共謀して指導者に対する反逆の事件
民数記の目次
14. 共謀して指導者に反逆した事件
【聖書箇所】 16章1節~49節
はじめに
- 民数記12章でもモーセの特権的権威が与えられていることに妬みを抱いたミリアムが神のさばきとしてのツァラートに冒される事件がありました。これは権威に対する反逆の現われでした。権威に対する反逆の霊はサタンの霊そのものであり、いつもいろいろな形を取って現われてくるようです。教会において、最も根深い問題のひとつと言えます。
1. ひとつの目的のために共謀する者たち
- ひとつの目的とは自分本位の目的ということです。民数記16章は、レビ人の中でも最も聖なる器具を運ぶことに任じられたゲルション族の中のコラが、不満分子であるルベン族のダタンとアビラム、さらにオンと共謀して、なおかつ会衆から選ばれた指導者たち250人とともに、モーセに「立ち向かい」ました(1~2節)。15章で「故意に罪を犯す」という表現が、神に対して「手」を「高く上げる」ということばで表しているように、「立ち向かう」という訳も神から権威を与えられた者の前に「立つ」(「クーム」)という表現から来ています。
- コラやルベン族の3人の者たち、そして250人の指導者たちのそれぞれの言い分は異なっているのですが、パリサイ派とサドカイ派、そして律法学者たちがそれぞれの強調している点は異なっていても、イエスに対する反抗は共通していたことから、彼らは共謀してイエスを捉えようと画策しました。共通の敵を持つことで共謀するという行為は昔も今も変わらない現実です。
- なぜルベン族はコラと共謀できたのでしょうか。それはコラがイスラエルの長子であるルベン族にはなんら神からの権威というものが与えられていないという不満を煽ったからです。またコラは250人の会衆の指導者たちに対して「会衆はみな聖なるものであり、モーセとアロンだけが特別な地位にいるのは不当であり、民主的ではない」と思わせたことによります。コラ自身の反逆の理由は、自分もアロンとその子孫に与えられているような祭司職にあずかりたいと考えたからです。このようにしてモーセとアロンに対して立ち向かう共謀する仲間を作り上げました。
- 不信仰に対しては、神は第一世代の者に対して自然的な死をもたらしますが、神の権威に対する反逆は神以外になし得ないさばきをもってはっきりと立ち向かわれます。案の定、権威に反逆したコラ、および彼と共謀した者たちはみな、地面が割れて「生きながら、よみに下る」という神のさばきを受けました。
- 主はこの出来事を他の者たちの教訓的なしるしとするために、共謀者らが神の前に近づくためにもっていた青銅の火皿を打ち延ばし、主の祭壇のための被金(きせがね)とし、民が主にささげものをもって礼拝するときにいつもそのことを思い起こさせる「しるし」とされました。
2. 神のさばきを誤解した者たちに対する神のさばき
- ところが翌日(41節以降)、神のさばきを誤解したイスラエルの全会衆は、モーセとアロンに対して「あなたがたは主の民を殺した」と抗議したのです。これに対しても主は神罰を与えて、1万4千人の者たちが死にました。
- 神が立てられた秩序に対して、私は到底納得できませんという態度に対しては、神は厳しい態度で出られます。それは神を侮ることだからです。
3. 自分に与えられている賜物を知り、そこに生きること
- この世の民主制に慣れている者にとっては、神のお取りはからいを理解することはなかなか難しい点があります。神の支配はこの世のあり方とは異なっています。キリストの教会に招かれる者はみな等しく神の愛と恵みの中にあります。しかしキリストのからだなる教会は、私たちのからだにある器官がすべて同じ働きをしないように、教会もそれぞれの器官はそれぞれの働きももっています。
- レビ族の中でもケハテ族であったコラは幕屋の中の最も聖なる器具を扱う奉仕が与えられていますが、それに満足できなかつたのです。それではだれがそれを担うのでしょうか。それぞれが自分の好きな奉仕をしているならば、果たして幕屋を運搬することも、組み立てることもままなりません。神によって建てられた権威を認めながら、自分の持ち場を確認して仕えるためには、霊的な養いが必要でする
- ひとりひとりが自分の持ち場としての賜物を知り、かつそれを自分の働きとして担うことで<からだ全体がうまく機能していくのです。ですから、ある人に神が与えた権威と働きを妬むことなく、自分の働きに集中することは全体として大きな益につながり、自分も活かされることになります。このことを理解し、腑に落ちるようになるためには、自分の内にしつかりとした霊的な土台(聖書によって養われること、難しく言えば神学を持つこと)を築くことがが必要なのです。このことを無視して目先の働きや奉仕にのみ目を向けていくならば、やがて問題が起こることは眼に見えているのです。民数記16章はその意味で、私たちに対する警告であり、大いに反省させられるところと言えます。
2012.2.4
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