自分に与えられた立場を見失うとき
民数記の目次
10. 自分に与えられた立場を見失うとき
【聖書箇所】 12章1節~16節
はじめに
- 前章においてイスラエルの民が「肉を食べたい」とつぶやいたその真の問題点は、彼らが自分たちが神が日々の必要な糧として与えられた「マナ」にあきてしまったということです。その「マナ」に実に不思議な食べ物で保存はききませんでした。にもかかわらず、安息日の前の日には二日分のマナが降りても次の日まで保存可能だったのです。「マナ」は単に食糧としてだけでなく、霊的な意味をもっていました。それは日々必要だけ自分の手で摘み取り、それから料理しなければなりませんでした。今日の私たちにも天からの霊的なパンであるみことばが備えられています。キリスト者は神の口から出る一つ一つのことばによって生きる者であることをイエスは語られました。もし、私たちがその天からのパンであるみことばを味わうことに飽きてしまい、もっと他のおいしい食べ物を得ようとすれば、霊的ないのちを損なうことになります。民数記11章はその警告として記された出来事だと言えます。
1. モーセに対するミリアムの非難の真相
- 12章では、自分に与えられている持ち場、立場が不明瞭に思える時、引き起こされる問題です。それは民ではなく、モーセの姉ミリアム(新改訳2017から「ミリヤム」が「ミリアム」に表記が変わりました)が抱えた問題でした。表面的にはモーセの妻が異邦人であることへの非難でしたが、その非難の真相はモーセに与えられている特別な地位に対する嫉妬でした。なぜなら、モーセはいつでも神のところに出入り自由であったからです。
- アロンはモーセの代弁者として神のことばを語りましたが、神から直接に語られるということは稀でした。ミリアムはエジプトを脱出したあと、「女預言者」としてタンバリンを手に取り、同じくタンバリンをもった女たちとともに賛美を導き、「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」と歌いました。ミリアムには「女預言者」としての指導的カリスマが与えられていたようです。しかし彼女が自分の立場を見失ったとき、自分にはない特別な地位と立場を与えられている弟のモーセを妬ましく思うようになったのです。
- そのことを知った主は「アロンとミリアム」を自分のもとに呼び、モーセに与えられている特別な地位と立場を擁護し、彼らを非難されました。そしてミリアムはツァラアトに冒され、宿営の外に締め出されました。兄のアロンが悔い改め、モーセに対してミリアムのためのとりなしを願ったことで、モーセは彼女がいやされるように祈りました。結果としては、ミリアムは七日間宿営の外へ締め出しを喰らいましたが、そのあとでいやされました。民はそれを見守っていたようです。なぜなら、これは単に兄弟間の問題ではなく、民全体の教訓となるべきものであったからです。
2. モーセの人となりの評価
- この章でモーセという人物が主によってどのように評価されているか、あるいは、「人称なき存在(聖霊)」によってどのように評価されているかを見てみたいと思います。
(1) 主ご自身によるモーセの評価(12:7)
①「イスラエルの全家において忠実な者」
これは、モーセがもっとも信頼に足るべき人物であるということです。モーセと主は、「口と口とで語り」とあります。これはだれの仲介もなく直接にといういう意味ですが、バルバロ訳はよく理解できるように「顔と顔を合わせて」と意訳しています。また、友人のように隠れた秘密を話すという意味で、「なぞで話すことはない」としています。②「神のしもべ」
主は「わたしのしもべモーセ」と語っています。「しもべ」とは文字通り「奴隷」のことです。しかしここでの「しもべ」はエジプトでの「奴隷」という意味ではなく、また自由意志の全くない「奴隷」という意味でもなく、むしろ反対に自らの意志をもって神の「奴隷」となることを願った者という意味での「しもべ」です。やがて使徒パウロはそのような称号を使います。「キリスト・イエスのしもべパウロ」というふうにです。罪の奴隷であった者が救われて義の奴隷となった。「義の奴隷」それは自ら進んで神の奴隷となったということを意味しているのです。
聖書における最高の称号は「神のしもべ」です。この称号をモーセは与えられました。そしてやがて神ご自身の御子イエス・キリストにおいて、より完全なかたちとしての「神のしもべ」を私は見ることになります。
(2) 人称なき存在によるモーセの評価
- 「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(3節)この12章3節の訳は新改訳聖書です。他の聖書でも見てみましょう
【口語訳】
モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。【新共同訳】
モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。【岩波訳】
さて、モーセは非常に謙虚な人物であり、地の表のどの人間にもまさってそうであった。【バルバロ訳】
モーゼは実に柔和な人だった。この世に住んでいるだれよりも穏やかな人だった。
- 「謙遜な、柔和な、謙虚な、穏やかな」という訳の原語は「アーナーヴ」עָנָוという形容詞です。ヘブル語原文ではこのことばがなんと二つも並べられています。それはヘブル語の強調表現です。但し、読む時には一方だけ読むと指定されています。バルバロ訳はこのことばのニュアンスを伝えるために、「柔和な」という訳と「穏やか」という二つの訳語を用いています。本来、一つの原語に対して一つの訳語ですが、二つの訳語を使わなければならないほどにこの「アーナーブ」の意味は微妙だということです。
- LXX訳ではこの「アーナーブ」עָנָוを「プラウース」πραύςと翻訳しました。この「プラウース」πραύςということばは新約聖書で4回使われています。すべて新改訳で見てみます。
(1) マタイ5章5節
「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」
※塚本訳はここを「(踏みつけられて)じっと我慢している人たち」と訳しています。
(2) マタイ11章29節
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
(3) マタイ21章5節
「‥見よ。あなたの王が、あなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って。それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。」
(4) 1ペテロ3章3~4節
「・・のような外面的なものでなく、むしろ、柔和でおだやかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」
- 「プラウース」πραύςの名詞形は「プラウーテース」παύτηςです。新約では11回使われていますが、「柔和」と「謙遜」とは使い分けられています。「プラウース」πραύςのイメージは、だれかに非難されたときにそれに即座に反応しない心の構えです。仕返ししたりしない心です。黙って我慢できる心と言えます。そのような者は約束の地(キリストにある霊的な祝福)を必ず受け継ぐことができるということです。そのような心の構えは、人の目には「穏やかな人、心優しい人」として映るはずです。また、人の目を気にしません。外見にこだわりません。
- 神のしもべであったモーセは指導者であるがゆえに、民から多くの無理難題や不平不満をもろに受ける立場にありました。しかしその彼の心の苦しみを理解できる者はいなかったようです。なぜなら、モーセはそれを人の前であらわにしなかったからです。常に、彼は神の前で心を開きましたが、人の前で自分の思いを出すことはありませんでした。民数記の12章を見ても、姉のミリアムの非難に対しても沈黙をも待っています。このような態度が取れる人が「アーナーヴ」עָנָוな人、あるいは「プラウース」πραύςな人なのです。
- モーセの他に「アーナーヴ」עָנָוな人を捜すとすれば、旧約では「イサク」がその人です。彼は神の祝福されたことでペリシテ人から嫉まれて井戸を塞がれます。しかしイサクは次の井戸を掘ります。そこも塞がれると次の井戸をほりました。イサクのその柔和さに驚いたペリシテ人の王は、神を恐れて平和条約を結んだほどでした。ダビデもサウロ王の妬みによる追撃をなんども受けながらも、それに対しては一切、反撃することなく、神の御手にゆだねました。新約でも使徒パウロをはじめとして、人々からの多くの不当な非難や迫害に会いながらも、それに対して「じっと我慢できる人」こそ「柔和な人」だということが言えるのです。
- キリストこそその人です。なぜなら、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」(1ペテロ2:23)それは、私たちを救うためであり、私たちが罪から離れて義のために(神との正しいかかわりを持って)生きるためです。
- まさに、「柔和さ」は聖霊による結実です。そこにはひたすら神によって支えられているという信仰的な確信が横たわっているのです。
2012.1.28
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