****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第五の幻

第五の幻:「金の燭台と2本のオリーブの木」

【聖書箇所】ゼカリヤ書4章1~14節

ベレーシート

●ゼカリヤの見た第五の幻の中にある6節の「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」というみことばは、かつての私の愛唱聖句でした。ある方に頼んで和紙に書いてもらい、それを自分の部屋に長いこと貼っていました。しかし空知太教会で行った「サムエル・ミニストリー」の「聖書を横に読む」のシリーズで「ゼカリヤ書」をヘブル的視点から読むことで、私がそれまで理解していたこととは異なる内容であることが分かりました。もし「置換神学」の弊害について話を聞く機会がなかったならば、私はいまだにこの箇所の真の理解は得られなかったに違いありません。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」は、まさに何と終末預言だったのです。つまりこのみことばは、キリストの再臨によって実現する「千年王国」における神殿の再建、イスラエルの民の霊的な回復、エルサレムの再建の預言であったのです。霊の目が開かれず、神のご計画を知らずにいるということは、実は恐ろしいことです。

【新改訳2017】ゼカリヤ書4章1~3節
1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼び起こした。私は眠りから覚まされた人のようであった。
2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」私は答えた。「私が見ると、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があります。この上部にあるともしび皿には、それぞれ七本の管が付いています。
3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はその鉢の右に、もう一本は左にあります。」


1. 金でできている一つの燭台と二本のオリーブの木

●「金でできている燭台」は「メノーラー」(מְנוֹרָה)と言い、モーセの幕屋、および神殿の聖所になくてはならないものでした。幕屋の存在自体は、神と人とが親しく交わるためのものです。しかし人が神との交わりを楽しむためには、神の光によってのみ可能であるということです。聖所の中は自然の光は入りません。メノーラーの光だけがそこにあるものを照らしました。

画像の説明

●「ともしび皿」、あるいは燭台(メノーラー)それ自体がキリストを表す象徴です。またその中にある油は聖霊の象徴です。それによって照らされる聖所の中にあるすべてのもの(机、香壇、垂れ幕)もキリストを照らしています。もっとも、キリストを指し示す光は油と祭壇の火がなければ灯すことができません。燭台の光によってはじめてキリストが啓示されるのです。神と人とに仕えるレビ人はこのことをよく知っていなければなりませんでした。祭司の奉仕は、このともしび皿に灯る光のもとで常になされなければなりませんでした。

●ところで、ゼカリヤ書における重要な特徴の一つは、ゼカリヤが自分に見せられた幻について、第一、第二、第三の幻でもそうであったように、「主よ、これらは何ですか。」と主に(あるいは、御使いに)尋ねているということです。第五の幻も同様です。4節で「主よ、これらは何ですか。」と尋ねています。その問いかけに対して、御使いが「あなたは、これらが何であるかを知らないのか」と問い返し、ゼカリヤが「主よ、知りません」と言うと、その意味するところが知らされるというパターンが繰り返されています。この問答法はイェシュアもなされた教授法で、ユダヤ人たちはこの方法で神の教えを学んでいると言われます。「主よ、知りません。教えてください。」と問う謙虚さが、神の国における教育法であることはすでに学びました。

2. ゼルバベルに対する主のことば

(1) 第一の部分(6~7節)

●幻の意味を尋ねたゼカリヤが聞いた御使いの説明は、一見、幻の説明としては違和感があるように感じますが、決してそうではありません。御使いは順序立てて幻の真意を説明しようとしています。まず、最初の部分である6~7節の部分を読んでみたいと思います。

【新改訳2017】ゼカリヤ書4章6~7節
6 彼は私にこう答えた。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は言われる。
7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」

●「金でできている一つの燭台と二本のオリーブの木」について、これは神殿の再建とイスラエルの民の霊的回復に従事するゼルバベル(=メシアの型)に対して語ろうとしている幻だ、と御使いが語っています。

●右の図はイスラエルの国章ですが、きわめて預言的です。というのは、この国章が意味するところはまだ実現されておらず、終わりの日において成就するからです。多くのユダヤ人がイェシュアをメシアとして信じるようになるのです。金の燭台には二つの象徴的な意味があります。ひとつはメシアを象徴しています。メシアは「異邦人(「ゴーイム」גּוֹיִם)の光」となるからです(イザヤ42:6/49:6)。もうひとつはイスラエルを象徴しています。なぜならイスラエルは「諸国の民の光と定められる」からです(イザヤ51:4)。

画像の説明

●イスラエルは本来、全世界に神の栄光を輝かすために選ばれ、世界の中心に置かれた神の民です。つまり、神殿を再建する指導者ゼルバベルに対してこの幻が示そうとしていることは、神殿の再建がイスラエル民族の霊的な回復と密接な関係にあるということです。さらにもう一つ、それを実現に至らせるのは、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」であるということです。「神殿」の本質は、神と人(神の民)が出会う場所であり、神と人とが親しく交わることです。したがって、神殿を再建するということは霊的イスラエルの回復をも意味するのです。それを可能とするのは人間的な力によってではなく、「わたしの霊」、すなわち「主の霊」による以外にはないということなのです。

●ここで「権力」と訳されていることばは「ハイル」(חַיִל)で、軍事力、集団的な力、経済力などを意味します。また「能力」と訳されることばは「コーアッハ」(כֹּחַ)で、個人的な力量、才能と解釈されます。いずれも、人間的な力が否定され、人間的な力によっては真の神殿を再建することは不可能であり、ただ「主の霊(「ルーアッハ」רוּחַ)」によってのみ真の神殿は再建され、イスラエルの霊的回復もなされるのです。一切の人間的な画策によらず、また多くの議論を重ねることによってでもなく、ただただ主の霊によってのみ、真の神殿は再建され、イスラエルが霊的に回復するという意味なのです。

●ここでの「主の霊」は新約時代に注がれる「聖霊」のことです。7節によれば、メシア的称号である「かしら石」と密接な関係にあることが理解できます。「かしら石」(「ハーエヴェン・ハーローシャー」הָאֶבֶן הָרֹאשָׁה)は、工事の最後に建物をしっかりと組み合わせるための石で、要石(かなめいし)とも、親石(おやいし)とも呼ばれます。それがなければ、すべてがしっかりと組み合わさらない、建て上がらない、そのようなきわめて重要な石のことです。そのかしら石に対して「恵みあれ。これに恵みあれ(岩波訳「すばらしい。すばらしい。」)」と叫んでいるのはいったい誰なのでしょうか。このヒントは10節にある「全地を行き巡る主の目」(=黙示5:6)です。ここにメシア的存在の「かしら石」と「聖霊」との深いかかわりが示されていると考えられます。

●ちなみに、「恵みあれ」(すばらしい)と訳されているヘブル語は「ヘーン」(חֵן)で、「好意、恵み、魅力、優美、受け入れ」を意味する語彙です。それは、ユダヤ人が一度は拒絶したイェシュア・メシアを、やがて自分たちにとってなくてはならないかしら石(要石、親石)として、絶賛のうちに受け入れるようになることを意味しています。そこには「人称なき存在」である聖霊が働いているのです。このことがやがてゼカリヤ書12章10節につながります。

●ゼルバベルはユダ族の王家の血筋をもった指導者であり、メシアの家系の一人です。その彼が神殿の再建のために取り出した一つのかしら石は、単に彼が建てることになる第二神殿に使われるだけでなく、やがてこの世に遣わされる「イェシュア・メシア」という親石を預言しています。そのことが、再度、9~10節の第二の部分でも取り上げられます。

(2) 第二の部分(9~10節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書4章9~10節
9 「『ゼルバベルの手がこの宮の礎を据えた。彼の手がそれを完成させる。』そのときあなたは、万軍の【主】が私をあなたがたに遣わされたことを知る。
10 だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。人々はゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ。これら七つは、全地を行き巡る【主】の目である。」

●確かに、ゼルバベルは霊によって奮い立たせられて、神殿を再建することになります。しかしそのことと、やがて後に建てられる完全な神殿とが重ね合わせて語られているのです。それが第二の部分です。9~10節は、直接的には、これから実際にゼルバベルが建て上げることになる第二神殿のことを指していますが、神のご計画はこれで終わっていません。預言はしばしば神のご計画の終わりの時点から語られています。このことはとても重要で、この視点から預言は語られているという構えをいつも持つ必要があります。

●ゼカリヤに神の預言が語られる4ヶ月前に、ハガイに語られた預言があります。そこにはゼルバベルと大祭司ヨシュアに対して語られた預言があります(ハガイ2:1~9)。つまり、主は「この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和(完全なシャローム)を与える」と語られました。「これから後の栄光は、先のものにまさる」という預言には深い意味があります。それは、これから建てようとする神殿の栄光は昔(第一神殿)にまさるということですが、同時にそれは、終わりの日にメシアをお迎えすることによって真の神殿の栄光はクライマックスに達することになるということを意味します。しかし、その日はまだこれからのことです。とはいえ、ゼルバベルのしたことを小さなこととして蔑むことは誰であっても許されません。やがてイスラエルの民は、「ゼルバベルの手にある重り縄を見て喜ぶ」とあります(ゼカリヤ4:10)。原文では「下げ振りの石」となっており、それは測量用に使われる道具の一つです。この名詞の原語(動詞)が「選び分かつ」と同じ形であるため、しばしば「下げ振りの石」が「選び抜かれた石」とも訳されます。つまりこの「石」は神のご計画を実現するメシアを表しているのです。真の神殿はこの「選び抜かれた石」であるメシアをお迎えしなければならないのです。その意味において、ゼカリヤ書4章10節のみことばは、終末的預言なのです。

●ゼルバベルが選び出した「かしら石」それ自体は、とても小さく、それをかしら石として用いることは小さなことのように見えます。しかし決して軽んじてはならないのです。なぜなら、神にとってそれは回復の始まりにすぎないからです。神はメシアによって真の神殿を建てようとしておられるのです。この小さな始まりを、喜びをもって見ている者たちがいます。それが10節にある「これら七つ(燭台の七つのともしび皿)は、全地を行き巡る主の目」です。この「全地を行き巡る主の目」とは、ゼカリヤ書3章9節にも「一つの石の上には、七つの目がある」とあったように、それは「聖霊」を意味しています。ヨハネ黙示録5章6節にも「その目は、全地に遣わされた神の七つの御霊であった」とありますから、符合しています。そしてこの「聖霊」こそが、7節にあるかしら石に対して『すばらしい、すばらしい』と叫び声をあげている正体だとも解釈できます。

●ゼルバベルが取り出した(運び出した)「石」は一つの石にすぎませんが、それは決して小さなものではない、とんでもない力ある石で、聖霊はそれを喜ぶのです。したがって、その「石」が指し示しているメシア・イェシュアが、真の神殿を建て上げる要の石としていつも注視されなければならないのです。

3. 二本のオリーブの木と枝が象徴していること

●さて最後に、4章11~14節を見て行きましょう。

【新改訳2017】ゼカリヤ書4章11~14節
11 私は彼に尋ねた。「燭台の左右にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
12 そして再び尋ねた。「二本の金の管によって金の油を注ぎ出す、このオリーブの二本の枝は何ですか。」
13 すると彼は私にこう言った。「あなたは、これらが何であるかを知らないのか。」私は言った。「主よ、知りません。」
14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者だ。」

●ここで注目すべき点は、「全地の主のそばに立つ、二人の油注がれた者」という存在です。この二人について言えることは、彼らが神の聖なる霊によって完全に支配された「神の管」であるということです。「二人の油注がれた者」とは、終末に(ダニエルの七十週の最後の一週の前半に)突如として現れる「二人の証人」と解釈することができます(黙示録11:3~13)。そこで、ヨハネの黙示録11章を開いてみることにします。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章3~13節
3 ・・・・、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」
4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である
5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。

●終わりの時に、神である主は、かたくななユダヤ人たちの心を開かせて、メシア・イェシュアを受け入れさせる準備をされるのです。そのために突如、油注がれた(神の力を賦与された)「二人の証人」が現れるのです。おそらく、モーセとエリヤのような預言者が現れ、罪を悔い改めて神に立ち返るように迫るものと思われます。そのことを通して、「イスラエルの残りの者」が立ち上がってくるのです。

画像の説明

●この「二人の証人」の働きの期間は、文字通り、1260日です。これは42ヶ月(ひと月を30日で計算)、それは三年半に相当します。彼らの働きの期間はダニエルの最後の一週(7日=7年)における前半に当たる期間です。彼らの働きを阻止しようとする者があれば、彼らはその者に対して容赦なく、神の超自然的な力によって死に至らせます。この「二人の証人」が預言している期間、彼らは雨が降らないように天を閉じる権威も持っています。また、あらゆる災害で思いのまま、地を打つ権威が与えられています。それはひとえに神の民であるイスラエルの民を救いに導くためです。しかしユダヤ人のみならず、異邦人もこの「二人の証人」を拒絶します。

●7節、定められた三年半の間、彼らは神の完全な保護の下であかしの働きを全うしますが、時が来て「二人が証言を終えると」、今度は敵が彼らに打ち勝つことになります。「底知れぬ所から上って来る獣」が彼らと戦って、彼らをいとも簡単に殺してしまいます。この獣こそ竜(サタン)から権威を授けられた「反キリスト」です。そして殺された「二人の証人」の死体は、おそらく「そこで彼らの主も十字架にかけられた」とあるので、エルサレムにさらされると考えられます。9節には「もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、・・彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。」ということが起こります。なぜなら、この二人の預言者が数々の災いをもって、地に住む人々を苦しめたからです。彼らは「二人の証人」が死んだことで大喜びすると同時に、彼らを殺した反キリストのことをあたかも自分たちの救い主(メシア)のように歓迎するようになると考えられます。それほどにこの「二人の証人」の存在は、罪の生活を楽しんでいる人々にとっては迷惑千万な存在、うっとうしい存在であったのです。

●ところが喜んでいるのも束の間、11節「しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた」のです。おそらくこのことも全世界に衛星中継されると考えられます。主イェシュアが死んで三日目に復活したように、「二人の証人」も三日半の後によみがえり、敵の目前で雲に乗って天へと引き上げられます。この「二人の証人」が天に上げられる際に大地震が起こります。この地震によって、エルサレムでは七千人の者が死にます。そこで「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した」とあり、事態は全く逆転してしまいます。しかし、このことがユダヤ人の民族的な回心につながるのです。これを見た反キリストも黙ってはいません。反撃に出るのは言うまでもありません。

●突如として現れる「二人の証人」は、神の民であるイスラエル(ユダヤ人)を救いに導くための存在なのです。それは千年王国においてイスラエルに対する神の約束が成就した後に、真の神殿が再建され、そこに彼らを置くためです。これらのことはまだ歴史上には起こっていない将来の出来事ですが、想像もできないような神のドラマが展開していくのです。そのことをゼカリヤは幻によって見せられたのです。これが第五の幻です。

ベアハリート

●ゼカリヤ書から一気にヨハネの黙示録にまで話が飛んでいきますが、それは聖書が時間を越えてつながっているからです。前にもふれましたが、預言は終わりの日の視点から語られているのです。そのことを踏まえて聖書を詳らかに読む必要があるのです。

●旧約の預言者ゼカリヤは、B.C.519年に(今から、約2500年前に)、終わりの時に起こることを幻によって見せられたのです。彼の見た預言は必ず成就します。私たちはこの世の終わりがどのようになっていくかを知ることで、自信をもって、より安心して主に従うことができるようになります。また、終わりの日のことを知ることによって、聖書は難しい書物ではありますが、封印がどんどん解かれて神のご計画の全体が見えてくるようになるのです。私たちがキリストの証人として自信をもって仕えていくためには、神のご計画の全体像を知ることがどうしても必要なのです。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅵ 2023.10.4(Wed/朝)
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