家に招くことになり、彼の人生が一変するようなことが起こったのです。

●「今日、救いがこの家(=イスラエル)に来ました」とイェシュアは宣言されました。それゆえ、彼は財産の半分を貧しい人たちに施し、脅し取った物を四倍にして返すということを律法に従って決心したのです。「四倍」の「四」に込められている奥義は、やがてイェシュアが語った「御国の福音」を全世界に宣べ伝えることによって、数えきれない大勢の異邦人を救うことになる出来事(マタイ24:14)を啓示しています。つまりザアカイは、やがて歴史に登場する「イスラエルの残りの者」の型です。神の必然が引き起こす奇蹟がザアカイの出来事に秘められています。

2. サマリアとサマリア人

●さて、主は「主はユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった」(3~4節)とあります。なぜ「サマリア」なのでしょうか。この4節の「しかし」は、単なる「しかし」ではなく、人間の常識を越えた「しかし」でした。ユダヤ人ならば絶対に避けるべきルートでした。つまりユダヤ人はサマリアを避けて、ガリラヤ地方に行くのが常識でした。なぜならユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲だったからです。

●B.C.700年、アッシリアがサマリアを占領して、その地にバビロンや他の異教の地からの移住者を連れて来ることによって北イスラエルの民と雑婚させ、そのことによって彼らは「混血の民」とされました。そのためにユダヤ人は彼らを「サマリア人」とし呼び、ユダヤの民の一部として認めなかったのです。またサマリア人は、サマリアのゲリジム山で異教の偶像を持ち込んで礼拝し、イスラエルの神とも混合させました。それゆえユダヤ人は彼らとの交際を一切しなかったのです。サマリア人に見られる混合宗教は、今日のキリスト教会でも実は起こっています。たとえば、クリスマスやイースターがそうです。これらの祭りには異教的なものが混在しています。では、このような異教的なものを完全に取り除けば良いのかと言えば、そうでもないのです。そのことを示すためにイェシュアはあえて「サマリアを通って行かなければならなかった」のです。その必然性を示すのが「デイ」(δει)です。4節の「デイ」がなぜか未完了形になっています。おそらくその意味は、同じ問題がいつの時代にも起こってくるからかもしれません。むしろ、事の本質に目が開かれる必要があるのです。その意味において、ヨハネ4章が提示している伝統的な「ヤコブの井戸」と「礼拝の場である」を通して啓示される「生ける水」と「霊とまことによる礼拝」は、サマリア人だけではなく、私たちにとっても重要な霊的事柄と言えるのです。

●ところで、神の必然は「きわめて日常的な出来事の中に」働かれます。その証拠に、ヨハネの福音書4章に登場するサマリアの女は、いつものように水を汲みに井戸にやって来て、そこでイェシュアと出会います。女の側から見れば、偶然、そこに見知らぬ一人の男がいたということになります。しかし神の側では彼女に会う必然があったのです。それはザアカイと同様に、イェシュアの方から常識を越え、タブーを犯してまで、渇きを持つ一人の女性に近づいたのです。この「サマリアの女」も単に個人的な出来事で終わる話ではありません。ザアカイが「イスラエルの残りの者」の型だとするなら、サマリアの女は「散らされたイスラエルの民」の型とも言えるのです。

3. 渇くことのない「生ける水」への気づき

●イェシュアの方から彼女に近づいたことで、最も大切な部分、奥深い部分に焦点が当てられていくのを私たちはこれから見ることになります。そんなことになるとは露知らず、サマリアの女はイェシュアの話すことばに受け答えしていきます。しばらくこの二人の会話に耳を傾けてみましょう。

●まず、イェシュアの方から女に声をかけます。「わたしに水を飲ませてください」と。神の必然は神の方から何らかの声がかかります(ザアカイの時もそうでした)。イェシュアの声を聞いた彼女は驚きます。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか」。「どうして」と聞いたのは、ユダヤ人とサマリア人が犬猿の仲だったからです。かつては同じ仲間、親類関係でしたが、ある時からユダヤ人はサマリア人を軽蔑するようになり、いつも見下していたのです。それは宗教的理由からです。そのユダヤ人であるイェシュアが今、腰を低くして「水をください」と頼み込んでいる姿に彼女は驚いたのです。彼女の驚きはさらに続きます。それはイェシュアが彼女に語ったことばです。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

●このイェシュアのことばは、彼女にとって全く訳のわからないことばだったと思われます。「神の賜物」とか、「水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのか」という三人称的な表現、彼女はその意味が分からず「なに、それ? 」といった感じです。わからないけど、なにやら「生ける水」という不思議なものがあるらしい。もらえるものなら、なんでも・・と思ったかもしれません。でもそれをどこから、どうやって汲むのか彼女には疑問でした。そして尋ねました。「その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか」。水は井戸から汲むものという考えしかない彼女に、イェシュアはこう答えます。「この(井戸の)水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(13~14節)。

● 10節では「その人」と三人称で語られた人物が、14節では「わたし」の一人称に置き換えられます。そして「生ける水」が、「わたしが与える水」というふうに言い換えられます。そしてさらに、その 「生ける水」がどのようなものかをより詳しく説明しています。

①「渇くことがない」 
②「人の内で泉となる」 
③その泉は「永遠のいのちへの水が湧き出る」

●「ヤコブの井戸」が啓示しているのは、たとえすばらしい伝統(宗教的遺産)であったとしても、それは人の渇きを満たすことが出来ないということです。水が食物よりも重要であるように、渇きは飢えよりも深刻です。「渇き」は死そのものを表します。ですから、イェシュアが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われるのは、まさに福音なのです。このやり取りの中で彼女は少しずつ変化しています。「私が渇くことのないように、その水を私に下さい」と話が展開していきます。イェシュアは彼女の内に自ら求める心を呼び覚ましました。イェシュアから「水を飲ませてください」と求められた彼女が、今度は彼女自身の方からイェシュアに対して「その水を私に下さい」と求める者に変わったのです。しかしこの時点では、彼女は「生ける水」が「イェシュアの霊」であることに気づいていません。「ヤコブの井戸」の水はまた渇きます。しかし「イェシュアの与える水は渇くことがなく、その人の内で泉となり、湧き続ける」のですが、いまだそれに気づいていません。イェシュアがこの行き違いを正しく修正しようとして語ったのが、16~18節のやり取りです。このやりとりで、女はついにイェシュアに対し、「主よ。あなたは預言者だとお見受けします」と言うのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章16~19節
16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。

●このやり取りから何が分かるのでしょうか。一見、ここだけ読むと「サマリアの女」を不道徳な女だと判断してしまいます。なぜなら、「夫が五人いたが、離婚を繰り返して、今では夫ではない男と一緒にいる」と理解してしまうからです。あるいは、それほどに真の愛を求め続けた女なのだと感心してしまいます。しかしそれは「たましい」による理解です。ヨハネの福音書は「しるしの書」であることを念頭に置いて読まなければなりません。イェシュアの「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」というのが、「しるし」なのです。「夫が五人いた」の「五」とは、神のトーラーの根幹である「モーセ五書」を意味し、それは「イェシュアを証しするもの」です。6章の「五千人の給食」にある「五つのパンと二匹の魚」にある「五つのパン」も、「モーセ五書」を啓示しています。単なる食べるパンの話ではありません。しかもそのパンは「大麦」であることをヨハネはわざわざ記しています。「大麦」とは「復活されたイェシュア」を証しするものです。ですから、そのパンを食べると、なくなってしまうどころか、食べれば食べるほどパンは増え続けるという話なのです。これは「天からのパン」であるイェシュアを啓示しています。しかし4章は「パン」ではなく、「渇くことのない生ける水」がイェシュアご自身であること、あるいは「イェシュアの霊」であることを、復活の視点から啓示しています。このイェシュアこそが「あなたに生ける水を与える」と言っているのです。

●イェシュアの語る一つ一つのことばは、「霊であり、いのちです」(6:33)。ここからの二人の対話はこれまでとは各段に異なっています。「私には夫がいません」と言った女のことばに対して、イェシュアは「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです」と語ります。「そのとおりです」と訳された「カロース」(καλῶς)は副詞でまことに、「適切に、見事に、良く」といった意味で、「しるし」を適切に表現したことをほめているのです。イェシュアの言う「あなたには夫が五人いた」とはどういうことでしょうか。それは神のトーラーの根幹である「モーセ五書」のことであり、かつてそれがあなたの夫であったと言っているのです。サマリアの女、つまり北イスラエルはかつて神のトーラーを信じる民であったということです。しかし「今一緒にいるのは夫ではない」というのは、異教が混合してしまったことを意味しているのです。

4.霊とまことの礼拝

●女はここで霊的な覚醒を覚えて「主よ。あなたは預言者です」と告白しています。そして話が礼拝の場所(山)に移っていきます。もし不道徳な女が礼拝の場所についてイェシュアに質問しているとしたら、不思議だと思いませんか。不道徳な女が礼拝の場所について、ユダヤ人とサマリア人の違いを質問するでしょうか。しているのです。サマリア人にとってゲリジム山は聖なる場所とみなされ、礼拝に使われた場所でした。この女は「あなたは本当のことを言いました」というイェシュアのことばが、次元の異なる霊的な事柄であると気づき始めているのです。そしてイェシュアは神が求めている礼拝は特定の場所ではなく、霊の部分において神を礼拝すべきことを語ったのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章20~24節
20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、
あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。
この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

●24節に「神の必然」で述べたように「デイ」(δει)があります。原文では「神を礼拝する人は、必ず御霊と真理によって礼拝しなければなりません」となっています。アシュレークラス主催の「受難週」(3/24~/29)と「種なしパンの祭り」(3/31~4/7)を通して、「霊とまことの礼拝」を毎日曜の夜(20:00~)にささげるよう導かれました。これによって、毎日が「みことば漬け」の毎日となります。それは詩篇1篇にある「幸いなのは、その人(=イェシュア)」のように、日々、みことばを瞑想しながら、内なる主とともに生きる者となることです。これまでの礼拝と異なる点は、前もって与えられるテキストを各自が瞑想することによって参加するという点です。また、Ⅰコリント人への手紙14章1,3~4節にある「預言する」ことを含んでいるという点です。それは礼拝に参加する人が預言者になるのではなく、みことばを通して「人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話す」ということです。「霊とまことによる礼拝」を神が望んでおられるからです。来週の4/21から始まります。これはアシュレークラスのメンバーによる「パン裂き」集会となります。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙14章1、3~4節
1 愛を追い求めなさい。・・特に預言することを熱心に求めなさい。
3 ・・預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
4・・・預言する人は教会を成長させます。


5. 「イェシュアを信じた」ということ

【新改訳2017】ヨハネの福音書4章28~30節、39~42節
28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた
40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

●28節で「彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った」とあります。これは象徴的な行為です。イェシュアの「生ける水」を得るためには、自分の水がめは何の役にも立たないことを表しているからです。そして続く29節では、彼女が町へ行き、そこの人々に「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」と証ししました。柳生訳はこの節を「わたしのことを何もかも知っている人に出会った」と訳しています。「私のことを何もかも知っている人に出会う」。そんな出会いが起こるなんてあり得ないし、あっても滅多にないし、そんな出会いなど一生することもなく終わってしまう人が多い中で、「私のことを何もかも知っている人との出会い」は、まさに神の必然の出会いと言えるのではないでしょうか。その彼女がサマリアの町に行って証ししたことで、その町の多くのサマリア人が「イェシュアを信じた」とあります。

●「イェシュアを信じる」ことを、ギリシア語では「ピステューオー・エイス・ホ・イエースース」(πιστεύω εἰς ὁ Ἰησοῦς)となります。「イェシュアを」の「」と訳されている「エイス」(εἰς)は、「~の中へ、~の中へと入り込む」ことをも意味する前置詞で、ウイットネス・リー(回復訳)はこれを「イエスの中へと信じる」と一貫して訳しています。「ピステューオー・エイス」は、ヨハネ文書とパウロ書簡が主に用いている表現です。56回中、ヨハネ文書は36回、パウロ書簡は12回、その他は、マタイ1回、マルコ1回、使徒5回、ぺテロ1回の計8回です。「ピステューオー・エイス・ホ・イエースース」は、イェシュアの中へと入り込んで「イェシュアと一つになること」を意味します。それは、イェシュアが死からよみがえって「いのちを与える霊」となって私たちの霊を再生し、その中に内住することなしにはあり得ないかかわりなのです。そのかかわりがすでに包括的に実現しているからこそ言えることです。このかかわりがなされている事実を信じることを、回復訳は「イエスの中へと信じる」と訳しているのです。ヨハネの福音書ではこの意味とほぼ近い「とどまる」(「メノー」μένω)があります。この語彙も霊の中の事柄です。イェシュアを対象として信じるということではないのです。イェシュアを対象として信じる場合もありますが、その場合には、「エイス」という前置詞は使われていません(例:6:30) 。

●「イェシュアを信じた」=「イェシュアの中へと信じた」。そのフレーズはイェシュア(イェシュアの霊)と一つになったことを表現するものです。ヨハネの福音書でこの表現が使われているのは、以下の33箇所です。聖書にチェックをして、「エイス」(εἰς)の味わいを何度も繰り返して、瞑想して味わうことをお勧めします。

(1) 2章11節 
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを (=彼の中へと)信じた。」
(2) 2章23節 
過越の祭りの祝いの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を (=御名の中へと) 信じた。
(3) 3章15節 
それは、(彼の中へと)信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(4) 3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を (=彼の中へと) 信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(5)3章18節
御子を (=御子の中へと) 信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
(6) 3章36節 
御子を (=御子の中へと) 信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
(7) 4章39節 
さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを (=イエスの中へと) 信じた。
(8) 6章29節 
イエスは答えられた。「神が遣わした者を(=遣わした者の中へと)あなたがたが信じること、それが神のわざです。」
(9) 6章35節 
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを(=わたしの中へと)信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
(10)6章40節 
わたしの父のみこころは、子を見て(彼の中へと)信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
(11)7章 5節 
(彼の)兄弟たちもイエスを(=彼の中へと)信じていなかったのである。
(12)7章31節 
群衆のうちにはイエスを(=彼の中へと)信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。
(13)7章38節
わたしを(=わたしの中へと)信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
(14)7章39節
イエスは、ご自分を(=ご自分の中へと)信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。
(15)7章48節
議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを(=彼の中へと)信じた者がいたか。
(16)8章30節
イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを(=彼の中へと)信じた。
(17)9章35節
イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を(=人の子の中へと)信じますか。」
(18)9章36節
その人は答えた。「主よ、私が(その方の中へと)信じることができるように教えてください。・・」
(19)10章42節
そして、その地で多くの人々がイエスを(=彼の中へと)信じた。
(20)11章25節
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを(=わたしの中へと)信じる者は死んでも生きるのです。
(21)11章26節
また、生きていてわたしを(=わたしの中へと)信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
(22)11章45節
マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを(=彼の中へと)信じた。
(23)11章48節
あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を(=彼の中へと)信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」
(24)12章11節 
彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを(=イエスの中へと)信じるようになったからである。
(25)12章36節
自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を(=光の中へと)信じなさい。」イエスは、これらのことを話すと、立ち去って彼らから身を隠された。
(26)12章37節
イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを(=彼の中へと)信じなかった。
(27)12章42節
しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを(=彼の中へと)信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。
(28)12章44節
イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを(=わたしの中へと)信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。
(29)12章46節
わたしは光として世に来ました。わたしを(=わたしの中へと)信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。
(30)14章 1節
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを(=わたしの中へと)信じなさい。
(31)14章12節
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを(=わたしの中へと)信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
(32)16章 9節
罪についてというのは、彼らがわたしを(=わたしの中へと)信じないからです。
(33)17章20節
わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを(=わたしの中へと)信じる人々のためにも、お願いします。

●ヨハネの福音書は時系列ではなく、むしろイェシュアの復活の視点から書かれているのです。とすれば、イェシュアの「息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』」のことばは、何と偉大、かつ重要なことばであることでしょうか。シェーム・イェシュアをほめたたえます。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2024.4.14
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