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終わりの日におけるシオンの回復の預言


8. 終わりの日におけるシオンの回復の預言

【聖書箇所】 8章1節~23節

ベレーシート

  • ゼカリヤ書8章は、神殿の再建によって新しい時代を迎えようとしている神の民のために、将来における励ましとして、神がなそうとしておられる回復のご計画のヴィションが語られています。
  • 8章は「万軍の主はこう仰せられる」という定型句で、以下のように、10のメッセージが語られています。

画像の説明

  • 以下、(1) 〜(10)のメッセージの説明です。

(1) 2節「わたしは、シオンをねたむほどはげしく愛し・・」

●主はその名を「ねたむ神」であると記されています(出34:14)。「ねたむほど激しく愛する」と訳されている原語は「キヌアー」(קִנְאָה)で、「熱情」を意味します。エルサレムとイスラエルに対する主の愛が宣言されています。このことばはゼカリヤ1章14節にも出てきましたが、イザヤに多用されています(9:6/26:11/37:32/59:17)。

●神がねたみを起こされるのは、愛するイスラエルの民が神以外のもの(偶像)を愛し(礼拝し)て霊的姦淫を犯したからです。唯一、離婚が認められるのは相手が姦淫の罪を犯した場合です。神に捨てられて当然なイスラエルに対して、神は彼らが悔い改めて立ち返るのを待っておられるのです。そこには神の激しい熱情の愛があるからです。これはイスラエルに対する選びの愛から湧き出ています。「ねたみ」は「愛」の一面です。

(2) 3節「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。」

【新改訳2017】3節
──【主】はこう言われる──わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは、真実の都と呼ばれ、万軍の【主】の山は、聖なる山と呼ばれる。

●再建される神殿に、神の臨在と栄光(シャハイナ・グローリー)が再び現わされるという約束です。第二神殿ではそれが実現していません。イェシュアがメシアとして来られた時の神殿は第二神殿です。イェシュアはこの神殿が強盗の巣になっているのを見て怒られ、清められます。そのときイェシュアは、「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」と言っています。しかし人々はそのメシア・イエスを拒絶しました。神の臨在と栄光が現わされるのは、再び、メシアが到来してメシア王国がこの地上に実現したときです。

(3) 4〜5節「エルサレムの広場は年老いた者や子どもたちで溢れる」

【新改訳2017】4~5節
4 ──万軍の【主】はこう言われる──再び、エルサレムの広場に、老いた男、老いた女が座り、みな長寿で手に杖を持つ。
5 都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。子どもたちはその広場で遊ぶ。

●今日、未曾有の高齢化社会と少子化の時代を迎えていますが、メシア王国では超高齢化社会、多子化の時代を迎えます。病気になることも少なくなり、人々の年齢は100歳以上の長寿となります。百歳以下はのろわれた者とさえ言われるようになります。

●千年王国では、患難時代において失われた子どもや若者たちの数が回復されるのです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ65章
20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。

22 ・・・わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは【主】に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。

(4) 「平和の到来は、残りの者には不思議に見える」

●エルサレムの荒廃を見ていた者たちは、メッセージ(3)のような情景を想像することは考えられなかったはすです。しかし、神には不可能なことはないという思いが喚起されます。

●全世界に離散している全イスラエルがエルサレムに帰還して、そこに住むという、そんな不思議な出来事が起こるという預言です。

【新改訳改訂第3版】イザヤ65章
17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する()。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(黙示録21~22章の新天新地と混同しないように)
18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

(5) 「わたしの民を全地から連れ帰り、エルサレムに住ませる」

●7節の「日が昇る国」「日が沈む国」という表現はヘブル語のメリズモ修辞法で、全世界を意味します。主は罪によって全世界に離散したご自身の民を「救い」「連れ帰り」「エルサレムに住まわせ」「わたしの民となり」「彼らの民となる」という神の恩寵を注がれます。

(6) 「平安の種が蒔かれ、地は豊かな産物を出すようになる」

●心砕かれて神のもとに帰った「残りの者」に対しての祝福は、以前のようなものではありません。エルサレムの土地はきよめられ、その良い地に蒔かれた平和な種は、おそらくイエスがたとえで語られたように、百倍の実を結ぶのです。自然界の姿は、実は、イスラエルの霊的状態と深い関係があるのです。

(7) 「エルサレムにおいて真実と平和のさばきを行ないなさい」

●神とイスラエルとのかかわりの愛は二つあります。一つは神の先取的な「選びによる愛」です。これは無条件的な神の選びに基づく愛(「アハヴァー」אַהַבָה)です。もう一つは「契約による愛」(「ヘセド」חֶסֶד)です。これは双務的な責任が伴います。申命記28章には、民が神に背くならばそのペナルティとして呪いや災いがもたらされると警告されています。事実、イスラエルの民は諸国への離散を経験しました。しかし、罪を悔い改めるならば、神はその罪を赦し、関係は元に回復します。それを成り立たせているのは、神の「選びの愛」です。

●ここでは、神の民はかつての契約違反としての呪い(矯正のための災い)を下したけれども、しかし「今や」万軍の主は彼らに「幸い」を下そうとしている、というメッセージです。ここに神の真実さが表わされています。それゆえに、人の人との間においても、神の真実が敷延されて、「互いに真実を語る」ように、平和の(公正な)さばきを行なうように、と勧告されています。

(8) 19節「断食日(主の例祭)は、楽しみとなり、喜びとなる」

【新改訳2017】19節
万軍の【主】はこう言われる。「第四の月の断食、第五の月の断食、第七の月の断食、第十の月の断食は、ユダの家にとって、楽しみとなり、喜びとなり、うれしい例祭となる。だから、真実と平和を愛しなさい。」


ユダヤ人は年一度の第七の月の10日の「贖罪の日」のみならず、他の日にも「断食の日」としていました。
第四の月の9日・・エルサレムの城壁が破壊された日
第五の月の10日・ エルサレムの神殿が焼失した日
第七の月の3日・・総督ゲダルヤが暗殺された日
第十の月の10日・ ネブカデネザルによるエルサレムの包囲が始まった日

●かつては悲しみのしるしであった断食の日が、神の民にとって喜び祝う楽しい祝祭の時になります。さらにダビデの幕屋にあったような爆発的な賛美が回復します。これはメシアが再臨すること(ユダヤ人にとっては再臨ではなく、来臨)によって成就します。

(9) 20~22節「諸国の民が群れをなしてエルサレムに集まってくる」

【新改訳2017】20~22節
20 万軍の【主】はこう言われる。「再び諸国の民(עַמִּים)がやって来る。多くの町々の住民が。
21 一つの町の住民はもう一つの町へ行き、『さあ行って、【主】の御顔を求め(חָלָה)、万軍の【主】を尋ね求めよう(בַָּקַשׁ)。私も行こう』と言う。
22 多くの国の民(עַמִּים)、強い国々(גּוֹיִם)が、エルサレムで万軍の【主】を尋ね求め(בַָּקַשׁ)、【主】の御顔を求める(בַָּקַשׁ)ために来る。」

●神の選民イスラエルが本来の姿を取り戻すのを見て、多くの諸国の民が主を尋ね求めて、主の恵みを請うためにやって来ます。神の民がメシアに出会ったときに持つその輝きは、世界中の国の人々をメシアへと導く吸引力になります。かつて主がアブラハムに約束したように、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」ということばが文字通りに実現されるのです。

●イザヤ書2章2~4節にも似たような預言があります。

【新改訳2017】
2 終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。
3 多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

●ミカ書 4章1~5節も参照。

(10) 23節「ユダヤ人と異邦人がともに主の祝福にあずかる」

【新改訳2017】
万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」

●「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかむ」にある「その日には」とは、主の預言が成就する終わりの日を指しています。諸国の民(異邦人)がインマヌエルの恵みを聞いて、その恵みにあずかりたいという願いが起こされるからです。


2013.9.28


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