****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第三の幻:「一本の測り綱」

第三の幻:「一本の測り綱」

【聖書箇所】ゼカリヤ書2章1~13節(新共同訳は2章5~17節)

ベレーシート

●第一と第二の幻、そして今回の第三の幻を見せられたゼカリヤは、ことごとく、自分の見た幻について、その真意を尋ねています。
第一の幻の時・・「主よ。これらの・・は何ですか。」(1:9)
第二の幻の時・・「これらは何ですか。」(1:19)、「この人たちは、何をしに来たのですか。」(1:21)
第三の幻の時・・「あなたはどこへ行くのですか。」(2:2)

●ゼカリヤが尋ねた一言が、主のみこころを開示する戸口となっています。神はこのような方法を用いてご自身のみこころやご計画を啓示されています。そのことは、「まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。」(アモス3:7)という主のことばを実現しています。さらに、問いかけるだけでなく、預言者の意見によって神が思い直されるということもあるのです。それは、神が預言者を「友」のように思っておられるからです。イェシュアも弟子たちに対して「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。・・・わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたこと(=秘密)をすべて、あなたがたには知らせたからです。」(ヨハネ15:15)

●「問いかけ」させる教授法(問答法)はイェシュアも採用されました。イェシュアがしばしばたとえ話を用いられたのは、人々に分かりやすく理解させるためではなく、「それはどういう意味ですか」と「問いかけ」させるためです。語られた主のみことばの意味を尋ね求める者にのみ、その真意を教えるという方法です。ですから尋ね求めることがなければ、真意は啓示されないということになります。反対に、真意を尋ね求めるならば、より明確に多くの奥義が示されるということにもなります。こうした「突っ込み」や「問いかけ」をさせる方法は、ユダヤ人たちの伝統的な教育法だと言われます。これは神のことばを学ぶすべての者にとっても重要な方法と言えます。なぜなら良い質問は良い答えを引き出すからです。これが良い質問をすることが称賛される理由です。

1. 一本の測り綱を持った人の幻

【新改訳2017】ゼカリヤ書2章1~5節
1 私が目を上げて見ると、なんと、一人の人がいた。その手には、一本の測り綱(חֶבֶל מִדָּה)があった。
2 私が「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、彼は私に「エルサレムを測り(「マーダド」מָדַדの不定詞)に。その幅と長さがどれほどあるかを見るために」と答えた。
3 すると見よ、私と話していた御使いが出て行った。また、もう一人の御使いが、その御使いに会うために出て行き、
4 彼に言った。「走って行って、あの若い者にこう告げよ。『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町のようになる。
5 わたしが─【主】のことば─それを取り巻く火の城壁(חוֹמַת אֵשׁ)となる。わたしがそのただ中で栄光となる。

●この幻は一体何を告げようとしているのでしょうか。ちなみに、「測り綱」(2:1)と「測り縄」(1:16)では原語が異なります。ここでは何が強調されているのでしょうか。考えてみましょう。

●ゼカリヤは「測り綱を持った人」に尋ねました。その測り綱を持って「あなたはどこへ行くのですか」と。するとその人は「エルサレムを測りに」と答えます。その測り綱は測量のためのもので、今日も、ある土地に建物を建てる場合にはその敷地の範囲を示すために木や紐で囲います。ここでは、これから神殿を再建するという目的のために、エルサレムの町を測量しようとしているのです。

●ここで新たな展開が始まります。これまでも登場していた「私と話していた御使い」が出て行ったのです。するともう一人の御使いが、その御使いに会うために出て行き、「走って行って、あの若い者(=1節の「一人の人」)にこう告げよ」と言って、語った内容が以下のことです。しかもそれを主のことばとして語ったのです。「『エルサレムは、その中に人と家畜があふれ、城壁のない町(「ペラーゾート」פְּרָזוֹת)のようになる。わたしが──【主】のことば──それを取り巻く火の城壁(「ホーマット・エーシュ」חוֹמַת אֵשׁ)となる。わたしがそのただ中で栄光となる。」

●この幻で重要なことは何でしょうか。測り綱でしょうか、それとも主のことば、主が計画されることでしょうか。軍配は主の計画でしょう。4節で「(再建される)エルサレムは・・・城壁のない町のようになる」とあります。というのは、主ご自身がその町を取り巻く火の城壁となるからです。ここで注目したいことは、再建されるエルサレムには城壁がないということです。この幻の数年後に建てられる第二神殿の時代には、後にネヘミヤが崩されたエルサレムの城壁を再建していますので、城壁のないエルサレムが再建されるのは「千年王国時代」ということになります。千年王国では神の敵が存在しないため、城壁は必要ないのです。メシア王国は完全にメシアの主権による支配であるため、そのことを「火の城壁」にたとえていると考えられます。

●その「火の城壁」とは、荒野の時代にイスラエルが昼は雲の柱、夜は火の柱によって守られていたように、新しいエルサレムの町は主ご自身の完全なご支配の中にあるのです。5節の後半に「わたしがそのただ中で栄光となる」と記されているように、この主の栄光は「シャハイナ・グローリー」で、それは神の特別な臨在を伴う栄光のことです。

2. 回復された神の民

【新改訳2017】ゼカリヤ書2章6~9節
6 さあ、すぐに、北の国から逃げよ。──【主】のことば──天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたのだ。──【主】のことば──
7 さあ、シオンに逃れよ。娘バビロンとともに住む者よ。』
8 あなたがたを略奪した国々に主の栄光が私を遣わした後、万軍の【主】がこう言われたからだ。『あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。
9 見よ、わたしは彼らに手を振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちに略奪される』と。このときあなたがたは、万軍の【主】が私を遣わされたことを知る。

●「さあ」で始まる6~9節も、実は「終わりの日」の預言です。「北の国」とはバビロンのことです。そこから「逃げよ」とは、大バビロンの支配者である獣と呼ばれる反キリストの支配が及ぶところ、そこから「逃げよ」「逃れよ」です。それは同時に、バビロンだけでなく、「天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らした」全世界から「逃れよ」です。ことばを言い換えるなら、それは「神が全世界からイスラエルの民を集める」ことを意味します。

●また8~9節にある「」とは誰のことでしょうか。それは、イザヤが「主のしもべ」と呼び、ダニエルが「人の子」と呼んだメシア・イェシュアです。そのイェシュアが「人々(イスラエルの民)は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。」(ルカ21:24)と預言しています。「見よ、・・このとき」(9節)、すなわち「異邦人の時が満ちる」とき、あるいは「異邦人の時が終わる時」、イスラエルは「万軍の【主】がを遣わされたことを知る」ことになり、主が神の民をシオンに集めるのです。

●8節に「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者」というフレーズもあります。神の民イスラエルは神にとっては「瞳のような特別な存在」です(申32:10、詩17:8)。この関係は「終わりの日」(終末)においても不変です。それゆえ、「その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける」(ゼカ 12:3=「よろめかす杯」とはぶどう酒に酔ったように役立たずの国となることを意味し、「重い石」とは、それを持ち上げようとして、逆にその石によって大傷を負うことを意味する)のです。

3.エルサレムでなされる爆発的賛美

【新改訳2017】ゼカリヤ書2章10~13節
10 『娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。──【主】のことば──
11 その日、多くの国々が【主】に連なり、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。』このときあなたは、万軍の【主】が私をあなたに遣わされたことを知る。
12 【主】は聖なる土地で、ユダをご自分の受ける分とし、エルサレムを再び選ばれる。
13 すべての肉なる者よ、【主】の前で静まれ。主が聖なる御住まいから立ち上がられるからだ。」

●10節はダビデの幕屋の回復を意味します。
娘シオンよ、喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。──【主】のことば──」

ゼパニヤ書3章14節にも同様の記述があります。
娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

●エルサレムにおける爆発的賛美は、メシアが再臨された後の千年王国についての預言です。ダビデの幕屋での賛美が再び回復されるのです。と同時に静謐でもあるのです(詩篇65:1)。ちなみに、「新しいエルサレム」は静謐です。

●預言者アモスが「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。」(9:11)と預言しているのは、このことだと理解することができます。初代教会における最初のエルサレム会議の中で、議長となった主の兄弟ヤコブは、アモスのこの預言を引用し、神のご計画に沿った結論を導き出しました。そのご計画とは、ユダヤ人と異邦人が主にあって共同相続人となるというものです。それをパウロのことばで言うならば「新しい一人の人」と表現されます。それはエックレーシアを越えた概念なのかも知れません。

●最後に、メシア王国を思わせる賛美を聞いて、終わりとします。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅳ 2023.10.3(Tue/朝)
a:146 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional