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幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味

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2. 幕屋の庭(囲い)とその象徴的意味

【聖書箇所】出エジプト記27章9~18節

ベレーシート

  • 出エジプト記25章から27章には、幕屋建造の指示が記されています。その順序は幕屋の最も聖なる所にある「契約の箱」から始まり、幕屋を囲んでいる外枠へと及んでいます。この順序は神へのいけにえでも同様です。五つのいけにえのうちの最も重要な「全焼のいけにえ」から始まって「罪過のいけにえ」へと説明がなされていきますが、私たちが神に近づくためには、神の順序の反対からです。幕屋では囲い全体の東の門から入り、そして(祭司、大祭司を通してですが)至聖所へと至ります。ささげものも「罪過のいけにえ」から始まり、「全焼のいけにえ」へと進みます。
  • ここでは、幕屋全体を囲っている枠(聖書はそれを「庭」と記しています)について、そしてその象徴的意味について考えてみたいと思います。

1. 長さ100キュビト、幅50キュビトからなる幕屋の枠

画像の説明

  • 幕屋の構造の枠となる長さと幅は、それぞれ100キュビト、50キュビトで、その比率は2:1です。長さの単位である「キュビト」と訳された原語は「アンマー」(אַמָּה)です。1アンマは腕の肘から手の中指までの長さですが、その長さの解釈には幅があります。短いアンマは45.6cm、長いアンマは53.2cmです。その中間の長さ(平均値)を取ると49.4cm。つまり約50cmと考えることができます。したがって幕屋の長さは約50m、幅25mとみなすことができます。そして高さは5キュビトの2.5mです。その周囲は亜麻布で囲まれていました。だれでも容易に囲い越しに中を見ることはできない高さです。この高さと布によって幕屋の内側は、門を通って入らない限り、外から覗くことはできなかったのです。
  • この囲いで仕切られる内側を、幕屋の「庭」と言います。門を通ってこの「庭」の中に入ることにより、神と人との交わりが可能とされます。ですから、人がこの枠の内側にいるのか、外側にいるのかが、神とのかかわりにおいてきわめて重要なことなのです。
  • マタイの福音書1章23節に、処女マリヤから生まれる男の子の名は、イザヤが預言した「インマヌエル」と呼ばれるとあります。正確には、「インマーヌー・エール」(עִמָּנוּ אֵל)で、「神が私たちとおられる」という意味です。これをヨハネの福音書1章14節では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた(幕屋を張った=「シャーハン・ベトーヘーヌー」שָׁכַן בְּתוֹכֵנוּ)と表現しています。このことが神の永遠のヴィジョンの究極的な目的です。それは、神の(「ベート」בֵּית)を建てる(「バーナー」בָּנָה)ことを意味します。そのためには、神の御子(「ベーン」בֵּן)がこの世に来て(「ボー」בּוֹא)、人と共に住むために結婚し(「バーアル」בָּעַל)なければなりません。それを実現するのは神のひとり子(長子)(「バル」בַּר)です。以上のように、太文字のすべてにヘブル文字の「バイト」(בּ)が使われているのは、神の秘密です。

2. 幕屋を長さと幅の数字的意味

  • 「五千⼈の給⾷」の奇蹟にある「五つのパンと⼆匹の⿂」は有名です。貧しいながらも、それを主に差し出すことで奇蹟的な神のみわざがなされるという意味で解釈されることが多い箇所です。こうしたメッセージは、教会の会堂建設や何かのプロジェクトを進める場合の励ましのメッセージとしては都合の良い解釈です。各⾃の賜物を活かし合うことで予想をはるかに超えた神のわざを⾒ることがしばしばあるからです。確かにそうしたメッセージは聖書の中にあることも事実ですから、間違ってはいないと思います。しかし、この奇蹟を「御国の福⾳」という視点から⾒るならば、また別の解釈が可能なのです。

【新改訳改訂第3版】マルコの福音書6章38~44節
38 するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
42 人々はみな、食べて満腹した。
43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。
44 パンを食べたのは、男が五千人であった。

  • おそらく、上記の聖書の箇所であまり関心を抱かない部分があるとすれば、それは40節の「そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。」という部分ではないかと思います。なぜ「百人、五十人」なのでしょうか。たとえ「パンを食べたのは、男が五千人であった」ということを了解したとしても、「百」と「五十」の数、そしてその「2対1」という比率をもって、「それぞれ組にして青草の上にすわらせ」たという意味は、幕屋について学んだことのない人にとっては全く分からないはずです。
  • この「五千人の給食」の奇蹟は、イェシュアと幕屋が一つであることを示唆しているのです。つまり「神が人とともに住む」という御国の福音を、イェシュアが奇蹟という形でデモンストレーションしようとした出来事なのです。
  • 福音書には「五千人の給食」だけでなく、「四千人の給食」の奇蹟も記されています。なぜ、似たような奇蹟をわざわざ記しているのでしょうか。その必要性はどこにあるのでしょうか。それは、「五千人の給食」はメシア王国についてであり、「四千人の給食」は「永遠の御国における福音」、つまり最終的な「神の幕屋が人とともにある」(黙示録21:3)という「新しいエルサレム」の啓示であるからです。「新しいエルサレム」は幕屋の最も聖なる部分である「至聖所」を啓示しているのです。詳しくは、「ヘブル・ミドゥラーシュ例会(第三回)」の中の「「五千人の給食」と「四千人の給食」に見る「御国の福音」のヴィジョン」を参照のこと。
  • このように、モーセの幕屋を学ぶことの必要性は、神の御子イェシュアがこの世に来られて語った教え、あるいは、行なった奇蹟と深く結びついていることを理解するためです。別の言い方をするならば、「モーセの幕屋」を学ぶことは、聖書を「ヘブル的視点から新しく読み直す」ことになると言えるのです。
  • 今日、一般的傾向として、ペンテコステ系の教会では幕屋について語られることが比較的多いように思います。しかし、福音派と言われる教会では、ほとんど幕屋について(説教や聖書研究で)語られることが少ないように思います。そのために、聖書全体における旧約と新約を結ぶ神の緻密なご計画について知ることの脆弱性があるのは否めません。つまり、聖書を横に読んでいないということです。そのために聖書を鳥瞰的に理解することにおいて弱いのです。教会学校の教案誌を見るならば、それは一目瞭然です。神のご計画は神の歴史の中に啓示されているにもかかわらず、大人も子どもも聖書を横に教えられていないために、聖書全体が一つに繋がってこないのです。それに対する解決の鍵は、「ヘブル的視点」から、あるいは「御国の福音」の視点から、聖書を読み直すことにあると信じます。次世代における教会を考えるならば、これは緊急を要する、きわめて重要な課題と言えるのです。

2016.1.22


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