****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

真の祭司とそうでない祭司との違い

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7. 真の祭司とそうでない祭司との違い

【聖書箇所】 3章13~18節

ベレーシート

  • マラキ書3章13〜18節は二つの部分に分かれます。一つは13〜15節で、当時の祭司たちが持っていた思い。もう一つは16〜18節で、主を恐れる真の祭司は「わたしが事を行う日」に明らかにされるという約束です。
  • 祭司の第一義的な務めは、神と顔と顔を合わせて主を知り、主と親しく交わることです。エデンの園においては、その務めが「地を耕し、そこを守る」と表現されています(創世記2:15)。神のかたちとして造られた人間の務めは、後に「王である祭司」「祭司の王国」というフレーズで表わされるように、「地を支配すること」と「地を耕す」ことです。王として地を支配する力は、祭司として地を耕すという務めを疎かにするときに喪失します。それはダビデとソロモンの治世を見ると理解することができます。ダビデは完全な人間ではありませんでしたが、王である前に祭司としての務めを最も重要視した人です。詩篇27篇4節の「私は一つのことを主に願った」ということばにそのことがよく表わされています。ところが、ソロモンは王として治める力を求め、それが与えられましたが、彼はダビデのように「主を求める」祭司としての務めを自ら求めることにおいて脆弱でした。王としての賜物を与えられていましたが、ダビデのような「主を尋ね求める」霊性が見られませんでした。そのことを父ダビデは見抜いていたのかどうかわかりませんが、後継者となるソロモンへの遺言として、次のように語っていたのです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰ歴代誌28章9節
わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。【主】はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。


●父ダビデは子ソロモンに、
(1)「神を知ること」(「ヤーダ」יָדַע)
(2)「神に仕えること」(「アーヴァド」עָבַד)
(3)「神を求めること」(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)
を命じています。これら三つはすべて祭司的務めです。王としての務めの前にこれらの祭司的務めの大切さを語っていたのです。

  • マラキの時代の属国としての状況が長引く中で、ダビデの霊性を喪失した祭司たちが多くいたのではないかと思います。このことが、3章13〜15節の記述です。

1. 「神に仕えることはむなしいしいことだ」とする発言

【新改訳改訂第3版】マラキ書3章13〜15節
13 「あなたがたはわたしにかたくななことを言う」と【主】は仰せられる。あなたがたは言う。「私たちはあなたに対して、何を言いましたか。」
14 あなたがたは言う。「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の【主】の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。
15 今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」と。


●「あなたがたはわたしにかたくななことを言う」と訳された原文の直訳は、「あなたがたの言葉はわたしにとって強い」です。「強い」は「ハーザク」(חָזַק)で、本来、神が民やその指導者に語った「強くあれ」という励ましの語彙です。しかしここでは、祭司たちの言葉が神にとって「強い、ひどい、かたくなな」ことばだとして使われています。その言葉とは「神に仕えるのはむなしいことだ」というものです。「むなしいこと」と訳された「シャーヴ」(שָׁוְא)は「いつわり」とも訳せます。つまり「偽善だ」という意味です。これは神を悲しませるひどい言葉ではないでしょうか。たとえ自分の素直な気持ちだとしても、祭司の語るべき言葉ではありません。そのことばが神の心をいかに傷つけるものであるかを知らずにいるのです。

●さらなる問題は、祭司たちの心は神に向けられず、地的現実に縛られ、「神の戒めを守っても、・・何の益になろう。」と語っていることです。つまり「何の得にもならない」という発言も祭司としては神に対する重大な問題発言です。なぜなら、その発言は「善と悪」「益と損」の価値観が逆転しているからです。神の基準ではなく、人間の(肉的な)価値観、この世の価値観に心が支配されてしまっているからです。


  • 牧師という仕事をしていると、こうした思いに駆られる時が必ず襲ってきます。時折か、あるいはしばしばか、人によってそれは異なります。神のご計画の全体からこの務めを理解しようとしない限り、「むなしさ」から逃れることはできないように思います。祭司の務めを果たすためには、いつの時代においても、神のご計画の全体像を知ることを求めながら、同時に、天的現実から地的現実の行く末を悟る必要があるのです。

2. 「主を恐れる」祭司たちの「残りの者たち」

  • 16〜18節には、残された真の祭司たちに対する主の約束が語られています。

【新改訳改訂第3版】マラキ書3章16〜18節
16 そのとき、【主】を恐れる者たちが、互いに語り合った。【主】は耳を傾けて、これを聞かれた。【主】を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。


●16節の「そのとき」とは、主に「かたくななこと」を言っている祭司たちが主から叱責されているときであり、そこには真の祭司たち、つまり「主を恐れる」祭司たちがいたのです。「主を恐れる者たち」と「主の御名を尊ぶ者たち」とは同義です。そして、これらの者たちは「互いに語り合っていた」のです。その内容については聖書には何も語られていません。しかし、主は彼らが語っていたことに耳を傾けて聞かれ、彼らについて「記憶の書」がしるされたとあります。主が耳を傾けられるという表現の背景に、真の祭司たちが真の務めをなしていた現実が浮かび上がってきます。

●「記憶の書」とは何でしょうか。この言葉はこの箇所にしか使われていませんが、おそらく、それは神の最後のさばきの時に開かれる「いのちの書」(ヨハネの黙示録3:5/13:8/17:8/
20:12,15/21:27)と関連があるように思われます。


  • 記憶の書」に記された残りの真の祭司たちに対する主の約束は以下の通りです。

(1) 「わたしの宝となる」
・・「宝」とは神にとって特別な存在となることを意味します。

(2) 「わたしは彼らをあわれむ」
・・ここでの「あわれむ」と訳されたヘブル語は「ハーマル」(חָמַל)で、旧約では41回の使用頻度です。

(3)「正しい人と悪者」「神に仕える者と仕えない者」との違いを見る

・・人はかつてエデンの園において禁じられた「善悪の知識の実」を食べてしまったために、すべての善悪の知識、つまり、神の善悪の基準を知ることができなくなりました。しかし、終わりの時には、人が「再び」神の基準を「見る」ようになることが約束されています。「違い」という訳は意訳です。原文では「〜と〜の間」を意味する前置詞の「ビーン」(בִּין)が使われ、その名詞形が「ビーナー」(בִּינָה)で、悟り、識別を意味します。「シューヴ」(שׁוּב)と「ラーアー」(רָאָה)の二つの動詞が合わさって「あなたがたは、再び、見る」となっています。「見る」は「知る」「悟る」「見分ける」ことと同義で、それによって「エデンの園の回復」の一面を見るようになるのです。と同時に、それは、神のご計画全体の完成を「見る」ことにもつながっているのです。


2015.7.22


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