****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

祭司に対する糾弾と祭司の本来の務め (2)

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4. 祭司に対する糾弾と祭司の本来の務め (2)

【聖書箇所】 2章5~17節

ベレーシート

  • 「顔に泥を塗る(塗られた)」ということわざがありますが、それは屈辱を与えたり、受けたりすることを意味します。ところがマラキ書では「泥」ではなく、なんと動物の「糞」(汚物)です。最大級の屈辱を意味します。主の名に栄光を帰すことを心に留めなければ屈辱(恥辱)を与えると主は厳しい警告をしています。
  • マラキが預言した時の指導者たちの状況と、その約400年後にイェシュアが登場した時の状況は大差ありませんでした。A.D.70年、エルサレムの神殿は完全に破壊され、神殿を中心とした祭司制度は完全に崩壊してしまったのです。「見よ。わたしは、あなたがたの子孫を責め、あなたがたの顔に糞をまき散らす。あなたがたはそれとともに投げ棄てられる。」(マラキ2:3)との預言は実現したのです。

1. 主とレビが結んだ契約

  • 2章5~7節には、神とイスラエルとが結んだ契約の中にあるレビの務め、つまり、理想的な祭司職、および祭司像について語られています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書2章5~7節
5 わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。
6 彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。
7 祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の【主】の使いであるからだ。


上記のみことばには、以下の三つの事柄が語られています。

(1) レビ(祭司たち)との契約の性質は「いのちと平和」「平和と公正」。

(2) レビの重い務めのゆえに、祭司たちは「主を恐れ、主の名の前におののき」ながら、主とともに歩みました。そのことによって、多くの者たちを罪から立ち返らせたのです。

(3) レビの口とくちびるからは「真理の教え」が語られ、「不正(偽り)」はなく、主の知識が保たれていました。それゆえ、人々は彼らの教えを求めるという麗しいかかわりが成り立っていました。


2. レビ契約をそこなった祭司たち

  • ところが、祭司たちは神から与えられた務めの道からはずれ、多くの者たちをつまずかせてしまったのです。そのつまずきの原因を、祭司たちが神の教え(トーラー)を「えこひいきをして教えた」からだとしています。これはどういうことでしょうか。原文をまず見て見ましょう。

画像の説明

  • これは、主の教え(トーラー)を相手の顔(顔色)を見て(伺って)、都合の良いように解釈し、教えることを意味します。これはイェシュアが弟子に対して「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく批判しましたが、まさにこのことが「えこひいき」に当たるのです。神の教えでなく、人が喜びそうな教えを語ることを意味します。もし、教会でそのような教えが語られたとしたらどうでしょうか。人が喜ぶとは、人間の肉が喜ぶということです。それはこの世の教えと変わりません。使徒パウロは愛弟子のテモテに神のことば(神の教え)を語ることを命じています。なぜなら、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけていく・・ような時代になるからです。」と警告しています。

3. 契約に反する結婚と離婚

  • 捕囚から帰還した者たちの中に雑婚した者が多くいました。大祭司のエルシャブも神の律法に逆らって政略結婚していました。このことを知った民たちは、当然、その例に倣います。このことは神の民としての信仰を継承すべき戦いが失われ、そのために子どもたちは母親の国のことばを話すようになり、神のことばを理解することができないという事態にまでなっていたのです。エズラとネヘミヤはそうした異教的な影響を一掃するために、かなり手厳しい改革(=雑婚の解消)を断行したのです。しかしマラキの時代には、2章10節から推察すると、夫である者が異教の女性と結婚するために、妻たちを離婚させていたようです。そこには祭司たちが神の教え(トーラー)を「えこひいきをして教えた」という背景があります。
  • 「雑婚」と「離婚」についての糾弾は、天における神と人との愛の交わりを表わす「型」を破壊することであったからです。むしろ「結婚」には、神の深い秘密が隠されていることを意味します。それゆえ、15節の「神は人を一体に造られたのではないか」は天における奥義なのです(※15節は難解な節とされ、多くの訳と多くの解釈がなされてい.るようです。いずれにしても、結婚は神の聖なるみこころであり、それをないがしろにすることは、神の意図された目的に背くことになります。結婚における神の目的は「神の子孫」の誕生なのです(「信徒のための聖書講解小預言書(2)」聖文舎、346~351頁参照)。
  • 家庭は「神の家」の型です。夫婦がいて子どもがいます。その夫婦関係が神のみこころにかなわない関係であるならば、その家庭は主によって祝福されません。家庭は神と人との関係の類比なのです。人間が生きる上で最も重要な愛の温床が健全でないならば、子どもは父(親を代表する存在)を敬うことはありません。マラキ書の最後のフレーズに「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」(4:6)とあるように、壊れた家庭を本来あるべき健全な家庭に回復することがマラキ書のテーマです。それは同時に、神と人とが本来の関係を取り戻すことと同義なのです。
  • 2章16節で、主は「わたしは、離婚を憎む」と語っています。それは神が「神の家」を建てるという壮大なヴィジョンを妨げることになるからです。
  • イェシュアの時代にも、パリサイ人がイェシュアの所にやって来て、「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」と質問しました。するとイェシュアは「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」と答えました。するとパリサイ人は「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」と質問します。これに対して、イェシュアの答えは、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。・・・だれでも不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。」(マタイ19:9)と。これが神のトーラーと正しい解釈でした。このイェシュアの解釈は、当時の指導書やたちにとって、大変迷惑な、物議をかもす解釈だったはずです。


2015.7.14


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