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新しく造られた者としての和解の務め


5. 新しく造られた者としての和解の務め

【聖書箇所】Ⅱコリント書5章1~21節

べレーシート

●前回、パウロの「私たちは落胆しません」という宣言の根拠として、
(1)「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」という信仰
(2)「一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光をもたらす」という信仰
(3)「見えるものにではなく、見えないものに目を留める」という信仰
の三つを挙げましたが、(3)の部分は5章で展開されているため、今日の箇所で取り上げて学びたいと思います。

1. 見えないものにこそ目を留めるという信仰

【新改訳2017】Ⅱコリント書5章1~4節
1 たとえ私たちの地上の住まい(οἰκία)である幕屋(σκῆνος)が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物(οἰκοδομή)、人の手によらない永遠の住まい(οἰκία)があることを、私たちは知っています。
2 私たちはこの幕屋(σκῆνος)にあってうめき、天から与えられる住まい(οἰκία)を着たいと切望しています。
3 その幕屋(σκῆνος)を脱いだとしても、私たちは裸の状態でいることはありません。
4 確かにこの幕屋(σκῆνος)のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋(σκῆνος)を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まい(οἰκία)を上に着たいからです。

●3節は原文とは異なります。直訳は「もしほんとうに私たちが(それ=天から与えられる住まいを)着たなら」 
●4節の新改訳2017では「かえって、むしろ」を意味する「アッラ」(ἀλλά)が訳されていません。「うめいている」について、その「うめき」は「天からの住まいを上に着たいから」だとパウロは語っています。

①「住まい」(「オイキア」οἰκία、「ベート」בֵּית)
「地上の住まい」と「人の手によらない永遠の住まい」(天から与えられる住まい)
●イェシュアが「わたしの父の家には住む所がたくさんあります」(ヨハネ14:2)の「住む所」も「オイキア」(οἰκία)です。
②「幕屋」(「スケーノス」σκῆνος、「オーヘル」אֹהֶל)
=「地上の住まい」・・重荷を負ってうめいている、壊れる運命にある
③「建物」(「オイコドメー」οἰκοδομή、「ビヌヤー」בִּנְיָן) 
=天から与えられる「住まい

●パウロはからだの置き場所を「」(幕屋、住まい、建物)から、着物にたとえています。天からの住まいを「着る」という語彙が2節と4節にあります。「着る」(「エペンデュオー」ἐπενδύω)は「エピ」(ἐπι)+「エンデュオー」(ενδύω)の合成語で「~の上に着る」という意味です。したがって、地上の幕屋を「脱ぐ」のではなく、天からの住まいを「着る」というイメージです。その点では新共同訳は「上に着たい」と訳しています。そのイメージをパウロは『死ぬはずのものが、いのちによって「呑み込まれる」(「カタピノー」καταπίνω)』と表現しています。実は、この「着る」と「呑み込まれる」という言葉が、第一コリントの手紙にも使われていました。つまり、「着る」ことによって、「死ぬべきものが、いのちに呑み込まれる」のです。「着る」ことを別の表現で言うならば、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」ということです。

●パウロはⅠコリント書15章51~54節でこう書いています。

【新改訳2017】Ⅰコリント書15章50~54節
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」

●パウロは「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」ことを「朽ちないものを着る」と表現しています。このような言い換え表現をへブル的パラレリズムと言います。「朽ちないものを着る」ことによって、「死は勝利に呑み込まれた」ことが実現するのです。このようにパウロの文体だけでなく、彼の思想自体がへブル的パラレリズムなのです。

●先にパウロは、4章の最後の節で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」と述べて、「見えないもの」の説明を5章1~4節で述べました。そして、5節「そうなるのにふさわしく私たちを整えてくださったのは、神です。神はその保証として御霊を下さいました」と述べています。「整える」と訳された「カテルガゾマイ」(κατεργάζομαι)は、神が「完全に成し遂げられた」という意味がありますが、ここでは神が「生じさせる、引き起こす、もたらす」の意味です。その保証として「御霊を下さる」とは、この事実を私たちに信じさせ、永遠の希望をもたらしてくれたことを意味しています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書5章6~9節
6 ですから、私たちはいつも心強いのです。ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています。
7 私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
8 私たちは心強いのですが、むしろ肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと思っています。
9 そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。

●6節で、Ⅱコリント書では死ぬべき「肉体=からだ」を意味する「ソーマ」(σῶμα)が登場しています。すでにⅡコリント4章11節にも出てきましたが、5章では8節と10節にも使われています。9節にはこの言葉自体はありません。私たちの感覚としては身近な語彙です。

●ここで6節と8節に「心強い」と訳された語彙があります。これは「勇気を持つ」「勇気を失わない」「自信を持つ、安心する、しっかりする」という意味の「サルセオー」(Θαρσεω、ないしΘαρρεω)でパウロの特愛用語です。ここだけでなく、Ⅱコリント書の7:16、10:1、10:2、へブル13:6にも使われています。この「心強さ」は、「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知って」(5:1)いるからです。と同時に、「ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れているということも知っています」と述べています。

●パウロは聖書にある「御国の到来」の「すでに」と「いまだ」の緊張関係をここで述べています。神のご計画においては、すでに「永遠の住まいが与えられている」、しかし、いまだ私たちが肉体を住まいとしている間は(新しいからだ、復活のからだに変えられていない今は)、主から離れているとも言い、その意味において「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」が、この信仰的希望のゆえに「私たちは心強い」のだと言っています。しかしパウロ自身の本心としては、一日も早く肉体を離れて、主のみもとに住むほうがよいと願っているのですが、肉体を住まいとしている間もそれなりの意味(使命)があるので、いずれにしても (肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても)、私たちの念願とすることは「主に喜ばれること」だとしています。その理由を10節で以下のように記しています。

【新改訳2017【Ⅱコリント書5章10 節
私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。

●ここにある「キリストのさばきの座」とは、黙示録20章11節にある「大きな白い御座」のさばきではありません。「大きな白い御座」のさばきはいのちの書に書き記されているところによってさばかれますが、それとは区別される「キリストのさばきの座」(「ベーマ」βῆμα)は、クリスチャンがしたことに応じて報いを与えられるところのさばきです。「報い」と訳された「コミゾー」(κομίζω)はキリストの再臨の時に、主から受け取る御国の「報い」であり、クリスチャンのすべてが必ずキリストのさばきの座で明るみに出されるのです。

●いずれにしても、終末論的信仰を生きる動機を「主に喜ばれること」だと結論付けたパウロは、一気に「見えないもの」から「見えるもの」に、つまり現実的な、今のクリスチャンに与えられた務めに舵を切って語り出します。ですから、パウロは11節で「主を恐れることを知っている私たちは、人々を説得しようとしています」と記しています。「主を恐れる」とは「主を畏れる」の意味です。パウロたちが人々を説得しようとしている動機は「主を恐れていることを知っている」だけではありません。もう一つの動機は「キリストの愛が私たちを捕らえている」(新改訳2017)からです。以前は「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」という訳でした。「捕らえている」「取り囲んでいる」と訳された「スネコー」(συνέχω)は、「押し迫る、駆り立てる」という意味で、イェシュアのもとに群衆が押し寄せる、海の波が海岸に押し寄せるという意味で使われています。文語訳では「キリストの愛われに迫れり」と訳されています。キリストの愛が自分に強く迫ってくる、押し寄せてくる、駆り立てる、これが「スネコー」(συνέχω)のイメージです。それこそが人々を説得しようとする動機だとパウロは言っています。つまり、人々に説得する(奉仕する)動機は「恐れ」と「」の二つなのです。

2. 和解の全権大使としての務め

(1) 「新しく造られた者」として生きる

【新改訳2017】Ⅱコリント書5章14~16節
14 ・・・・・・・・・・・・・ 私たちはこう考えました。 一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と。
15 キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

●14節で「私たちはこう考えました」とあります。つまりパウロは新しい視点(観点)を提起しています。その重要な視点も二つあります。ひとつの視点は「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」ということ。もうひとつの視点は「肉にしたがって人を知ろうとはしない」(「今はもう決してしない」という強い否定)ということです。ここで「肉」という言葉が出てきます。先に死すべき「肉体」の原語は「ソーマ」(σῶμα)でしたが、ここの「肉」の原語は「サルクス」(σάρξ)です。これは「人間的な見方、人間的な標準」を意味します。これらの二つの視点を一つにまとめたのが、17節の「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という表現です。「見よ。すべてが新しくなった」はいかにもへブル的な表現です。これをヘブル語にすると「アーサー」(עָשָׂה)の3人称複数受動態完了形です。確実にそうなることを前提に語っています。

●キリストにあって「新しく造られた者」とは、「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる」者であり、「肉にしたがって人を知ろうとはしない」者のことだとし、そして18節でパウロは「これらのことはすべて、神から出ているのです」としています。それだけでなく、パウロはキリストにあって「新しく造られた者」には「和解の務め」が与えられていると言っています。

(2) 「和解の務め」を与えられた(ゆだねられた)者として生きる

●これまでもⅡコリント書では、クリスチャンのことを「キリストの香り」「キリストの手紙」「宝を入れている土の器」と表現してきましたが、ここでは「和解のことばをゆだねられたキリストの使節」とされています。「和解のことば」とは「和解の福音」のことです。「和解」をわかりやすい言葉で言うなら、「かかわりのよりを戻す」ということです。その務めを担う者こそ、キリストにあって「新しく造られた者」なのです。

【新改訳2017】Ⅱコリント書5章18~21節
18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。 
19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。 私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
21 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。

●Ⅱコリント書5章18~20節のテキストを分析してみると、パウロはここでもヘブル語特有の修辞法である「パラレリズム」(並行法)を用いていることがわかります。

① 18節と19節とは同義的パラレリズム(並行法)です。
18節「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」 
19節「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、・・和解のことばを私たちに委ねられました。」

②20節も一種のパラレリズムになっています。
神が私たちを通して勧めておられます。
私たちはキリスト代わる使節なのです。
私たちはキリストに代わって願います。
⇒「神と和解させていただきなさい。」(懇願的命令で表現するなら「神の和解をどうか受け入れてください」)

●「和解」に関する動詞のすべての主語は「神」であり、私たちは常に受け身です。つまり、神によって「和解させられた」者であるということです。私たちが神に敵対している時でさえも、神の側ではすでに和解がなされているのです。神における「和解」とは、決して相互的なものではなく、神の一方的、能動的、しかも決定的なアオリスト的行為だということです。

●「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ」というフレーズを別のことばで表現するならば、神の方が先に無条件で私たちを「受け入れられた」という「受容」の概念です。このことが、「和解の務め」の前提となる「和解」の出来事です。これは、後で取り上げる「二人の息子を持つ父」のたとえの中の「弟息子」に対する父の態度に見ることができます。Ⅱコリント5章18~20節から言えるもうひとつのことは、使徒パウロのいう「和解の務め」とは、第一義的には、争いや敵意をもった両者の調停役、客観的立場である仲介者としての務めではなく、神(キリスト)に代わって語る「懇願のミニストリー」だということです。このことを理解する例が、「二人の息子を持つ父」のたとえの中の「兄息子」に対する父の態度に見ることができます。

3. 「二人の息子の父」に見る「和解の務め」としてのイメージ

●「二人の息子の父」とは、「放蕩息子のたとえ」として知られている話に登場する「父」のことです。この父の姿にこそ、完璧な「和解の務め」のイメージが映し出されているように思います。二人の息子に対する父の「和解の務め」を、これほどまでに分かりやすくイメージできるものは他にはないように思います。ここで私たちが「和解」ということばのイメージから連想する、仲違いする兄弟間の争いを仲介する父のイメージはありません。聖書的な「和解」とは、神の「受容」と神の「懇願」の二つの概念が含まれています。したがってルカの「二人の息子を持つ父」のたとえでも、父の弟息子に対する受容と、兄息子に対する懇願の二つの概念が同時に語られているように思います。つまりパウロのいう「和解の務め」を、父は弟息子に対しても、また兄息子に対してもしているのです。このように「和解の務め」としてのイメージは、実は、このたとえ話の中に登場する父のイメージなのです。父の存在、父のふるまい、父の喜び、父のことば、父の懇願が、そのまま「和解の務め」であり、「和解のことば」なのです。

●もう少し、このたとえ話に入って見てみたいと思います。このたとえ話に登場する二人の息子のうち、どちらかというと、弟息子が注目されがちです。なぜなら、弟息子のその回心へと至るドラマ性の中に神の恵みが豊かにあらわされているからです。ところが、兄息子の方はそうしたドラマ性が全くありません。同じく父の家に住みながら、父とのかかわりにおいて大きな隔たりがあります。いなくなった一匹の羊、失った一枚の銀貨、そして父の家から旅立った放蕩息子、いずれもやがて本来あるべき場所に戻ってきた時の喜び、それを分かち合うのは当然だとしている点が共通しています。しかし最後の例え話では、喜びを分かち合うことが当然と考える父の必然に対して、それを必然と思えない兄息子の存在がクローズアップされています。特に、この父と二人の息子のたとえ話が伝えようとしている重要なポイントは、兄息子が抱えている問題の深刻さにあります。そこには人間が抱えている深い根があるように思います。しかも、それは、和解の務めの困難さを予感させています。

(1) 弟息子に対する父の先取的受容

●父から財産の分け前をもらった弟息子は、幾日もたたぬうちに、父から遠く離れ、「遠い国へと旅立った」とあります。そして、自分の好き勝手に生きようとしました。しかしその結果はなんとも悲惨なものでした。金の切れ目が縁の切れ目と言われるように、やがてはだれからも相手にされず、孤独の空しさに陥りました。そこで彼ははじめて自分が父から離れたことが間違いであったことに気づき、父のもとに帰ろうと決心します。神に対しても、父に対しても罪を犯したことを認め、自分は子と呼ばれる資格がないと自覚しつつも、「立ち上がって」(「アニステーミ」ανιστημι、復活用語です)、父のもとへと帰って行きます。ところが、まだずっと離れているにもかかわらず、そんな弟息子を見つけたのは父の方でした。父は、かわいそうに思い(神のあわれみを表わす重要な語彙「スプランクニゾマイ」σπλαγχνίζομαι)、走り寄って彼を抱き、(何度も)口づけしました。何とも感動的なシーンです。

●弟息子に対する父の動作を表わす四つの動詞に注目する必要があります。
①「見た」・・父の方が先に見つけたのです。父は息子の帰りを待っていたことが分かります。
②「かわいそうに思った」・・神のあわれみを表わす重要な動詞で、単なる同情ではなく、必ず行為を伴います。
③「走る」・・父の方から走り寄って
④「抱きついた」・・正確には、首の上に抱きついた。
⑤「なんども口づけした」

●この段階では、弟息子は何も語っていません。ただ帰ってきたままの状態ですが、父は完全に彼を受け入れているのです。これがパウロのいう神の「和解」です。息子のいう「もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません」という人間的な価値観に左右されることなく、彼を自分の息子として迎えたのです。その証拠が、上等な着物を着せることであり、手に指輪をはめさせることであり、盛大な祝宴だったのです。これがパウロのいう「和解の務め」です。

(2) 弟の帰りを歓迎しない兄息子に対する父の懇願

●「私はもうあなたの子と呼ばれる資格はありません。」と帰還した弟息子を、「死んでいたのが生き返り、いなくなったのが見つかったのだから」と言って喜ぶ父。肥えた子牛がほふられ、音楽と踊りを伴う盛大な祝宴。そこに兄息子が畑から帰って来て、家に近づきました。ところが、しもべから事の事情を聞いた兄息子は、おこって、家に入ろうともしなかったのです。なぜ兄は弟の帰りを喜ぶことができなかったのか。兄の怒りをなだめようとする父に対する兄の言い分が29, 30節に記されています。

【新改訳2017】ルカの福音書15章29~30節
29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。

●怒りを伴う兄の言い分には、これまで長い間、どんなに一生懸命に父に仕え、父の言われることに従ってきたかという思いがあります。また放蕩三昧をし、財産を食いつぶして帰ってきた弟に対する妬みさえも感じられます。そしてその弟に対する父のあまりにも好意的な振る舞いに対して、我慢がならないという思いが見て取れます。

●もしこの兄の言い分に「全く同感だ」という思いがあるならば、その人もこの兄息子と同じ問題を抱えているのかもしれません。父の家に共に住みながら、父の思いを共有することができず、本当の父を知らなかったと言えます。父の喜びを自分の喜びとすることなく、父の悲しみを自分の悲しみとすることなく、ただ良い行いによって父からの好意(愛)を得ようとひたすら頑張って生きてきた兄。そこには、感謝も自由も喜びもなく、文句の一つも言わずに、ただひたすら父に仕え、父に従ってきた兄の姿があります。

●兄は弟のように自由奔放に生きた経験がありません。したがって、自由奔放によって苦しみのどん底に突き落とされ、その苦痛と孤独を味わった経験もありません。弟が財産を食いつぶして帰ってきたとしても、それは自業自得で、特別に歓迎して祝宴を催すほどの必然性をなんら感じませんでした。ですからそんな弟を歓迎する父に対して苛立ちを感じたのです。「兄はおこって、家に入ろうともしなかった」(28節)という表現にそのことがよく表わされています。兄は自分自身の価値基準によって、弟を、そして父をも断罪することで、「隔ての壁」を作っているのです。これは、自分たちが作り上げた律法(神の律法ではなく、罪の律法)という価値基準で、収税人や遊女たちをさばき、また彼らを受け入れようとするイェシュアを拒絶しようとするパリサイ人たちの姿であり、多くの人々の姿でもあります。そんな兄息子に対する父の態度こそ、実はパウロのいう「和解の務め」なのです。その務めとは「勧め・懇願」です。 

① なだめ続ける父 

●ルカ15章28節には、怒りのあまり、家に入ろうとしない兄をなだめる父の姿があります。「なだめてみた」と訳されているギリシア語は「パラカレオー」(παρακαλέω)という動詞の未完了形です。未完了形ということは、繰り返し、繰り返し「なだめ続ける」という意味です。そしてまた、興味深いことに、「パラカレオー」(παρακαλέω)には「そばに呼び寄せる、願う、頼む、懇願する、さとす、元気づける、慰める、なだめる」という意味がありますが、「なだめる」という訳語はここの箇所だけです。ちなみに、その名詞は「パラクレートス」(παρακαλητος)で「助け主」を意味することばです。

●使徒パウロのローマ人への手紙の12章1節には次のように記されています。「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます」と。この「勧めます」と訳された原語が「パラカレオー」(παρακαλέω)です。常に寄り添いながら、勧め、懇願し、願い、励まし、慰め、根気強くなだめていく務めです。ここだけを読むと、簡単に思えるかも知れませんが、このことばの背景には、ローマ書の1~11章に記されている神の救いの事柄が土台となっていることを忘れてはならないと思います。そこには人間の罪の深さ、その罪の力に翻弄されている人間に対する理解があります。その深刻さと同時に、それに打ち勝つことのできる神の福音と神に選ばれたユダヤ人に対する神の熱い心が啓示されています。神の福音の深みを理解し、それを自分のものとした上で、パウロは人々に「勧めて(懇願して)いる」のです。まさに「兄息子の父」のようにです。

②「子よ」と親愛の情をもって呼びかける父

●31節では父が兄息子に対して「子よ」と呼びかけています。新改訳第2版にはその呼びかけのことばは訳されていませんでしたが、改定第3版では「子よ」と改定され、新改訳2017も同様です。しかしこの「子よ」という呼びかけには、「テクノン」(τέκνον)というギリシア語が使われています。「子」を表わす語彙としては他に「ヒュイオス」(υἱός)があります。それはルカ15章だけでも8回出てきます(11節、13節、19節、21節(2回)、24節、25節、30節)。ところが、31節で父が兄息子に呼びかける時には「テクノン」(τέκνον)が使われているのです。明らかに、ルカはなんらかの意図をもって使っていると言えます。「テクノン」も「ヒュイオス」も同義と言えますが、殊に、呼びかける時に使われる場合、「テクノン」は親愛の情をもって呼びかけることばのようです。ヘブル語聖書では「ベニィ」בְנִיと訳しています。つまり「わが子よ」という訳です。親愛の情を含んで子に対して呼びかけるにふさわしい訳語の選択はむずかしいのかもしれません。

●いずれにしても、父は兄を責めることもなく、親愛の情をもってかかわろうとしているのですが、兄の方はその父の情を感じていないようです。最も父のそばにいながら、父の心を知らない現実、そこには大きな溝が存在しています。弟も父から離れていたのですが、兄の方も父から離れているのです。弟が父から離れていることを「死んでいた」と父は表現していますが、そばにいる兄も実は「死んでいる」のです。弟の方は「死んでいた」のが、父の家に帰ってくることで「生き返った」と表現していますが、兄は「死んだまま」です。この兄を父とのかかわりにおいて真に「生き帰らせる」ことはとても困難な状況にあると言わざるを得ません。聖書はこの兄が父の説得に応じたかどうかは記していません。ここに「和解の務め」の重さがあります。使徒パウロが、Ⅱコリント5章18~20節で言っている「和解の務めを与えられた」こと、また、「和解のことばをゆだねられた」ということの意味を考える時、それは、「二人の息子の父」に見られたように、「受容」と「懇願」の務めであるということです。

ベアハリート

●最後に、ヘンリー・ナウエンの最高傑作と言われる「放蕩息子の帰郷」という本の中で語っていることばが、心に重く響きます。それは、私たちが神に受け入れられて「御父のもとに帰るとは、とどのつまりは、父になるという課題を引き受けることなのだ。」ということばです(2003年、あめんどう、172頁)。このことばの中に、パウロのいう「和解の務めを与えられた」こと、「和解のことばをゆだねられた」という召しのことばの真意があるように思います。とても重い課題ですが、神の召しとしての務めとして引き受けるようにと、パウロは私たちに勧めているのです(Ⅱコリント6:1)。   

2019.3.7

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