****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

存在をあかしする名

3. 「シェーム」 שֵם

はじめに 

Shem

(1)かかわりを持つためには、名前を知ることから

  • 私は山登りが好きで、毎年、必ず山に登っていました。行く前の日にどこの山に登るか、その目標となる山を選択することから始まります。どのコースから登り、どのコースで降りるのか。このコースだとどれくらいの時間がかかるのか、いつ家を出て、山の麓に到着する時間はいつか、交通期間はどうするかなど、山を登る前から山登りは始まっているのです。自分の体力も考慮しながら、計画を立てます。すべて自分が計画して実行するわけですから、実に楽しいものです。ところがある時、登ることばかりに気が取られている自分にはっとしました。山に存在している多くの樹木や高山植物、鳥、虫、きのこいった生き物たちの存在を全く無視して登っていたことに気付かされたのです。そのときから手始めに樹木に関心を持つようにしました。
  • とはいえ、樹木を知るにはまず樹木の名前を知らなければなりません。私にはその知識が全くありません。手始めに、まだ雪の残っている近場の山に行って枝を少し切って来て、冬芽と葉痕を調べることにしました。それにはまず樹木図鑑が必要です。何冊かの図鑑を買い揃えて「同定」するのです。「同定」というのは専門用語で、ある部分を観察することでその樹木の名前を特定することを言います。分かった時には感動です。時には枝の皮を剥いだり、枝の中の芯も調べたりしないとわからないことがあります。でもそのようにして同定できたときは感動なのです。名前を知ることによって、不思議とその樹木との距離が縮まり親近感がわくのです。そのようにして自然の中にある生き物の名前を知ることは、自然とのかかわりを深め、自然の豊かさを味わい、そこに身を置くことが楽しくなるのです。
  • 人と人とのかかわりも同じことが言えます。人と親しくなるためには、人の名前を知らなければなりません。そこから人とのかかわりが始まるからです。また、神とのかかわりにおいても同様です。聖書の中に啓示されている神の名前の意味を知ることで、より神を親しく感じ、神を知ることにつながって行くのです。


(2) 存在をあかしする「名」は固有名詞

  • すべて存在するものには「名前」があります。新しく発見された星の場合、必ずそれに名前がつけられます。それを発見した人の名前がその星の名前になるようですが・・。目に見えない分子や原子までも名前があるのです。菌類や微生物といった人間の目には見ることのできない◯◯菌(バイ菌も含めて)にもみなひとつひとつ名前があるのです。それは存在しているからです。目に見えるものでも、見えないものにでも、この世界に存在しているありとあらゆるものには名前があるということは驚くべきことであり、すごいことであり、すばらしいことです。それらはすべておのおの存在の独自性を主張している固有名詞です。
  • 固有名詞とは「他には存在しない特定の対象」を意味するものです。人の名前も、地名も、すべて固有名詞です。
  • 「あなたのお名前はなんですか」と聞かれたとしましょう。もし私が「銘形です」と答えたとしましょう。それは名前ではありません。家族を表わす名前です。銘形という姓には、私の妻も、母も、私の兄弟も入ります。
  • イエスの弟子たちが伝道の働かきから帰ってきた時に、イエスにその働きのすばらしかったことを報告しました。するとイエスは、「そんなことで喜んではなりません。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われました。この「あなたがたの名が天に書き記されている」とはどういうことでしょう。書き記されているという書とは、「いのちの書」を意味しますが、もしそこに家族の名前しか書かれていなかったとしたら、「銘形」の中のだれのことなのか、正確にはわかりません。銘形秀則と書かれていれば、まさにこの私の名が記されているということになります。ですから、天においてはきっとフルネームで書かれているはずです。「秀則」だけではどの家の「秀則」だかわかりません。「加藤英憲」のことかも知れません。ヒデノリという名前の漢字もいろいろあり、どの「ひでのり」なのかわかりません。銘形という家系の「ひでのり」ということであれば、同じ名前の人がいるとは考えられません。ですからこれからは自分の名前をフルネームで言うように心がけましょう。「わたしはあなたの名を呼んだ」という場合、神は私たちをフルネームで呼ばれる方であることを信じましょう。フルネームが固有名詞なのです。ですから、自分のすべてを愛して下さっている神様を意識しながら、いつも、フルネームで自己紹介し、またフルネームで書き記すようにしましょう。自分の存在がより意識されるはずです。
  • ところで、日本の人名の固有名詞(フルネーム)は「苗字と名前」からなっていますが、ヘブル人たちはそれがありません。ですから、彼らのフルネームは「・・・子の・・」という表現になります。聖書で最初の自己紹介している人がいます。それはイサクの妻となるリベカですが、彼女は自分のことを「私はナホルの妻ミカルの子ベトエルの娘です」と言っています。彼女は自分の名前を名乗る代わりに血縁関係で自分を示そうとしました。自分の祖父と祖母、そして父の名前を語りますが、自分の名前は言わないのです。それがおそらくヘブル古代の女性の立場だったのかもしれません。この血縁関係が「苗字」に相当すると言えます。「私はナホルの妻ミカルの子ベトエルの娘リベカです」と言えば完璧なのですが・・。


1. 神の名

  • 人も神もみな名前を持っています。神を知るには、神の名前の意味を知らなければなりません。なぜなら、その名前には意味があるからです。「神」という名前は日本語ですが、英語ではGod、ヘブル語では「エール」אֵלです。しかしそれらは普通名詞であって固有名詞ではありません。ある特定の存在を指し示す固有名詞として聖書に登場するのは、新改訳聖書では大文字で「」と訳されているיהוהです。「ヤーウェ」とか「エホバ」とも訳されていますが、ユダヤ人は神の名をみだりに読んではならないということで、この文字(神聖四文字יהוה)が記されているところはすべて「アドナイ」と呼びます。創世記1章に登場する「エローヒームאֱלֹהִיםも固有名詞です。なぜなら、複数形で表わされているからです。この複数形の固有名詞をヘブル語の「畏敬複数」とも呼んでいます。
  • 聖書の神はさらに多くの呼び方がなされています。しかもそれらは神の本質やご性質を表わす名前であり、神の名前を知ることは「神を知る」こととイコールなのです。

たとえば、アブラムの前に現われたメルキゼデクという人物は「主」を「いと高き神」(エル・エルヨーン)と紹介しました。それは「すべてを超越した存在者」を意味します。また、神はアブラムに「全能の神」(エル・シャダイ)として現わされました。「乳房の神」とも訳されます。すべての必要を与えることのできる神という意味です。いろいろな人たちが、いろいろな時代の中で、「主」という方をさまざまな名前で呼んでいます。つまりそのようなお方として知ったからです。頭で知ったのではなく、体験として知ったからです。ダビデという人は詩篇23篇で「主は私の羊飼い」(アドナイ・ローイ)と告白しています。主を「私の羊飼い」(ローイ)と表現しました。それは主にあって私は乏しいことが何一つない(ロー・エフサール)という告白です。この方にあってすべては満たされていることを意味する「アドナイ・ローイ」。これが神の名前なのです。このようにして、神の名前を知ることは神を知ることであるとすれば、人の名前を知ることも、その人を深く知ることになります。


2. 最初の人、「アダム」という固有名詞

(1) 固有名詞としてのアダムはいつから登場するのか

  • 聖書で最初に「アダム」אָדָםという固有名詞が登場するのはどこからでしょうか。つまり、人の名前として表記されているのはどこからでしょうか。いろいろと調べてみると面白いことに、翻訳者によって異なっているのです。【脚注】
  • いろいろと調べてみると、「アダム」אָדָםという名前の固有名詞の由来は、最初の「人」(冠詞付きの「ハ・アーダーム」הָאָדָם)であるということには間違いないのですが、どの時点から「人」が「アダム」という固有名詞になるのかが難しいのです。でもはっきりしていることがあります。「アダム」という名前が固有名詞として登場するのは、「人」が罪を犯した後からだということです。

(2) 「人」が罪を犯す前と罪を犯した後(アダムの栄光とその喪失)

  • 「人」が罪を犯かす前と罪を犯した後では、「人」に本来与えられた能力が著しく異なります。

「地上の支配権」(万物の統治権)

  • 神は被造物の頂点である「人間」に地を従える支配権を与えました。すべての生き物を支配することのできる権威です。その権威のあかしは「命名権」です。2:19には「人がすべて生き物に与える名は、その名となった」とあります。実はこれはすごい能力なのです。それぞれの存在に名をつけるということは、それらを他と区別し、認識し、それを管理して支配するわけですから。たとえば、私たちが花とか樹木のすべてを管理する場合には、そのすべての花と樹木の名前を知るだけでなく、そのものの特徴や性質をも知らなければなりません。大事です。大変な能力です。しかしその能力は、「人」が罪を犯してエデンの園から追い出された後に、その能力を喪失してしまったようです。

「いのち(肉体)の限界」

  • 肉体のいのちは罪を犯してからなくなりました。死というものが支配するようになったからです。「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」とあるとおりです。「人」はその土の「ちり」(アーファールעָפָר) によって造られたのです。粘土のように形を整えてというイメージではありません。「ちり」です。普通、私たちはちりでは形にはならないのではないかと思います。そんなほこりに近い材料で人は形作られ、鼻から神の息が吹き入れられることによって生きるものとされました。ですから、普通名詞の「人」も固有名詞の「アダム」も、本質的には同じ性質を持ち、弱さや脆さをもった存在であるにもかかわらず、神の息によって生きる存在なのです。「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と神が言われましたが、火葬場で遺体を焼くと、本当に灰とわずかな骨しか残りません。しかもその骨さえ砕けば灰なのです。ちりとなんら変わりません。火葬ではなく埋葬したとしても元素に分解してしまいます。
  • 「命名権を与えられた地上権の支配」と「肉体のいのち」が、罪を犯したことによって喪失したと言えます。エデンの園を追い出されて、そのような虚しさ、虚無、息を吹きかければ吹き飛んでしまうようなはかないちりと化してしまう存在であることを「アダム」が自覚したことは、子どもが与えられた時に「アベル」という名前をつけたことからもそのことがうなずけます。「アベル」という子どものなかに、自分の犯した罪の重みを刻みこんだのです。「アベル」とは「ヘヴェル」חֶבֶרから来ていますが、「ヘヴェル」ということばは「虚しさ、はかなさ、虚無、息」を意味しています。兄のカインという名前の語源は「鍛冶屋」という意味らしいのですが、まだ良く調べていません。
  • カインは弟のアベルを殺して、神から離れていく存在です。そして自分の力で町を建設していきます。そのために「ものを鋳造するという技術」が必要だったようです。そうした力を彼は自分のために使うようになっていきます。カインの子孫からは「家畜を飼うもの」、「音楽を奏でるもの」、そして「青銅と鉄といった用具を鋳造して用具を作る鍛冶屋」が出てきます。ですから、カインという名前は親の知らない預言的な意味があったのかもしれません。
  • 人(アーダーム)の構成物質はまことにはなかい土地の「ちり」のような物質で造られたにもかかわらず、神の息によっていのちを与えられ、罪を犯す前には地上の支配権を与えられるという栄光をもっていた存在なのですが、罪を犯してからの人には特別な栄光はありません。再びその栄光を回復するためには、神による救いが必要なのです。それを暗示しているのが3章21節です。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」という記述です。「皮の衣」とは、ある動物が犠牲になっていることを前提としています。つまり、やがて神が送られる御子のあがない(身代わりの死)によって、本来「アダム」に与えられた権威が回復されることを意味しているのです。ここの「衣」は愛する者に、あるいは神と人とをとりなす祭司が着る衣のことを意味しています。そしてそれを「着せる」という動詞は、罪を覆うという意味を持っているのです。神の人に対する救いのご計画が、「皮の衣を着せてくださった」という言葉の中に秘められていました。


3. 「アダム」を継承する「セツ」

  • カインとアベルを失ったアダムは、さらに妻を知り、男の子を産みます(4:25)。その子の名は「セツשֵׁתです。妻のエバは「セツ」と名づけました。名付けたのは母親のエバです。「セツ」とは「もうひとりの子を授けられた」(新改訳)、「神が彼(アベル)に代わる子を授けられた」(新共同訳)という意味です。ちなみに、セツからもひとりの子が生まれますが、セツはその子を「エノシュ」と名づけました。命名権においても、名付け親が母であったり、父であったりしていることがここで分かります。
  • 「セツ」という名前が「もう一人の子を授けて下さった」とあるように、神が与えた「代わりの子」でした。「セツ」שֵׁתの語源は「シート」שִׁיתです。これは「立てる、固定させる」という意味をもっています。何を立て、何を固定するのかといえば、それは「基礎」であり「土台」です。聖書は「セツ」を「アダムのかたちのような子」とも表現しています。つまり、神のかたちをつなげていく系列の土台として、基礎として据え置いた。それが「セツ」という名前の意味です。父アダムにある神のかたちは、彼の堕罪によってその完全さは喪失したものの、なくなってはいません。それがアベルの代替えとして「セツ」につながれたのです。いわば、アダムの家庭は「セツ」によって回復したと言えます。

おわりに

  • 重要なことは、私たちが考える以上に、聖書における「名前」には深い意味が隠されているということです。単なる記号ではないのです。名前の語源とその生まれた環境の文脈を深く調べることで、また、ヘブル語の文字の意味を知ることによって、これまで見えなかったものが見えてくるようになると信じます。そうした領域を扱うのが「ネーム・セオロジー」(「名前の神学」Name Theology)という分野です。

脚注】pdf.

2012.6.10


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