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真新しい布と新しいぶどう酒のたとえ話

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34. 真新しい布と新しいぶどう酒のたとえ話

【聖書箇所】マタイの福音書9章14~17節

【新改訳2017】
14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。
15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。
16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」


ベレーシート 

  • マタイの福音書9章には、中風の人のいやしを通してイェシュアには罪を赦す権威があるという話や、彼はいつでも取税人や罪人たちを受け入れて食事をするという話、さらにはヨハネの弟子たちがやって来てイェシュアの弟子たちが断食しないことに対する質問、これらの話はみなつながっています。どういう点でつながっているのかと言えば、律法学者たちやパリサイ人たちがイェシュアの言動を理解できず、つまずいて、揚げ足取りとなっているという点と、そのことによってむしろ天の御国の教えの有益な話が引き出される形となっている点です。つまり、天の御国の真理はそれに反駁する者たちの反論を契機としてより深く展開されていきます。

1. ヨハネの弟子たちの質問 

  • 9章14節で、ヨハネの弟子たちがイェシュアのところにやって来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのになぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と質問しました。律法(トーラー)では年に一度、「贖罪日」を、ティシュレー(第七)の月の 10 日に行うことが命じられていました。それはイスラエルの民が過去一年間を振り返り、神に赦しを請う祈りと悔い改めの日々を過ごすものでした。それの以外にも、ユダヤ人たちは宗教的善行としての「断食」の習慣を持っていたようです。特に、パリサイ人たちは週に二度も断食していたようです(ルカ18 :9~13)が、彼らの断食は往々にして偽善的なものであり、その行為を人々に自慢して見せるためのものでした。しかしヨハネの弟子たちの断食はそれとは異なり、自分たちの師であるヨハネにならった禁欲的な断食だったと思われます。「私たちとパリサイ人は」とあるのは、ヨハネの弟子たちとパリサイ人の共通点は「断食」していたことでは一致していますが、両者は特別に仲がよかったわけではありません。むしろパリサイ人たちがヨハネの弟子たちをけしかけて、質問者として仕立てたと言えなくもありません。いずれにしても、彼らはイェシュアの弟子たちが自分たちと同様に断食しないのか理解できなかったです。
  • ヨハネの弟子たちの質問に対して、イェシュアは弟子たちを次のように弁護されました。 

【新改訳2017】マタイの福音書9章15節
イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。

  • イェシュアはヨハネの弟子たちやパリサイ人のしている断食について、ここで何ら非難することはしていません。断食とは悲しみを表わすためにするものであり、喜びにあふれる婚礼の宴会の席において、「花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」と答えています。ここで言われている「花婿」とはイェシュアのことです。「花婿に付き添う友人たち」とはここではイェシュアの弟子たちのことです。イェシュアの弟子たちは「花婿に付き添う友人たち」として、婚礼に招かれた客として歓迎を受けています。ですから、そのような席で彼らは「悲しむことはできない」のです。
  • イェシュアは「天の御国」をしばしば結婚式の披露宴(宴会)にたとえています(マタイ22:1~14、25:1~13)が、「彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときに断食をします。」と答えています。「彼らから花婿が取り去られる日が来ます」とはどういうことでしょうか。当時のヨハネの弟子たちは分からなかったと思います。「彼らから花婿が取り去られる日が来る」とは、イェシュアこの地から取り去られる「十字架(復活と昇天も含む)から再臨までの期間」を表わしています。「花婿が取り去られる日」はイェシュアの弟子たちにとっては悲しみの時です。このときこそ断食すべき時なのだと言われました。イェシュアは山上の説教で弟子たちに対して、断食をするときの注意を語っています。断食をするときには人に見られないように、むしろ断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられる父に見えるようにすべきであると教えていました(マタイ6:16~18)。
  • これで一件落着といきたいところですが、イェシュアは質問されたことを答えることだけにとどまらず、むしろヨハネの弟子たちの質問を契機として、天の御国について新たな面を語っています。イェシュアの関心は常に天の御国のことでした。それが続く16~17節で「二つのたとえ話」によって語っておられるのです。むしろこのことを理解することの方が重要なのです。

2. 天の御国についての「二つのたとえ」

  • まずはイェシュアの語られた「二つのたとえ話」を見てみましょう。

    【新改訳2017】マタイの福音書9章16~17節
    16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。
    17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。

  • 「たとえ話」とは天の御国のことを表す地上の話です。ですから、そこには当然「奇妙な部分」(異質性)を伴います。しかもそれが異質であればあるほど、イェシュアが言おうとされている本質が含まれているのです。「たとえ話」にある異質性はどうみても合理的に見えない非合理性、あるいは反自然的がもの含まれます。天の御国はまさにそうような非合理的、反自然的である点に重要性があるのです。ですから、イェシュアが語る「たとえ話」には、人間の可能性の範囲内で人間的な生き方と連続的に結びつけて解釈されるなら、異質性は失われて天の御国を理解することができなくなるのです。イェシュアが「たとえ話」で語られるのは、むしろそのことに関心を持つことがない者にとっては、むしろ「秘密」にされ、理解させないためなのです。
  • ところがここでの「二つのたとえ話」はとても短く、一見、常識的なことを語っているかのように見えます。しかしなぜイェシュアがこのたとえ話をしたのかが重要なのです。まず「二つのたとえ話」ですが、なにゆえ「二つのたとえ話」がセットとして取り上げられているのでしょうか。それは、「二つ」で一つのことを教えようとしているからにほかなりません。「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。」とか、「人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。」とか、もしそのようなことをすればどうなってしまうかは誰でもわかります。いずれもこの世の常識的なことを語っているように見えます。しかし、その真意は「天の御国」の非常識さを伝えようとしているのです。
  • つまり、ヨハネの弟子たちの「断食」に対する質問を通して、天の御国の到来のあり方が語られているのです。それは天の御国はすでにここにあるということを、「花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」という言い方で表されています。さらに、「彼らから花婿が取り去られる日が来る」という言い方で、天の御国の到来はそれが先延ばしになることが示唆されています。つまり、「彼らから花婿が取り去られる日が来る」が、再び「花婿に会う日が来る」ことが示唆されているのです。そのように天の御国の到来の仕方が二様になっているということです。「二つのたとえ話」の中で言おうとしていることはそのことなのです。このことをもっとわかりやすく話していきたいと思います。
  • イェシュアは天の御国は近づいたと宣教を開始されました。しかし同時に、天の御国はすでにここにあるともいわれました。

【新改訳2017】マタイの福音書 12章28節
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
(※並行記事のルカ11章20節では「神の指」となっています)

【新改訳2017】ルカの福音書17章20~21節
20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

  • 天の御国(神の国)は「近づいた」とも「すでに来ている、あなたがたのただ中にある」という二つの現実を、ギリシア語では当然二つの言葉、二つの時制をもって表します。一体どちらが正しいのかをめぐって神学的論争も起きているほどです。しかしヘブル語の「カーラヴ」(קָרַב)は、なんとこの両方の意味を持っている不思議な語彙なのです。パブテスマのヨハネもイェシュアも、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」ということばで宣教を開始されていますが、この「近づいた」が「カーラヴ」(קָרַב)です。またイザヤが女預言者である妻に「近づいた」とき、彼女はみごもったとあります(イザヤ8:3)。そこから、単に距離的に近づいたという意味だけでなく、「~の中にある」という一体の状態をも意味しています。その意味において、イェシュアは「もう神の国はあなたがたのただ中にある、あなたがたのところに来ている」(マタイ12:28/ルカ17:21)とも語っているのです。
  • ヘブル語の動詞「カーラヴ」(קָרַב)は、限りなく「近づいている」という意味と「すでにあなたがたのただ中にある」という意味を含んだ語彙であることが分かります。つまり、それは神のご計画における「いまだ」と「すでに」という時系列の緊張関係を表わすことのできるまことに不思議な語彙なのです。このような意味を持っている語は他にありません。ヘブル語はまさにイェシュアを通してなされる神のご計画を正しく表現できる神が選んだ聖なる原語と言えます。天の御国の到来をそのように理解すればよいのですが、私たちの常識ではなかなか理解できません。そのことを念頭に置きながら、「二つのたとえ話」が意味することを見ていきたいと思います。
  • このたとえにある「真新しい布切れ」と「新しいぶどう酒」がイェシュアにたとえられているとしたらどうでしょうか。この世の常識が通じなくなります。

(1) 真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをしない

  • なにゆえに「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをしない」のでしょうか。それは、洗濯した場合に、真新しい布切れは古い衣の部分よりも大きく縮むため、真新しい部分が古い部分を引っ張り、最初にあった裂け目よりも大きくしてしまい、「破れがもっとひどくなるから」です。しかし、「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをしない」というはこの世の常識であって、天の御国がこの世のただ中に入ってくるということは、「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをする」ような非常識的なことなのです。実はイェシュアの到来がそのことをもたらしているということです。
  • 古い服に継ぎ合わせられた真新しい布きれは,洗ったり、干したりするうちに縮みます。そして古い服を引きちぎってしまうのです。「真新しい布」である新しい権威をもったイェシュアの存在は、当時の最高法院で、自らの服を引き裂いた大祭司カヤバ(マタイ26:65)に代表される古い律法主義や権威主義を引きちぎったことに象徴されます。そしてそれは同時にイェシュアの死を意味します。イェシュアの十字架の死によって神殿の幕が上から下まで真二つに裂かれたことにもそのことが表わされると言っても良いでしょう(マタイ27:51)。こういうわけで、「真新しい布切れ」であるイェシュアがメシアとして支配する天の御国では、この世の古い衣に継ぎ当てするような世界ではなく、全く新しい世界(王国)なのです。つまり、イェシュアの言う「天の御国」は、この世にあるものの延長線上にはない現実なのです。それゆえ「天の御国のたとえ話」は、人間の常識ではなかなか理解できないのです。当時の律法学者たちやパリサイ人たち、またヨハネの弟子たちにも理解できない事柄だったのです。

(2) 新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりしない

  • マタイ9章16節の「真新しい布切れ」の「真新しい」と訳された形容詞はギリシア語の「アグナフォス」(ἀγνάφος)でとても珍しい語彙です。並行記事であるマルコの福音書の2章21節の二箇所しか使われていません。「(布を)日や水でさらしていない」、まさに「真新しい」という意味です。、9章17節の「新しいぶどう酒」の「新しい」と訳された形容詞はギリシア語の「ネオス」(νέος)です。さらに新しい「ぶどう酒は「新しい皮袋に」と「新しい」はいまだ使われたことのない「新しさ」を意味する「カイノス」(καινός)です。「ネオス」(νέος)にしても、「カイノス」(καινός)にしても、ヘブル語ではいずれも「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)なのです。
  • このヘブル語の「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)という言葉ですが、実は、「王の出現」と「王の統治」と深い関係を持っています。この「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)の初出箇所は出エジプト記1章8節で、「やがて、ヨセフの知らない新しい王がエジプトに起こった」で使われています。この「新しい王」はこの世の王であり、イスラエルの民を境地に陥れるエジプトの王ですが、それは同時に、イスラエルの民に対して主なる神、イスラエルの神こそエジプトの王に勝る「とこしえに統べ治められる王」であることが啓示されます。このように「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)は、王なる権威と密接な関係があるのです。新約の「新しい契約」「権威ある新しい教え」「悪霊を追い出す新しいことば」「新しい戒め」といった言葉の「新しさ」は、すべて王的権威をもった方によってもたらされるのです。したがって今回の「真新しい布切れ」や、「新しいぶどう酒」のたとえは、すべて御国の王であるメシア・イェシュアのことを言おうとしているのです。ちなみに、「ハーダーシュ」の動詞「ハーダシュ」(חָדַשׁ)は、本来、王政(王国)を「樹立する」「一新する」ことを意味しています(初出箇所、Ⅰサムエル11:14)。

【新改訳2017】Ⅰサムエル記 11章14節
サムエルは民に言った。「さあ、われわれはギルガルに行って、そこで王政を樹立しよう(חָדַשׁ)。」

  • ところで、新しいぶどう酒を古い皮袋に注ぎ込むとすれば、古い皮袋は「引き裂かれ」ます。それがこの世の常識です。しかし新しいぶどう酒であるイェシュアの到来は、古い皮袋という律法主義と権威主義を「引き裂いた」のです。この「引き裂く」というギリシャア語は「レーグニューミ」(ῥήγνυμἱ)ですが、ヘブル語にすると「バーカ」(בָּקַע)となります。
  • 「バーカ」(בָּקַע)の初出箇所は創世記7章11節です。地を洪水によってさばきをもたらすために、「大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた」ところに使われています。「バーカ」(בָּקַע)は、地上に住む人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になり、すべての生けるものを大地の面から消し去って、地を新しくするために「大いなる淵の源がことごとく裂けた」だけでなく、出エジプトに見られるように、神はイスラエルの民に紅海を分けて (切り開いて)渡らせました。また荒野で神は岩を割り、大いなる深淵の水を豊かに飲ませてくださったとあります。神のご計画を実現するために、新たに道を切り開くための神の方法が「バーカ」(בָּקַע)という言葉に込められています。まさに古い皮袋を「引き裂いて」神のご計画を切り開く方こそ、「新しいぶどう酒」にたとえられたメシア・イェシュアなのです。それゆえ古い皮袋は「引き裂かれ」るのです。「引き裂く」ことを、イェシュアは「剣をもたらす」とか、「分裂」という言葉で語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書 10章34節
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。

【新改訳2017】ルカの福音書 12章51節
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。


3. 神はメシア・イェシュアを通して新しいことをする

  • 「新しいぶどう酒」とのたとえ話には、「真新しい布切れ」のたとえ話にはないことが記されています。それは「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」という言葉です。ここでいうところの「両方とも」とは、「新しいぶどう酒と古いぶどう酒」のことでもなく、「新しい皮袋と古い皮袋」でもありません。それは「新しいぶどう酒と新しい皮袋」のことです。これは、王であるメシア・イェシュアによって天の御国がやがて完成する姿を意味しています。
  • 神は旧約の預言者を通して「新しいこと」をすると繰り返し語っています。しかしその「新しいこと」は、私たちたちの願いや努力によってではなく、神のご計画によって、王なるメシア・イェシュアによってなされることが示唆されているのです。

【新改訳2017】イザヤ書 42章9節
初めのことは、見よ、すでに起こった。
新しいことを、''わたしは告げる。
それが起こる前にあなたがたに聞かせる''。

【新改訳2017】イザヤ書 43章19 節
見よ、わたしは新しいことを行う。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける
今、それが芽生えている。

【新改訳2017】イザヤ書 48章6節
あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。
あなたがたは告げ知らせないのか。
わたしは今から、新しいことを、
あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせる

【新改訳2017】エレミヤ書 31章31節
見よ、その時代が来る──【主】のことば──。
そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

【新改訳2017】エゼキエル書 36章26節
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
※ここでの「あなたがた」とは、「イスラエル全家」のことです。

  • これらのみことばに約束された「新しいこと」である「新しい契約」「新しい心」「新しい霊」は、すべて「真新しい布切れ」と「新しいぶどう酒」にたとえられた神の御子イェシュアによってのみ実現されるのです。すでに述べたように、「新しい」というヘブル語の「ハーダーシュ」(חָדָשׁ)は、王が新しく台頭して統治する概念です。それゆえ、王なるメシアであるイェシュアがこの地上において完全に統治する再臨の時をいよいよ待ち望みながら、今与えられている天の御国の恵みにあずかりたいと思います。

2018.7.15


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