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権威を行使するイェシュア(4)「自然」

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30. 権威を行使するイェシュア(4)「自然」

【聖書箇所】マタイの福音書8章8章18~27節

ベレーシート

  • 御国の権威を行使するイェシュアの奇蹟を学び始めています。それは教えのみならず、癒しのみわざにおいて現わされました。ツァラアトのきよめ(8:1~4)、百人隊長のしもべで中風やみの癒やし(8:5~13)、ぺテロの姑の熱病の癒やし(8:14~15)、さらには悪霊につかれた人々、病気の人々をみな癒やされました。今回は、御国の権威が自然界において現わされています。

【新改訳2017】マタイの福音書8章18~28節
18 さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。
19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。
24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
27 人々は驚いて言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
28 さて、イエスが向こう岸のガダラ人の地にお着きになった。


1. 向こう岸へ行く

画像の説明
  • イェシュアの宣教の本拠地はカぺナウムでしたが、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられました。「向こう岸へ」とはマタイでは「ガダラ人の地」となっていますが(8:28)、マルコとルカでは「ゲラサ人の地」となっています(マルコ5:1、ルカ8:26)。「ガダラ人の地」は「ゲラサ人の地」の一区画であったようです。文脈の流れをみると、イェシュアと弟子たちは「カペナウム」⇒「向こう岸(ガダラ人の地)」へ行き、そこから再び「カペナウム」に戻っています。イェシュアにとって「カペナウム」は「こちら側」であり、「ガダラ人の地」は「向こう岸」なのです。なにげない事柄ですが、すべて意味をもっているのです。つまり、「ガダラ人の地」とは後で分かりますが、「異邦人の地」なのです。
  • 18節に 「さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」とあります。群衆も弟子たちも、イェシュアにつき従っていたのです。つまり、イェシュアに従う二つのタイプがあります。

(1) イェシュアにつき従う二つのタイプ

イェシュアに招かれた形ではなく、ただイェシュアにつき従っているタイプ 
大勢の群衆がそうです。イェシュアは彼らを信用していません。彼らは真の弟子について悟ろうと
はしません。

イェシュアに招かれた形でイェシュアに従ったタイプ 
もう一つのタイプは、シモンとアンデレ、およびヤコブとヨハネのように、イェシュアに招かれた特定の弟子たちです。彼らはイェシュアの招きに対してすぐに網と舟と父親を残してイェシュアに従っています(4:20, 22)。レビ(=マタイ)もその一人でした(マタイ9:9)。イェシュアの招きはきわめて単純です。「わたしについて来なさい」「わたしに従いなさい」。これは現在命令形で一回限りの命令ではありません。その生涯において、イェシュアに「絶えず」従って行くことが求められています。と同時に、真の弟子としてふさわしく整えられるための訓練が施されるのです。「(あなたは)わたしに従いなさい」(英語ではFollow me)ということばは、イェシュアしか使っていないことばです。

(2) なにゆえに、イェシュアは弟子たちに「向こう岸に渡るように命じられた」のか

  • なにゆえにイェシュアは「向こう岸」である「ガダラの地」へ行ったのでしょうか。「ガダラの地」での出来事については次回に学ぶことにしますが、「向こう岸に行く」というのは秘密が隠されているように思います。つまり、これは単にある地域からある地域へ移動するという意味ではなく、次元の異なる世界へ渡っていくという意味があるように思います。つまり、イェシュアが弟子たちと共に「向こう岸へ行く」、あるいは「向こう岸に渡る」ということの中に深い意味があるのです。「向こう岸へ行く」のは弟子たちの訓練のためなのです。「行く」(渡る)をヘブル語で見るとそのことが明白です。そのヘブル語とは「アーヴァル」(עָבַר)で、「ヘブル人」(「イヴリート」עִבְרִית)の語源となっています。つまり、「ヘブル人」とは「川を渡って来る者」という意味で、人間中心の世界から神中心の世界に、人間の価値観から神の価値観へ「渡って来る」ということなのです。それが何を意味するのかを、イェシュアは「語り」、そして「実地訓練」を通して教えようとされているのです。ですから、単に、弟子たちと静かな所に行って休息の時を過ごすというようなことでも、あるいは、向こう岸の地域での働きを展開しようとするためでもなさそうです。
  • たとえ、その過程で何があったとしても、イェシュアが「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた」意図は途中で変更されたり、妨げられたりすることはないということです。特に、ユダヤの地から異邦の地に行き、そしてユダヤの地に戻るということにおいて、つまりその順序において、神の不可抗力的な計画が表わされていると言えます。それゆえ、神によって導かれる者は幸いです。イェシュアの後について行く者は幸いです。なぜなら、神の計画と永遠の約束が保障されているからです。

2. イェシュアのあとに従う真の弟子とは

  • 以下、三つの節の黄色の部分は、「アコルーセオー」(ἀκολουθέω)という同じ動詞が使われています。

19 そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます(未来形、1人称、
単数)。」
20 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」
21 また、別の一人の弟子がイエスに言った。「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」
22 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしに従って来なさい(現在命令形2人称単数)。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」
23 それからイエスが舟に乗られると、弟子たち従った(アオリスト、3人称複数)。

(1) 「一人の律法学者」の場合

  • 「一人の律法学者」が、「先生、あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」とイェシュアに申し出ました。律法学者といえば、パリサイ派の人々と共に常にイェシュアの言動に対して批判する立場の人たちでした。それを、ここではイェシュアのことを「先生」と言って、「私はついて行きます」と言ったのです。つまり「私を弟子にしてください、あなたに対する私の熱意と純粋さはだれにも引けを取りません」と言ったかどうかはわかりませんが、「あなたの弟子にしてください」とはすばらしい申し出です。ところが、イェシュアは弟子としての本当の覚悟ができているのかどうかを彼に問いました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」。「人の子」とはイェシュア自身のことを指しています。イェシュアは自分を指して「人の子」と呼んでいました。その「人の子には枕するところもないのですよ。それでもこのわたしについて来るというのですか、その決意があるのですか」と、いわば、熱意に水を差すというか、突き放すような言い方をしています。
  • そもそも、「枕するところもない」とはどういうことでしょうか。ここで使われているギリシア語は「クリノー」(κλίνω)ですが、なんとイェシュアが十字架にかかり死なれた箇所に「頭をたれて」の部分で使われています。イェシュアにとっては、片時も休むことなく、自分に与えられた使命を果たし終えられるまで、「枕することがなかった」という意味です。職場でタイムカードを打つような仕事ではなく、休まることなく、使命のために働かれたのです。「あなたはそれに耐えられますか」と、その律法学者に尋ねたのです。果たして、それでも、「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言ったでしょうか。一時の感情でものを言っていることをイェシュアは見抜かれたのかも知れません。弟子としての覚悟ができているかを問いかけたのです。

(2) 「別の一人の弟子」の場合

  • また、「別の一人の弟子」が登場します。これは「弟子たちの中の一人」という意味です。彼は「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」と言っています。一見、これだけを聞くと、父はもうすぐ亡くなるので、せめて父を葬ってから従います」と言っているように見えます。ところが、ユダヤの社会では意味が全く異なります。ユダヤにおいて、父を葬るというのは当然の義務であって、父の面倒を最後まで見てから、それから主であるイェシュアに従っていきますという意味です。これに対して、イェシュアは「わたしに従って来なさい」と言い、「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」とも言っています。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。」とはどういうことでしょうか。これは主の弟子たちとは、いのちの事柄にかかわる重い仕事(使命)であるゆえに、父を葬る仕事はいのちを知らない者に任せておけ、つまり、いのちの事柄にかかわっていない者に任せておきなさいということです。永遠のいのちに携わる働きの優位性と専心性が語られているのです。それはイェシュアを信じて従う者でなければ果たし得ないことだからです。この弟子もイェシュアに従ったのかどうかは分かりません。

(3) イェシュアに従った弟子たちの場合

  • イェシュアの真の弟子として、最初の二人(一人は律法学者、もう一人の弟子)はふさわしい弟子ではありませんでした。では、向こう岸に渡る舟に乗ったイェシュアに従った弟子たちはどうでしょうか。

24 すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

  • 「すると見よ」です。これが今回の注目です。湖は「大荒れとなり」とあります。新改訳改訂第三版では「湖に大暴風が起こって」とあるので、「風によるもの」と理解されますが、原文ではこの「大荒れ」とは、地震による「大きな揺れ」を意味します。つまり、風によって引き起こされたものではなく、地震によって津波のような現象が生じて、舟が大波をかぶったのかもしれません。いずれにしても、波をかぶって水浸しになった舟は死の危険を招きます。ところがイェシュアはなんと舟の上で「眠っておられた」のです。
  • イェシュアは先を見越して「向こうの岸」へ行こうとされたのではないでしょうか。とすれば、弟子たちが真の弟子となるために、どうしても実地訓練をしておく必要があったことになります。イェシュアは「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた」のでした。つまり、「弟子たちが向こう岸に渡ることが」どうしても必要であった必然は何かと問うなら、それは彼らがイェシュアの後に従う弟子になることです。先の二人の弟子の場合は「教え」がなされましたが、舟に乗り込んだ弟子たちに対しては、実地訓練がなされていたのです。
  • たとえ、水が舟の中に入ってきたとしても、イェシュアの乗り込んだ舟が沈むことは神の必然としてあってはならないのです。にもかかわらず、弟子たちの反応はどうだったでしょうか。

25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。

  • これが危機に対する普通の人間の反応です。しかしここでイェシュアは、この世とは異なる、イェシュアの支配の中にある御国の弟子たちとして成長することを学ばせようとしておられるのだと信じます。それは自然災害的な危機、あるいは経済的な危機、生存の危機、防衛の危機に対して、イェシュアが共にいることの御国の真実を理解させる訓練であったと言えます。そのためにも「向こう岸に行く」ことが必然だったのです。

3. 眠りから、起き上がったイェシュア

(1) 眠っておられたイェシュア

「湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。」

  • 「眠っておられた」は未完了形で、「ずっと眠っておられた」という意味です。つまり、熟睡しておられたということです。不思議なことに、詩篇3篇にも似たような話があります。それはダビデが息子アブシャロムによってクーデターを起こされ、命からがら都を追われるという事態が起きました。そのときの様子をダビデは次のように描いています。

【新改訳2017】詩篇3篇1~2節
1 【主】よ。なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2  多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。セラ

  • 「彼には神の救いがない」と多くの人は思ったことでしょう。ところがダビデは信仰を告白します。

    【新改訳2017】詩篇3篇3~4節
    3 しかし【主】よ。あなたこそ私の周りを囲む盾、私の栄光、私の頭を上げる方。
    4 私は声をあげて【主】を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ

  • この告白に基づいてダビデは、

    【新改訳2017】詩篇3篇5~8節
    5 私は身を横たえて、眠り、また目を覚ます。【主】が私を支えてくださるから。
    6 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。
    7 【主】よ。立ち上がってください。私の神よ。お救いください。
    あなたは私のすべての敵の頬を打ち悪しき者の歯を砕いてくださいます。
    8 救いは【主】にあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。セラ

  • ダビデはイェシュアの型です。特に、「眠り、また目を覚ます」の「眠り」は「ヤーシャン」(יָשַׁן)で、深く眠る、熟睡するという意味です。初出箇所は創世記2章1節、神が人に「ふさわしい助け手」を与えようとして、人は神によって深く眠らされます。ここに、完全に人としてのアダムは神に信頼している姿を見ることができます。ダビデも完全に神に信頼していることを「眠る(熟睡する)」ということばで表わしています。「安眠」できるということは神への信頼の表現なのです。また、「目を覚ます、目覚める」は「キーツ」(קִיץ)の使役形で、復活を意味する語彙です。これは死の眠りについてイェシュアがやがて目覚めることの「型」であると言えます。ダビデにしても人間の目から見るなら、すでに死んだのです。ところが神はアブシャロムの計らいを転覆させます。ダビデはただ安心して「身を横たえて、眠り、目を覚ます」だけでした。まさに、「救いは主にある」のです。

(2) 起き上がり、風と湖とを静められたイェシュア

【新改訳2017】マタイの福音書8章25~26節
25 弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
26 イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

  • マタイの8章15節でイェシュアがペテロの姑の手に触れられると、熱がひき、彼女は起き上がって、もてなしをしました。その時の「起き上がって」がギリシア語の「エゲイロー」(ἐγείρω)でしたが、ここでの25節の「起こして」も、26節の「起き上がり」も、同じく「エゲイロー」(ἐγείρω)で、復活を意味する語彙でもあります。「湖は大荒れになり、イェシュアは眠り、その後、また目を覚まして、起き上がる」という一連の出来事の中に、イェシュアは弟子たちに自分自身の将来の出来事を啓示しようとしていたのかも知れません。つまり、イェシュアが十字架の上で死なれた時に地震が起こり、イェシュアが墓の中に眠らされた後に、再度、地震が起こって墓石が転がされ、イェシュアは復活しているからです。

(3) 私たちがすべきことは、どんな状況の中でも信仰をもって、安心(安息、安眠)していること

  • イェシュアがひとたび「向こう岸へ行く」と決めた以上、必ずそこへ行けるのです。たとえ途中で波にのまれそうになったとしても、です。それゆえイェシュアは眠ることができたのです。「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」とあわてている弟子たちに対して、イェシュアは「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」と言われましたが、まさに、これがイェシュアの弟子として学ぶべき実地訓練だったのです。御父を信じて眠ることができるイェシュア、ここに御父に絶対的に信頼する御子イェシュアの姿を見ることができます。まさに神を信じる信仰とはこのようなものだということを教えようとされたのです。「わたしに従って来なさい」というイェシュアの招きは、ただイェシュアの後について行くだけでなく、イェシュアのすべてを模範として生きることでもあるのです。御父への信頼、御父の心を心として生きること、御父から与えられた使命を成し遂げること、御父から与えられた権威(ここでは自然さえも支配する権威)を用いることなどなど。これらのことがイェシュアを信じる私たちのうちに、より培われるように祈りましょう。それがイェシュアの後について行くことなのです。

2018.3.11
※このメッセージをしようと講壇に立った時、私の脳はすでに出血していました。原稿は神田師に代読してもらいました。


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