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神のことばの権威を無にした「言い伝え」

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64. 神のことばの権威を無にした「言い伝え」

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【聖書箇所】マタイの福音書15章1~9節

ベレーシート

●マタイの福音書15章は、エルサレムからパリサイ人たちや律法学者たちが、イェシュアのもとにやって来て質問したことが記されています。その質問の内容は、「長老たちの言い伝えをなぜ破るのか」ということでした。その質問に対して、イェシュアは「長老たちの言い伝え」のことを「自分たちの言い伝え」「人間の命令」とし、神の戒めを破っている、神のことばを無にしていると言ったのです。このことを聞いたパリサイ人たちはイェシュアに腹を立てたことは言うまでもありません。彼らはユダヤ教の伝承を大切にして生きている者たちであるのに対し、イェシュアはその教えを根底から否定する者であったからです。この対立がやがてどういう結果をもたらすかを私たちは知っています。しかしイェシュアはそれを恐れることなく、対決されたのです。なぜなら、それらがいのちをもたらす教えか、それとも死をもたらす教えが問われるからです。

1. 「言い伝え」

【新改訳2017】マタイの福音書15章1~2節
1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」

●パリサイ人たちや律法学者たちがイェシュアに対して問うた質問は、「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません」というものでした。ここで彼らの言う「長老たちの言い伝え」とは何なのかを考えてみたいと思います。

●パリサイ人たちは「長老たちの言い伝え」と表現しています。新改訳改訂第三版では「昔の先祖たちの言い伝え」と訳されています。「言い伝え」(「パラドシス」παράδοσις)は、「伝承」とも「口伝律法」とも言われます。彼らにとって、それは神の成文律法(ユダヤ教の聖書―タナフ)と同等の権威を持つものだったのです。それは、モルモン教の「モルモン書」、エホバの証人の「ものみの塔という雑誌」、統一協会の「原理講論」などで、聖書と同等、いやそれ以上の権威をもった類の書物です。

●神がモーセを通してイスラエルに与えた「律法」(トーラー)は、アブラハムに結ばれた契約(約束)から430年後に与えられました。神の民であるイスラエルは神の教えに従うことで、神の民としてのきよさを保つように定められました。しかしその後の歴史において、イスラエルは(北王国と南王国とに分裂した後も)神の教えに聞き従わなかったために、亡国の憂き目を経験し、北イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされ、南ユダ王国はバビロンによって捕囚の民とされたのです。この痛みを通して、捕囚を経験した南王国のユダの民は、70年後にバビロンの後に台頭したペルシアの王クロスによって捕囚から解放され、エルサレムへと帰還します。捕囚の目的は、神がご自分の民に神のことばの真実とすばらしさを理解させるためであったのです。捕囚とされた民はバビロンにおいて、神に悔い改め、神の律法(トーラー)の真実とそのすばらしさに目が開かれ、新しい民とされたのでした。これがユダヤ教の始まりでした。その指導者として立てられたのは、祭司エズラでした。

●詩篇119篇を読むと、失敗の歴史を通して、いかに神の律法に目が開かれたかを知ることができます。ぜひこの詩篇を味わってください。他にも「トーラー」のすばらしさを歌った詩篇があります。詩篇19篇がその一つです。

【新改訳2017】詩篇19篇7~14節
7 【主】のおしえは完全で たましいを生き返らせ
【主】の証しは確かで 浅はかな者を賢くする。
8 【主】の戒めは真っ直ぐで 人の心を喜ばせ
【主】の仰せは清らかで 人の目を明るくする。
9 【主】からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。
【主】のさばきはまことでありことごとく正しい。
10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく
蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。
11 あなたのしもべもそれらにより戒めを受け
それを守れば大きな報いがあります。
12 だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。
どうか隠れた罪から私を解き放ってください。
13 あなたのしもべを傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて 全き者となるでしょう。
14 私の口のことばと私の心の思いとが 御前に受け入れられますように。【主】よ わが岩わが贖い主よ。

●最後の「わが贖い主よ」という告白の中に、【主】こそ神の民を捕囚から解放して、再び、神の民としての身分と繁栄を回復してくださったことが告白されています。ところが、新しくされた神の民はその後の長い歴史の中で、つまり、神の律法の大切さを、世代を越えて教えていく過程において、少しずつ変質させていったのです。どのように変質させていったかと言えば、すべての行動において神に喜ばれたいという思いをもって律法を解釈し、説明し、補足していきました。その範囲は次第に広げられ、生活の細部にまで至るようになり、ついには全員がそれを守るように強制する規定となって行きました。そしてその規定が、本来の律法(成文律法)以上に権威を持つようになってしまったのです。これが「長老たちの言い伝え」、あるいは、「先祖たちの言い伝え」(成文律法に対する「口伝律法」、「伝承」)と言われるようになったのです。ヘブル語ではこれを「ハラカー」と言います。「ハラカー」(הַלַךָ)とは、「歩く、歩む」を意味する「ハーラフ」(הַלַךָ)が語源となっていますが、それを文書化したものが「ミシュナ」、あるいは「タルムード」と呼ばれます。その中の一つに、今回問題とされている「食前に手を洗う儀式」があったのです。

2. 「食前に手を洗う」という儀式

●エルサレムから来た宗教指導者たちが取り上げた問題は、「食前に手を洗う儀式」をイェシュアとその弟子たちが守っていないということでした。これは衛生上の問題ではなく、ユダヤ教の中で厳格に守られてきたきよめの儀式を踏まえての指摘でした。ルカの福音書11章38節にも「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた」とあります。そのパリサイ人とは、自分の家にイェシュアを食事に招待した人でした。
●このきよめの規定は、本来、いけにえをささげる前に手と足を洗いきよめてから幕屋(神殿)の務めをする祭司に対するものでした。それが拡大解釈され、一般の人々も食事のたびごとに清めの儀式が課せられたのです。その儀式の定め(きよめる方法)とは具体的にどのようなものなのでしょうか。バークレーの「マタイの注解書」の下巻にそのことが紹介されています(127~8頁)。

「食事の前の洗いのために、水がめには常に水を入れておかねばならなかった。この水を使う場合の最少の量は、卵の殻に入るだけの量の一倍半であった。この水をまず両手にかけ、指先を上に向けて、水を手にそって下に流して、手首から下に落とさなければならなかった。これは、汚れた手にふれた水は汚れるので、もし、もう一度水が指のほうに流れれば指が再び汚れてしまうからであった。次には指先を下にして反対の方向から水をかけ、最後に片手ずつ、反対の手のこぶしでこすってきよくした。非常に厳格なユダヤ人は、これを食事の前ばかりでなく、食事の間も料理が変わるごとにこれを行なった。」

と説明されています。イェシュアとその弟子たちは、このユダヤ教の伝承と言われる「言い伝え」を習慣的に破っていたために、宗教的指導者から尋問されたというわけです。

3. 「自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」

●イェシュアはこれらの「言い伝え」の権威を全く認めず、それを「自分たち言い伝え」とし、その「言い伝え」によって「神の戒めを破っている」(第三版では「犯す」と訳されている)と言い返しています。そしてイェシュアは、パリサイ人たちや律法学者たちに対して、「あなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまった」と断罪しています。「無にする」という「アキュロオー」(ἀκυρόω)は、神のことばの権威を「破棄する、無効にする」という意味です。どういう意味で、神のことばを無にしてしまったと言っているのでしょうか。イェシュアの反論を見てみましょう

(1) 「言い伝え」のために神のことばを無にしている

【新改訳2017】マタイの福音書15章4~6節
4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げ るはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

●この部分を呼んでもいまいちピンときません。微妙な点において神のことばが無効になってしまっているのです。イェシュアはパリサイ人たちの「言い伝え」である「食前のきよめの儀式」について何ら一言も答えていません。むしろ、4節以降で、イェシュアは神から啓示された神のことばそのものを提示しながら、「神のことば」よりも「言い伝え」の方を権威あるものとしているということを述べようとしているのです。つまり、こういうことです。「神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われた」ということ。これは出エジプト記20章12節と21章17節に記されている神のことばです。ところが、あなたがたの「言い伝え」によれば、「『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、その物をもって父を敬ってはならない』と。」と言っています。これはどういうことなのでしょうか。

●「神にささげられたもの」、神のために「聖別されたもの」のことを「コルバン」(קָרְבָּן)と言いますが、「あなたがたがひとたびあるものを神にささげると誓ったならば、その誓いは破ってはならない。たとえ、それが両親の扶養に必要なものであったとしても、『言い伝え』に基づき、両親のためにそれを使うことはできない。」というものです。例えば、ある人の父か母が貧しく、年をとってお金に困り、息子のところに助けを求めて来たときに、その人が両親への援助を断わる道があったのです。それはいわば公的に、お金や財産をすべて神と神殿にささげることでした。するとこれがコルバン、すなわち、神にささげられたもの、聖別されたものとなり、両親には、「大変お気の毒ですが、何もあげられません。私の持ち物は全部、神のものとなっていますから」と言って、扶養の義務を回避することができたのです。すなわち、「言い伝え」を盾にして、十戒を無視することができたのです。このことを、イェシュアは神のことばの権威を無にしてしまっていると言っているのです。イェシュアはこの点を指摘されたのです。

(2) イザヤ書の預言

●「長老たちの言い伝え」に神のことば以上に重きを置く者に対して、イェシュアは「偽善者たち」と呼んで、イザヤの預言(イザヤ書29:13)が成就していることを語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書15章8~9節
8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」

●イザヤが預言した「この民」とはエルサレムに住むユダの者たちです。神を畏れているような振りをしているが、彼らは人間の命令を教えとして教えているにすぎないと厳しく責めていることばです。同じくイザヤ書29章には「ものごとを逆さに考えている」ことを述べるにあたって、イザヤは「陶器師と陶器」のたとえを挙げています。陶器師と粘土のかかわりこそ、人間が神である主に形造られた出来事です。「人間の命令の教え」のルーツは、創世記2章にある、禁じられた「善悪の知識の木」から取って食べたことにあります。

●実は、イザヤ書29章3~4節の後に、「それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」(14節)と続いています。「見よ、わたしはこの民に再び、不思議なこと、驚くべきことをする」とは、真の生きたトーラーである神の御子イェシュアを遣わすことの預言とも考えられます。そしてこのイェシュアこそ、創世記2章にあるエデンの園にある「いのちの木」そのものなのです。

4. 「いのちの木」であるイェシュア

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)という神の福音を聞いて、神を信じた方も多いと思います。どうして御子を信じることで、永遠のいのちを持つことができるのかと言えば、御子イェシュアこそ、まことの(混じりけのない)神のことば、すなわち、「いのちの木」だからです。

●ここで、創世記2章の「人の創造」を思い起こしてみましょう。神である主は土のちり(粘土)で人を形造り、それにいのちの息を吹きかけることで「生きるもの」としました。そしてその人はエデンの園に置かれたのです(2:8)。「置いた」という動詞「スィーム」(שִׂים)には、「任命する」という意味もあります。エデンの園に人を何のために任命したのかといえば、エデンの園を「耕す」ためだとあります(2:15)。この言葉も理解に苦しむ訳ですが、これは「仕える」という意味のヘブル語「アーヴァル」(עָבַר)という動詞です。この語彙は祭司用語です。モーセの幕屋で仕える祭司に使われる用語です。つまり、最初の人(アダム)は神に仕えるためにエデンの園に置かれたのです。仕えると言っても、そこで何かの行いをするというのではなく、神と共に生きるという務めこそが祭司の務めとされたのです。これが「耕す」の本意であり、祭司としての原点なのです。

●祭司として生きるために、神である主は人に命じられました。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたのです。ここには祭司としての務めと管理が含まれていました。そのことを聖書では、「耕す」ことと「守る」こととして表現しています。

●「耕す」こと、それは神と共に生きることを意味します。しかしそのために守るべきことを示されたのです。その守るべきこととは、「食べる」ことに関することでした。「あなたは園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」という主のことばをヘブル語で見てみると、実は次のような訳になります。
あなたは園にあるすべての木から必ず食べなさい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

●ヘブル語の強調表現の中に、同じことばが二重に重ねられることで、「必ず」とか、「決して」という表現になります。上記の聖句の場合、「どの木からでも思いのまま食べてよい」と訳されていますが、原文は「園にあるすべて木から必ず食べなさい」という意味になるのです。「思いのままに食べてよい」というのと「必ず食べなさい」とではニュアンスが異なります。「思いのままに」は食べる人が自由に選んで、好きなものを、好きなだけ食べるという意味になりますが、「必ず食べなさい」となると、それによって生きなさいという意味になります。実は、園の木とは「神のことば」を意味します。ですから、その木から「食べる」とは、それと一体となることを意味します。神と人とが共に生き、交わるためには、神のことばを「食べる」ことが必要です。イェシュアも「『「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある」と言っています。人は神のことばを食べることによってのみ生きなければならないのです。これは祭司に与えられた最も重要な務めなのです。ですから、神は園の中央にある「善悪の知識の木」から取って食べることを禁じました。

●エデンの園には多くの木があったにもかかわらず、園の中央にある「善悪の知識の木」だけは禁じられました。なぜなら、それは死をもたらすからです。「善悪の知識」とはメリスマ的表現で、何が善いことで何が悪いことか、その基準とその内容をすべて包括している知識体系です。確かに、この体系を持つことは神のようになるのです。神はこれを食べると「必ず死ぬ」と言われましたが、蛇はそれを食べると神のようになれると誘惑しました。蛇のいうことばにそそのかされて、それを人とその妻は食べてしまいました。その結果、神と人が共に生きることが不可能となったのです。

●「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。」(【新改訳2017】ヨハネ3:34)とあります。最後のアダムであるイェシュアは、神のことばしか食べていない方です。ですから、人にいのちを与えることができるのです。しかも、神が御霊を限りなくお与えになるのです。それは罪を犯す前の最初のアダムもそうでした。なぜなら、「一つの川がエデンから湧き出で、園を潤していた」(創世記2:8)からです。ところが、最初のアダムは蛇にだまされたことによってエデンの園を追い出される羽目になりました。イェシュアはその最初のアダムの失敗を踏み直すために来られたのです。本来、エデンの園にあったすべての木である神のことばを私たちに与え、いのちの木であるイェシュアご自身に私たちをとどまらせることによって、多くの実を結ばせるためなのです。

●今回のマタイのテキストに戻りましょう。
ガリラヤにいるイェシュアとその弟子たちの言動を取り調べようと、エルサレムからパリサイ人と律法学者たちがやってきました。エルサレムはユダヤ教の本拠地です。そこから派遣されて、彼らはイェシュアと対峙しているのです。彼らはアロン直系の祭司ではありませんが、神のみことばを扱っている祭司と言えるのです。しかしその彼らが、「善悪の知識の木」がもたらした人間の教えをもって、イェシュアに挑んできたのです。ユダヤ教の教えはすでに純粋な神のことばではなく、人間の「言い伝え」によって、実に巧妙に神のことばを無にしていました。当時、このことに気づいた人は(パリサイ人や律法学者たちも含めて)、誰一人としていなかったのではないかと思われます。

●死をもたらす「善悪の知識の木」のことを、聖書はいろいろな表現で表しています。イェシュアは「人間の教え」「言い伝え」「肉」と言いましたが、使徒パウロは「この世の幼稚な教え、この世の人間の知恵による教え、文字(もんじ)による務め、肉、罪と死の律法」という言い方をしています。聖書にはありませんが、これを「律法主義」とも言うのです。

●使徒パウロはローマ人への手紙8章で、パリサイ人たちの教えを「罪と死の律法(トーラー)」とし、イェシュアの教えを「いのちの御霊の律法(トーラー)」として教えています。聖書の「木」(「エーツ」עֵץ)は、「律法・おしえ」を象徴します。パウロは、キリストを信じた後でも、彼のうちに支配していた「罪と死の律法」に悩み続けます。しかし、自分のうちには「いのちの御霊の律法(トーラー)」が与えられていることを確信して、神に感謝をし、神を賛美しています。へブル語のトーラーである「律法」を、ギリシア語は「ノモス」(νόμος)と言いますが、それを「原理・法則」と訳す聖書もあります。「ノモス」が法則のような力をもっているなら、私たちの力でそれに打ち勝つことは不可能です。しかし感謝なことに、神は「いのちの御霊の原理」によって、「罪と死の原理」に打ち勝つ力を、キリストを信じる者に与えてくれているのです。

●「罪と死の原理」が下に(神から離れて)働く力だとすれば、「いのちの御霊の原理」は上に(神に向かって)働く力と言えます。私たちはただ上に上がる法則である「エレベーター」に乗ればよいのです。イェシュアのことばを信じて従うということは、そのエレベーターに乗ることを意味します。そしてそれこそが私たちを確実に御国へと連れて行ってくれるのです。問題があるとすれば、そのことを信じられない不信仰にあります。生ける神のいのちのことばであるイェシュア、最初のアダムの失敗を踏み直してくださった最後のアダムであるイェシュア、そのイェシュアの語ることばこそ、永遠のいのちなのです。ですから、私たちはもっともっとイェシュアを愛し、イェシュアのことばに耳を傾け、「聞いて悟る者」とならなければなりません。なぜなら、あなたも祭司として召されているからです。

2019.11.10


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