****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

折られた「二本の杖」

愚かな牧者のゆえに折られた「二本の杖」

【聖書箇所】ゼカリヤ書11章1~17節

ベレーシート

●9章では全イスラエルの回復のためにメシアの到来が預言されており、メシア到来の「初臨」と「再臨」が隣り合わせに語られていました。また全イスラエルの民が呼び集められ、長子としての権利を回復されることが預言されていました。そのために、10章では「大雨」のような祝福が注がれることが語られていました。今回の11章では、約束されたメシアが到来(初臨)するときに、そのメシアが愚かな牧者(ユダヤの指導者たち)によって拒絶されること、その結果として神殿とエルサレムが崩壊するだけでなく、神の民も全世界に離散することが、「二本の杖が折られる」という表現で預言されます。そしてその流れの中で「一人の牧者」(=反キリストのこと)が現れることも預言されているのです。

1. エルサレム神殿と町の滅亡(1~3節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章1~3節
1 レバノンよ、おまえの門を開け。火がおまえの杉の木を焼き尽くす。
2 もみの木よ、泣き叫べ。杉の木は倒れ、見事な木々が荒らされたから。
バシャンの樫の木よ、泣き叫べ。深い森(「茂った木」口語訳)が倒れたから。
3 牧者たちの嘆きの声がする。彼らの見事な木々が荒らされたから。
若い獅子の吼える声がする。ヨルダンの茂み(直訳「誇り」גָּאוֹן)が荒らされたから。

●1~3節の箇所には、ゼルバベル神殿(第二神殿)がローマ軍によって破壊されることが暗示されていると考えられます。「レバノンの杉の木」「もみの木」「バシャンの樫の木」は「牧者たち(=ユダヤ人の指導者たち)」を指しています。いずれも見事な木々で、誇り高ぶるものとしての象徴です。しかしそれらが「荒らされた」(「シャーダド」שָׁדַד)と預言的完了形で記されています。つまり「滅びる」と同義です。「若い獅子の吼える声」とは「ユダヤ人の指導者たちの泣き叫ぶ声」を表しています。

2. 羊を売る者、買い取る者(4~6節)

4 私の神、【主】はこう言われた。「屠られる羊の群れを飼え。
5 これを買った者は、これを屠っても責めを覚えることはなく、これを売る者も、『【主】がほめたたえられるように。私は豊かになった』と言う。その牧者たちは羊をあわれまない。
6 それは、わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ──【主】のことば──。見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す。彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない。」

●「屠られる羊の群れ」とは「エルサレムに住む者たち」のことであり、エルサレムの滅亡に伴い、滅ぼされる運命にある民です。指導者たちが罪を犯せば、その影響は民にも及びます。主はそのような指導者と民を敵の手に渡されます。主はエルサレムの民全体の罪のゆえに「屠られる羊の群れ」と見なし、敵の手に渡されるのです。ですから、この羊を「買った者」も「売る者」もいずれも複数で、これはアッシリアやバビロン、ペルシアを指しており、彼らは「これを屠っても責めを覚えることはなく」と表現され、「その牧者たちは羊をあわれまない」としています。しかしその背後には神が支配しておられて、「わたしがもはや、この地の住民にあわれみをかけないからだ」としています。「あわれむ」と訳された「ハーマル」(חָמַל)の初出箇所は出エジプト記2章6節で、ファラオの娘が三か月の男の子であるモーセを見つけて、「かわいそうに思う」で使われています。ここでは、その思いが神にないことを意味しています。そして「見よ、わたしは、人をそれぞれ隣人の手に、また王の手に渡す」とあることから、やがて出現するギリシアやローマの手に渡すことを指しています。「彼らはこの地を打ち砕くが、わたしは彼らの手からこれを救い出さない」とあります。「この地」とは「エルサレム」のことです。

●ローマの支配において、神が最後の切り札として遣わしたメシアがユダヤ人の指導者たちによって拒絶されます。それは神にとってどんな思いだったことでしょうか。イェシュアがエルサレムを前にして嘆かれたのは、まさにこのことのゆえでした。

【新改訳2017】マタイの福音書 23章37~39節
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●神が遣わしたメシアを拒絶することによってもたらされる結果とは、エルサレムが「荒れ果てたまま見捨てられる」ということです。彼らが悔い改めて「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言う時が来るまでは、再びメシアと出会うことはないと預言されました。その時はまだ来ていません。すでにメシア・イェシュアと出会っているエックレーシアである私たちが、「バールーフ・ハッバー・べシェーム・アドナイ」(בָּרוּךְ הַבָּה בְּשֵׁם יהוה)と歌うことは、全くナンセンスと言えるのです。

3. メシアを拒絶したゆえに折られる「二本の杖」(7~14節)

【新改訳2017】ゼカリヤ書11章7~14節
7 私は羊の商人たちのために、屠られる羊の群れを飼った。私は二本の杖を取り、一本を「慈愛」と名づけ、もう一本を「結合」と名づけた。こうして私は群れを飼った。
8 私は一月のうちに三人の牧者を退けた。私の心は彼らに我慢できなくなり、彼らの心も私を嫌った。
9 私は言った。「私はもう、おまえたちを飼わない。死ぬ者は死ね。滅びゆく者は滅びよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。」
10 私は、自分の杖、「慈愛」の杖を取って折った。私が諸国の民すべてと結んだ、私の契約を破棄するためであった。
11 その日、それは破棄された。そのとき、私を見守っていた羊の商人たちは、それが【主】のことばであったことを知った。
12 私は彼らに言った。「あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。」すると彼らは、私の賃金として銀三十シェケルを量った。
13 【主】は私に言われた。「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。」そこで私は銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた。
14 そして私は、「結合」というもう一本の杖を折った。ユダとイスラエルとの間の兄弟関係を破棄するためであった。

●7節以降にある「」は、預言者ゼカリヤでもあると解釈します。指導者たちがメシアを拒絶した結果を「二本の杖を折った」という象徴で表しています。羊飼いは常に二本の(「マッケール」מַקֵּל)を持っています。一本は外敵から羊を守るため、もう一本は羊を安全に導くためのものです。それをここでは「慈愛」と「結合」としています。原文では、7節には「結合」という語彙がありますが、14節にはその語彙はなく「もう一本」(「ハッシェーニー」הַשֵּׁנִי)となっています。

(1) 「慈愛」という杖が折られる

●「慈愛」(以前は「好意」と訳されていました)のヘブル語は「ノーアム」(נֹעַם)で、新共同訳も「慈愛」と訳していますが、口語訳は「恵み」と訳しています。使用頻度は7回と少ないのですが、神の「お気に入り」に近いニュアンスを持っているように思います。詩篇27篇4節にあるダビデの“One Thing”の中で、「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために」とあります。ここにある主の「麗しさ」が「ノーアム」(נֹעַם)です。主の宮において主の「麗しさ」を仰ぎ見ることができる杖が折られるということは、神の保護が断ち切られ、その象徴である主の宮(エルサレム神殿)が破壊されてしまうことを意味します。神の民が神殿を失うことは、神の民としてのアイデンティティを喪失してしまうことを意味しています。 

(2) 「結合」という杖が折られる

●指導者たちがメシアを拒絶するだけでなく、銀貨30枚で取り引きし、その返された金で陶器師の土地を買うということが預言されています(12~13節)。このことによって「結合」という杖が折られます。「結合」と訳されたヘブル語は「エハード」(אֶחָד)です。「ひとつ」という形容詞ですが、この杖が折られるということは、一つの羊の群れである神の民が世界離散することを意味しています。16節に「見よ。それは、わたしが一人の牧者をこの地に起こすからだ」とあります。「一人の牧者」とは(真のメシアではなく)、獣と呼ばれる反キリストを意味しています。この反キリストの出現によって神の民は大患難を経験するようになります。これがメシアを拒絶した報いなのです。しかしやがてこのことを通して彼らは、「真のメシアである方」を呼び求めるようになり、その結果、再び、全イスラエルはイェシュア・メシアによって「結合」されるようになるのです。それはメシア王国(千年王国)において実現するのです。

4. 「メシア預言」の成就

●13節に、主がゼカリヤに命じて行わせた預言的行為があります。主が命じられたのは、「それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を」ということです。ゼカリヤはそこで「銀三十を取り、それを【主】の宮の陶器師に投げ与えた」と語っています。この預言的行為はイェシュアにおいて文字通りに成就します。マタイ26章15節、27章3~10節。使徒1章18, 19節を参照。

●ここからは、「銀貨三十枚の奥義」の話です。少し話が難しくなります。
祭司長たちと長老たちがユダの返却した銀貨三十枚を何のために使ったのかを見てみたいと思います。そもそも銀貨三十枚は一体どこから支出したものなのでしょうか。おそらく神殿の金庫から支出したものと考えられますが、それが返された時に「血の代価」を神殿の金庫に入れるのは許されないとして、相談して陶器師の畑を買い、異国人のための墓地にしたことが記されています。このことはゼカリヤ書が預言していることですが、なぜ「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」と書かれているのでしょうか。それは、イェシュアの時代の「タナフ」の預言書の順がエレミヤ、エゼキエル、イザヤになっていたことによるものです。エレミヤは預言者の代表格であったので、マタイはゼカリヤを引用する時に「預言者エレミヤを通して」と書いたようです。

●出エジプト記 21章32節によれば、「もしその牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない」とあるように、そもそも銀貨三十枚という額は、奴隷のいのちの代価なのです。ですから、宗教指導者たちがイェシュアをそのような価値のない者とみなしたということが分かります。しかしそれは人間的な観点、人間的な価値観です。神の観点からするならば、銀貨三十枚は決して価値のないものではなかったのです。イェシュアの血は計り知れないほどの価値をもっているのです。

●「銀三十シェケル」が、なぜゼカリヤ(=イェシュア)がイスラエルの指導者たちから値積もりされた「尊い価」であるのでしょうか。「尊い価」と訳された語彙は、「尊い、見事な」を意味する「エデル」(אֶדֶר)と「栄誉、宝」を意味する「イェカール」(יְקָר)からなっているのを見ると、単に価値が高いというイメージではないことが分かるのです。「三十」のヘブル語は「シェローシーム」(שְׁלֹשִׁים)です。「三」は「シャーローシュ」(שָׁלֹשׁ)で、その語源である動詞「シャーラシュ」(שָׁלַשׁ)は「三度する、三日目にする」という意味で使われます。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝4:12)ともあるように、「三」は神と人、人と人とを結びつける確かな約束のあかしの数であり、拡大と増幅をもたらす無限な神の数でもあるのです。したがって「三十」はその倍数で、なおさらそのことが強調されている数と言えます。つまり銀三十(銀貨三十シェケル)は神の創造的な数と言えるのです。モーセの幕屋にも贖いを意味する銀(「ケセフ」כֶּסֶף)が多く使われています。 

●イェシュアの「血の代価」としての「銀貨三十枚」は奴隷のいのちの代価です。三十という数は人間的な観点からすると少ないかもしれませんが、神の観点からするなら「尊い価」とされているのです。使徒パウロは「この世の知恵」ではなく、「神の知恵」について語っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章6~8節
6 しかし私たちは、成熟した人たちの間では知恵を語ります。
この知恵は、この世の知恵でも、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙2章6~9節
6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

●自らを低くして、十字架の死にまで従われたイェシュアが、神によって上げられて、すべての名にまさる名を与えられたのであれば、同様に、人によって銀三十に値積もりされたとしても、神によってそれをはるかに超えた尊い価とされることは至極当然のことです。ゼカリヤ書ではそのように預言されていたのです。

【新改訳2017】マルコの福音書 10章45節
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、       また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

【新改訳2017】Ⅰテモテへの手紙2章6節
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。

●神は、イスラエルの民の一人当たりの贖いの価を銀半(1/2)シェケルとしました。とすれば、ユダヤの指導者たちによって値積もりされたイェシュアの銀三十シェケルはその60倍(60人分)になります。これは幕屋の庭の60本の柱(アカシヤ材)の「柱頭のかぶせ物」(銀)に相当します。またレビ記27章では、人が「特別な誓願」を立てる時、例えば20~60歳までの男子の場合(イェシュアもこの範囲に入ります)は、銀五十シェケルの価となります。それは一人当たりの贖いの価の100倍(100人分)にもなります。これは、聖所で人には見えない48枚の板の銀の台座96個と、仕切りの垂れ幕を支える4本の柱の銀の台座4個の数(96+4=100)に等しいのです。

画像の説明
画像の説明

①「教会」
②「イスラエルの残りの者」
③「イスラエルの残りの者」によって救われる「大勢の異邦人」

●イェシュアが値積もられた「銀貨三十枚」は、メシア王国においてさらなる増幅と拡大を繰り返して、やがてはアブラハムに約束された「あなたの子孫は、このようになる」ということが実現されるのです。

【新改訳2017】創世記15章5節
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。

●「あなたの子孫は、このようになる。」―これが神の隠された奥義であり、神の知恵なのです。まさにイェシュアの血は無限の価値を有しているのです。増幅された神の贖いの民は「種蒔きのたとえ」(マタイ13章)の中の「良い地」そのものです。その良い地はキリストのみことばの種によって「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」とあります。この謎をACの石田保さんがミドゥラーシュして、今回のスッコ―ト前の「Hebrew Midrash 例会」で語ってくれました。「異邦人」を意味する、3・6・10のゲマトリアをもつ「ゴーイ」(גּוֹי)が、御国に入る最後の収穫者なのです。

●この世の終わりには、無限の価値をもったイェシュアの血の代価によって、多くの異邦人たちが「霊のからだをもって」復活するのです。ユダヤの指導者たちが「血の代価である銀貨三十枚とそれによって買い取った血の地所(畑)」の話の中に、これからの神のご計画の道筋が見えて来るのです。それはイェシュアの復活によって、イスラエルも異邦人も、天にあるものも地にあるものも、すべてがイェシュアによって一つに「結合」(אֶחָד)されるのです。そのことが、隠されたかたちで預言されているのです。

The 2nd Celebrate Sukkot 集会Ⅺ 2023.10.7(Sat/夜)

2023.12.3
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