****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神のものを盗むという不信の罪(アカンの教訓)

7. 神のものを盗むという不信の罪(アカンの教訓)

【聖書箇所】 7章1節~26節

はじめに

  • ヨシュア記7章には、神が激しく怒った出来事が扱われています。「怒りに燃える、憤る、激怒する」という動詞の「ハーラー」(חָרה)は神にも人にも使われます。自分のささげものが神に受け入れられず、弟のそれが受け入れられたことを知ったカインがねたみのゆえに激しく怒ったように(創世記4章)、自分の妻から最も信頼していたヨセフが不貞を働いたという虚実の訴えを聞いた主人のポティファルが怒りに燃えてヨセフを監獄に入れてしまったように(創世記39章)、人間の怒りには多くの誤りがあります。アベルは兄カインの妬みによる怒りのゆえに「殺され」、ヨセフは「冤罪を着せられ」ました。しかし、神の激しい怒りにはそれなりの正当性(妥当性)があります。それゆえ、人は神の怒りに触れたとき、自分の過ちや失敗を素直に認めることが必要です。

1. 神の怒りとしての敗北

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  • アイの町を攻略すべく戦ったイスラエルの民が敗北を喫して撤退したこと、仲間の36人が戦死するとは全くの想定外でした。エリコての戦いを経験したあとであれば、なおさらのことで彼らはこの事実が意味することを主に問いかけることをせず、不安にさいなまれました。全く状況が逆転しています。カナンの地の住民は戦う前にすでに「心がしなえて、戦う勇気はなくなっていた」にもかかわらず、アイでの戦いではそうではありませんでした。敗北することは敵の心は強くなり、イスラエルの民の心が反対になえてしまったのです。
  • ここでの敗北は、神の視点から見るならば、大切な事を教えようとしたことです。民の視点からみるなら、なにがそうさせたのかを謙虚に受けとめ、敗北した自分たちの失敗から大切なことを学びとらなければなりませんでした。過去の勝利に過信した心には気づかない盲点がつくられやすいからです。
  • エリコに勝利したイスラエルの民は次の攻略地であるアイを軽く考えていました。アイの町を偵察に行って帰ってきた者たちは、総力戦で立ち向かわなくとも、その10分の一態度の戦力で十分ですとヨシュアに進言したのです。
  • かつての教会学校には多くの子どもたちが集っていました。昔はお菓子付きのプレゼントやカード一枚で子どもたちは集まって来ました。それほど努力しなくても子どもたちは教会学校に来ていたのです。ところが今は状況は一変してしまいました。教会に来ていた多くの子どもたちはどこへ行ってしまったのか。教会になんとかつながっていた子どもさえも、中学、高校生になると教会から足が遠のき、クリスチャン・ホームの子どもたちさえも礼拝に参加しなくなってきている現実。どこかで重大な落ち度があったのです。失敗したのです。それを認めるところから新たな取り組みのスタートを切ることができるはずです。

2. 聖絶という行為の意味を再度見直す

  • 主がヨシュアに言ったことばを見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】7章11~12節
    11 イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。
    12 だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のもの(滅ぼし尽くしてささげるべきもの)となったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。
    13 立て。民をきよめよ。

  • ここで、「イスラエの民」、「彼ら」がしたことで怒りが燃え上がったことが1節にも、また11節にも記されています。複数です。しかしくじで取り分けられたのは、アカンという人物一人でした。果たして一人だけが罪を犯したのか、「個」が「全体」を代表する集合人格というヘブル的表現として、ひとりの罪が民全体の罪としてみなされているのか。それとも複数の中のひとりとしてのアカンなのか。たまたまくじで取り分けられたアカンが罪を告白したので、その刑罰としての死が宣告されました。一見、ひとりの行為に見えますが、11~13節にある「彼らは」(11節)、「自分たち」(同節)みな複数形です。ですから、罪を犯したのはアカンだけではなく、他にもいたことがわかります。
  • この章で強調されていることは、犯人探しをして見出された一人の人物を処罰したことで問題が一件落着したことではなく、聖絶すべきものを盗んだという事の大きさを問題にしています。
  • 「聖絶のもの」とは「ハ・ヘーレム」(הַחֵרֶם)で、新共同訳では「滅ぼし尽くす物」と訳しています。「聖絶する」ことは神にそれをすべてささげるという宗教的行為です。約束の地を占領し、聖絶することによって、それが神のものとしてささげられ、その後で、その地が神からの賜物として与えられたのです。その地は神の所有ということですから、聖絶すべきものから盗んで自分の所有とすることは盗みの罪ということになります。神のものを神としない行為であり、これは礼拝とは言えなくなります。つまり、「神を神とすること」が礼拝と考えられているのです。イスラエルの民は神の所有地、財産の分け前を賜物として受け取り、それを相続していったのです。
  • 先程、教会学校の子どもたちのことを記しましたが、詩篇127篇3節に「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」とあります。ここで「賜物」という訳されているヘブル語は「ナハラー」(נַחֲלָה)で、「相続地、嗣業」という意味です。また「胎の実は報酬である」とは、主に仕える信仰をもって結婚した者に報いとして与えられる「報酬」が胎の実なのです。「報酬」とは、かつて主がアブラハムに「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1)という約束にある「報い」と同じことばで「サーハール」(שָׂכָר)です。信仰によって生きるならその受ける「報い」は非常に大きいのです。つまり子どもはあくまでも神からのプレゼントであり、あなたの相続地です。しかしその相続地を次の世代にも受け継がせていく責任があります。ここにクリスチャン・ホームとしての「家族としての召命」があります。
  • クリスチャン・ホームであること自体が神からの召命なのです。従って親は賜物として与えられた子どもたちを主によって育てるならば、その報いは非常に大きいのです。クリスチャン・ホームの親は神から賜った相続地を次の世代に受け継ぐという特別な召しが与えられていることを自覚しなければなりません。子どもを自分のもの(所有物)として考え、親の基準で親の思うように、あるいは子どもの自由のままに育てることはアカンと同じ罪を犯すことになるのではないかと思います。
  • 「賜物」には常に「責任と課題」が伴っているのです。ですから召しにふさわしく子を育てなければなりません。若いクリスチャンホームが神からの「家族としての召し」にふさわしく生きることができるように、教会は連帯責任をもって最善を尽くさなければなりません。このことがアカンの罪の教訓のひとつとして考えさせられることです。

2012.3.21


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