****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

弟子たちの盲目性と盲人の開眼性(1)

文字サイズ:

87. 弟子たちの盲目性と盲人の開眼性 (1)

【聖書箇所】マタイの福音書20章17~28節

ベレーシート

●今回と次回のタイトルを「弟子たちの盲目性と盲人の開眼性(1)(2)」としたのは、20章17節~34節には一つのつながりが見られるからです。今回はその前半の部分である17~28節を扱いますが、その文脈を見てみたいと思います。前回は20章1~15節にある「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなもの」のたとえ話でした。そのたとえ話は「先にいる者が後になり、後にいる多くの者が先になります」(19:30)と「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」(20:16)というフレーズに挟まれた「先の者と後の者」のテーマ、このテーマがこの先にも展開していきます。ちなみに、「二人の息子」のたとえ話(22:28~32)にもそれが見られます。

28 ある人に息子が二人いた。その人は兄のところに来て、『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。29 兄は『行きたくありません』と答えたが、後になって思い直し、出かけて行った。30 その人は弟のところに来て、同じように言った。弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。31 二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です(改訂第三版では「あとの者です」と訳されています)。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。32 なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」

●ここにある「あなたがた」とは「祭司長、民の長老たち」のことで、たとえ話の「弟」に当たります。それに対して「取税人たちや遊女たち」は「兄」に例えられています。しかも、「取税人たちや遊女たち」が「祭司長、民の長老たち」よりも先に神の国に入るとイェシュアは語っています。

●マタイの福音書20章17~34節は、「受難告知」とその後に続く「弟子たちの盲目性」と「盲人の開眼性」の三つの部分からなっています。それは「先の者と後の者」を教える一連の話と言えます。今回は受難告知に対する「弟子たちの盲目性」について焦点を当てますが、次回は受難告知に対する「盲人の開眼性」に焦点を当てる予定です。

1. 第三回目の「受難告知」

●第三回目の受難告知(20:17~19)に目を留めたいと思いますが、第一回目と第二回目の受難告知も合わせて見てみたいと思います。

(1) 【新改訳2017】16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

(2) 【新改訳2017】17章22~23節
22 彼らがガリラヤに集まっていた時、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。
(3)【新改訳2017】マタイの福音書20章17~19節
17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

●第一、第二、第三の受難告知の内容は微妙に異なっています。そして、第三の告知が最も詳しく語られています。共通していることは、人の子であるイェシュアは殺されるが、「三日目によみがえる」(「エゲイロー」ἐγείρωの未来受動態、「ヤークーム」יָקוּם)ということです。「よみがえる」ことを前提として死ななければならないのです。にもかかわらず、弟子たちはそれが理解できなかったのです。弟子たちにとって、「自分の家を捨てて従って来た」という自負はかなりのものだったと思います。それだけイェシュアに対する期待は大きかったのです。ところが、ルカの福音書の並行箇所には、「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった」(ルカ18:34)とあります。なぜ弟子たちが「これらのことが何一つ分からなかった」のかと言えば、「隠されていた」からです。つまり、神の計画に気づけない、悟れないのです。これをヘブル語では「ロー・へ-ヴィーヌー」(לֹא הֵבִינוּ)と訳されます。詩篇78篇2節のことばで言うならば、これは「昔からの謎」と言われるもので、神のご計画の究極的目的を意味します。神はそのことを昔から告げているのですが、隠されているので気づかないのです。それに気づくのは、キリストのよみがえりという事実を悟った者たちだけです。したがってだれも弟子たちを責めることはできないのです。箴言の中に次のようなことばがあります。

【新改訳2017】箴言 29章18節
幻(חָזוֹן)がなければ、民は好き勝手にふるまう。
しかし、みおしえ(תוֹרָה)を守る者は幸いである。

●「幻」は「見る」という動詞「ハーザー」(חָזָה)の名詞形「ハーゾーン」(חָזוֹן)です。つまり「幻」とは、「神のご計画の目的と完成を見ること」を意味するのです。したがって、それが見えなければ、神の民は好き勝手にふるまうのです。「好き勝手にふるまう」と訳された語彙は「パーラ」(פָּרַע)の受動態で「きままになり、堕落する」ことを意味します。それは自分の思い込みによって、神の約束を自分に都合の良いように勝手に解釈し、理解しようとするからです。このことは、私たちが聖書を読むときに気をつけなければならないことです。神の「幻」は神のみおしえ(「トーラー」תוֹרָה)の中に啓示されています。ですから、私たちは、聖霊の助けを得ながら、キリストの十字架の死と復活の事実から聖書全体をつまびらかに読むことが大切なのです。

●これまで何度も分かち合っていますが、創世記の冒頭のことばー「はじめに神が天と地を創造された」―には神の創造の究極的な目的が啓示されています。ですから、このことを踏まえておくならば、勝手な幻を抱くことなく、的を外すこともなくなるはずです。ちなみに、この創世記1章1節をヘブル語で表記すると以下のようになります。

創世記1:1

●「はじめに」の「に」は「~によって」という意味の前置詞「ベ」(בְּ)が使われており、「はじめ」の「レーシート」(רֵאשִׁית)には「初め、初子、初穂、最良のもの」という意味があります。使徒パウロが「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリント15:20)と述べているように、「はじめに神が」ということばの中に、「神は、死からよみがえられた初穂であるキリストによって」という意味が預言的に啓示されているのです。しかも、神は「天と地を創造した」とあります。「創造した」は完了形です。完了形と言えば、すでに完成したかのように見えます。しかしまだなされていないことであっても、やがて確実に実現することをヘブル語では完了形で表わすのです。この「創造した」という動詞「バーラー」(בָּרָא)は神にのみに使われますが、その神が何を創造されるのかと言えば、「天と地」です。「天と地」は「神と人が共に住む家」のことです。聖書ではそれをエデンの園、幕屋、神殿、イェシュアご自身(インマヌエル=神がわれらとともにおられる)、教会、御国、そして新しいエルサレムとして表します。これが神の永遠のご計画の骨子であり、創造の究極的目的なのです。このことをしっかりと押さえておくことで、私たちは的を外すことなく、聖書を一つの書として理解することができるのです。

2. イェシュアの受けるべき「杯」と、御父の決定事項

●マタイの福音書では、ルカのように「弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった」(ルカ18:34)という部分はありません。しかし、それと同じ内容を一つの話を通して伝えようとしているのです。その一つの話とは、弟子たちの母親の願いでした。

●17 節に「さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。」とあり、「十二弟子だけを呼んで」とあることから、イェシュアがエルサムに向かう旅に多くの者たちが同行していたことが分かります。ルカの福音書では「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」という表現があります(23:49, 55、マタイ27:55, 56)。ですから、イェシュアの一行には弟子たちだけでなく、多くの女性たちも同行していたのです。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの息子たちの母がいたのです。今回は「ゼベダイの息子たちの母」が登場してイェシュアに嘆願しています。何を願ったのでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書20章20~23節
20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。
21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」

●興味深いことに、その母か息子たちと一緒にイェシュアのところに来て、ひれ伏して、あることを願おうとしたのです。その願いは、「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい」というものでした。「あなたの御国」において、自分の息子の一人は「あなたの右に」、すなわち弟子の筆頭頭として、もう一人の息子は「あなたの左に」、つまり二番頭としての座が与えられるようにという願いでした。

●母親というものは、古今東西、自分の息子のためにはなりふり構わずといった面があります。人間の肉的な面が如実に表れるものです。アブラハムの妻サラが自分の息子イサクのために、女奴隷のハガルとその息子イシュマエルを家から追い出すよう夫アブラハムに願ったことを見ても、よく分かります。イェシュアは「わたしの名のために、・・・を捨てた者はみな、その百倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます」と言われました。「・・・」の中には「自分に関わるすべてのもの」が入っています。つまり、自分の「子」も入っています。ゼベダイの息子たちの母は子を捨てることができず、むしろ息子たちを自分のいのちのように思っています。母だけでなく、その息子たちも同じ思いであったことが分かります。ですから、イェシュアは彼らに対して、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と述べています。このことばにはイェシュアの二重の悲しみを感じさせます。一つは「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません」という人間の自己中心に対する悲しみ、もう一つは「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」という神のご計画に無知であることに対する悲しみです。

●旧約聖書の中で、「杯」には神の「歓迎の杯」と神の怒りに起因する「苦しみの杯」とがあります。「歓迎の杯」の良い例は詩篇23篇5節、「苦しみの杯」の良い例はイザヤ書51章17節です。

【新改訳2017】詩篇23篇5節
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。

【新改訳2017】イザヤ書 51章17節
目覚めよ、目覚めよ。エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは【主】の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。

●「わたしが飲もうとしている杯」とはイェシュアが受けるべき杯のことで、それを飲むとは罪による神の怒りの苦しみと死を受けることを意味しています。ゼベダイの息子たちと母は、そのことが分からずに「できます」と言っていますが、実は「何も分っていなかった」のです。しかし後に彼らが変えられることを知っているイェシュアは、「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」とイェシュアは預言します。事実、「あなたがた」の一人ヤコブは使徒の中で最初の殉教者となり(使徒12:2)、もう一人のヨハネはパトモス島に追放されました(黙示録1:9)。

●続いてイェシュアは、「わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです」と述べています。イェシュアは「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われましたが、御子であるイェシュアにも許されていないことがあること、御父だけの特権事項があるということを、このみことばによって知ることができます。「イェシュアの右と左に座ること」は御父の決定事項です。また、弟子たちが復活のイェシュアに、イスラエルのために国を復興される時を尋ねた際、「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです」(使徒1:7)とイェシュアは語っています。イスラエルの国の復興とは「メシアが支配する王国」、すなわち「千年王国」のことです。さらに、マタイ24章36節に「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」とあります。この場合の「その日」とは、「人の子の到来(「パルーシア」παρουσία)はノアの日と同じように実現する」とあることから、イェシュアの地上再臨の時ではなく、イスラエルにとってさばきの日が始まる時ということになります。つまり、反キリストが立ち上がるその日は御父だけが知っているということになります。御父だけが知っていること、御子も知らないことを私たちが詮索しようとすることは罪なのです。

3. 神のしもべである「祭司の務め」の勧め

●ゼベダイの息子たちの母がイェシュアに息子たちの将来のことを願ったのを見聞きしていた他の弟子たちが、この二人の兄弟に腹を立てました。この世の権力闘争さながら、彼らにとってもそれは大きな関心事だったようです。そのことから、御国にふさわしい弟子についての教えをイェシュアは彼らに語ります。その内容は、イェシュアの祭司としての生涯を要約する教えと言えます。それが25~28節に記されている内容です。

【新改訳2017】マタイの福音書20章24~28節
24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。
25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい

●このフレーズは同義的パラレリズムとなっています。このことばは、「先にいる者が後になり、後にいる多くの者が先になります」という天の御国の道理にも通じる教えです。「あなたがたの間で偉くなりたい、先頭に立ちたい」と思うのはこの世の人の願いです。イェシュアはその願いを否定することなく、御国においてそれがかなえられるためには、「皆に仕える者、皆のしもべになる」ことだと教えています。なぜなら、それがイェシュアの生き方だからです。では「皆に仕える者、皆のしもべになる」とはどういうことでしょうか。それは祭司の務めをするということです。

●「仕える者」(「メシャーレーット」מְשָׁרֵת)と「しもべ」(「オヴェド」עָבֶד)は、イスラエルにおける理想像です。「神のしもべ」と言われた者に、「モーセ」(祭司)、「ダビデ」(王)、「ダニエル」(預言者)がいます。そして、メシア(祭司、王、預言者)となられたイェシュアも「神のしもべ」と言われました。イェシュアは神のことばを語る預言者であり、メシア王国における王です。しかし、何よりもイェシュアが祭司であったことが重要です。なぜなら、イェシュアが人となって来られたのは、「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」だったからです。これこそがイェシュアの祭司としての務めでした。その精神をもって人に仕えることを、イェシュアはご自分の弟子たちに求められたのです。

●祭司には神のいのちを、神のことばを通して人に分け与えるという務めがあるのです。これはなにも教会の牧師とか、聖職者とは限りません。キリストにあるすべての人にとって(男性であっても女性であっても)、祭司の務めは重要な務めです。とりわけ、主にあるクリスチャンホームの父親の祭司の務めは急務と言えます。

●「仕える」といっても神のために何かをすることではありません。神に仕える祭司とは、神とともに歩み、神と一つとなるためにいつでも神の御前にいる人のことです。多くの時間を神とともに過ごすことで、神によって満たされる人のことです。そのことによって、主を知り、主と一つとなり、主がその人を通して現わされるようになる、これが祭司の務めなのです。以下の人々、特に①~⑦まではレビ族の「祭司」とは呼ばれていませんが、彼らは事実上の祭司でした。

①アダム
最初の人であるアダムは神のかたち(似姿)として神とともに歩むべく祭司的務めをする存在として造られました。祭司的存在とは、絶えず神の臨在の中にいる存在です。そして、その神のかたち(=祭司的務め)は彼の子セツに受け継がれました。
②セツ
エノシュが生まれた後、主の御名によって祈ることを始めました。父親の務めは祭司として祈ることです。
③エノク
神とともに歩みました(自発的)・・「歩む」に「ハーラフ」(הָלַךְ)のヒットパエル態が使われています。
④ノア
神とともに歩みました(自発的)・・同上。
⑤アブラハム
主から「あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われ、「歩む」(הָלַךְ)の頭文字の「へー」(ה)が名前の中に組み入れられて、「アブラム」から「アブラハム」へと改名されました。つまり、アブラハムは神の御前に完全な信頼をもって歩むようにと召されたのです。そうでなければ、「多くの国民の父となる」ことはできなかったはずです。
⑥イサク
父アブラハムといつも一緒に歩むことで、イサクは神の御前に生きていました。
⑦ヤコブ
神の主権的な恵みによってイスラエルと改名され、自分の力ではなく神の臨在の中で過ごすように変えられました。
⑧モーセ
神に召された後には、常に主の前にいる者となりました。シナイ山では40日間、山に留まり、神から律法を授けられました。長く神と話したため、彼の顔は神の栄光の輝きを放っていました。
⑨イスラエルの民(祭司の国)
イスラエルの民に対して、主は「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」とあります(出19:4)。「鷲の翼」とは祭司を意味します。彼らは祭司であるモーセとアロンによって導かれたのです。なかでもレビ族は、イスラエルの中で特別に祭司職を与えられました。
⑩詩篇の作者たち
作者の一人ダビデは、王でありながら、同時に祭司でした。


ベアハリート

●最後に、イェシュアの語られたことば、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」は重要です。

●「祭司」(「コーヘーン」כֹּחֵן)は、「主の前に立って(アーマドעָמַד)、仕える(シャーラトשָׁרַת)」(申命記10:8)者です。それは神と人との間に立つ仲介者を意味します。モーセの律法の賦与以前は、父親が一家の祭司となっていました。しかし律法の賦与以後は、レビ族、すなわちアロンとその子どもたちが専門的な祭司職を担うようになって行きました。油を注がれて、神の働きを分与された三つの主要な務めは預言者、大祭司、そして王です。これらの務めの中で祭司の務めが第一であり、預言者と王の務めを導きます。つまり、神の代理者として神の民を導き支配する王の務めも、また、神のみことばとそのみこころを正確に民に告げる預言者の務めも、すべては祭司の務めにかかっています。それゆえ、祭司的な務めをする者はきわめて重要なのです。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい
「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい

●天の御国を建て上げる祭司として、このイェシュアの勧め(命令)を今一度心に深く留めたいと思います。

2020.10.18
a:482 t:3 y:4

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional