****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

今や暗闇の支配の時

65. 今や、暗闇の支配の時

【聖書箇所】 22章47節~53節

はじめに

  • これから本格的な「暗闇の支配の時」が始まろうとしています。つまり、これまで繰り返しイエスの口から予告された「受難の時」が本格的に始まろうとしているのです。そして、受難の後、それを突き抜けるところにイエスの栄光があります。復活したイエスがエマオの途上にある二人の弟子たちに「キリストは、必ず、・・苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか」と語っていますが、「今の受難、後の栄光」は神の贖い(救い)の御計画における神髄です。第一、第二、第三、そして最後の第四の出エジプトにおいても、この構図は変わりません。
  • イエスの受難は共観福音書においても、ヨハネの福音書においても重要な箇所として取り上げています。これからは福音書の共観表をもたれるのが良いと思います。あるいは、安価な聖書を切り貼りして、自分で作ってみるのも良いことです。

1. なぜ、ユダはイエスと口づけしようとしたか

  • イエスを裏切ったはずのユダが先頭に立って、群衆を引き連れて、イエスのいる場所にやって来ました。ユダヤ人にとって大切な「過越」の日にエルサレムの城壁を出て、イエスがいるはずのところへやって来たのです。しかも、強盗に向かうかのように剣と棒を持ってやってきたのですから尋常なことではありませんでした。ここにある「群衆」とは、祭司長、律法学者、パリサイ人、長老たちから差し向けられた者たちのことで、いろいろな人がおりましたが、神殿を警備する守護人たち(ヨハネでは「兵士」とあります)もいたようです。
  • 22:47で「ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた」とあります。なぜ、ユダは裏切ったイエスに口づけしようとしたのでしょうか。それは、「私が口づけするのが、その人だ、その人をつかまえるのだ」(マタイ26:48)という合図だったからです。夜の暗闇でしたから、だれがイエスなのかをはっきりと指し示すためでした。

2. 剣をもって大祭司のしもべの耳を切り落とした者へのイエスの叱責

  • イエスに手をかけて捕えようとした者に対して、ある者が剣を抜いて、その者(大祭司のしもべ、マルコス)の耳を切り落としました。その行為に対してイエスは「やめなさい。それまで」(ルカ22:51)、マタイ26:52では「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と厳しく叱責されました。ヨハネは剣を抜いた者がシモン・ペテロであったことを記しています(18:10)。
  • イエスの叱責の意図は、単なる「剣を取る者はみな剣で滅びます」という格言的な教えではなく、イエスの捕縛の出来事が神の救いの御計画において必然的なことであったからです。福音書はその必然性を次のようなことばで表現しています。

【マタイ】
「預言者たちの書が実現されるため」(26:56)
【マルコ】
「聖書のことばが実現するため」(14:49)
【ルカ】
「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」(22:53)
【ヨハネ】
「父が私に下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(18:11)


3. 受難に対する共観福音書とヨハネの福音書の視点の相違

  • ルカは22:53において「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です」と記しています。これは受難を意味することばですが、この「受難」に対して、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の視点とヨハネの福音書の視点が異なっているのを見ることが出来ます。

(1) 共観福音書のイエスの十字架の死は受動態

  • まずは共観福音書で、受難のことを弟子たちにどのようにイエスは予告したかをみてみましょう。

①〔マタイ16:21〕
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
②〔マタイ17:22〕
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日後によみがえります。」
③〔マタイ20:18〕
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」


①〔マルコ8:31〕
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」
②〔マルコ9:31〕
「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す、しかし、殺されて、三日後に、人の子はよみがえる。」
③〔マルコ10:33〕
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、人の子は三日の後に、よみがえります。」


①〔ルカ 9:22〕
「そして言われた。『人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。』」
②〔ルカ 18:31〕
「さてイエスは、12弟子をそばに呼んで、彼らに話された。『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられはずかしめられつばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』

共観福音書の受難の予告の定式をまとめると

人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡され、多くの苦しみを受け(あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ)、捨てられ殺されます。しかし、三日後によみがえります。  

  • ここで注目したいのは、共観福音書ではイエスの受難としての死はすべて受動態(受身)で表現されているということです。

(2) ヨハネの福音書の十字架の死は能動態

  • ところが、ヨハネの福音書においては、イエスの死が受動態ではなく能動態、受身ではなく自発的なものとして書かれているのです。イエスに対する裁判の際も、共観福音書では二言三言しかイエスは話していませんが、ヨハネの福音書では大祭司に対しても、総督ピラトに対しても実に多くを語っています。毅然とした、能動的なイエスの態度が特徴的です。
  • 共観福音書にあるような、特別な受難の予告はヨハネの福音書にはありません。イエスの死は福音書全体にちりばめられています。たとえば、1章ではバプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介します。3章では律法の教師であるニコデモに対して、人の子は「モーセが荒野で蛇を上げたように(民数記21:9)、人の子も上げられなければなりません」(3:14)とあります。だれが人の子を上げるのかと言えば、それは神(御父)によってです。その証拠に、次節の3:16のみことばで、御父が人の子(すなわち神のひとり子)を「お与えになった」と言い換えています。つまり、「上げる」ということばも「お与えになった」ということばも、どちらも「十字架の上で死ぬ」ことを意味しています。そして、その目的は「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(3:15)だと説明しています。
  • このように、ヨハネの福音書の場合には、イエスの死は受身ではなく、以下のように、神の能動的行為として描かれているのです。

①〔ヨハネ10:17〕
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があります。それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父からうけたのです。」―このイエスのことばはユダヤ人たちをして、イエスは悪霊につかれている、気が狂っていると言い立てさせました。―

②〔ヨハネ12:23〕
「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」
ヨハネの福音書の場合、イエスの死は栄光の時として捉えられています。

③〔ヨハネ13:1〕
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、・・愛を残すところなく示された。」

④〔ヨハネ13:27, 30〕
「彼(イスカリオテのユダ)がバン切れを受けると、そのとき、サタンが彼に入った。そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。』・・ユダは、バン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。」

⑤「わたしが行く所」(13:33, 36)、「わたしは去っていく」(14:28, 16:7)という表現も受難と十字架の死を意味しています。また、「人が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていない。」(15:13)ということばもイエスが自らの死を「友情の愛のわざ」としているのです。

  • 時が来ました。」(17:1) これは御父と御子の栄光を表す時が来たということで、これ以上の愛はないという愛を示す十字架の死の時が来たことを意味します。共観福音書ではイエスは、長老、祭司長、律法学者たちによって、「苦しみを受ける」、「捨てられる」、「殺される」と描かれていましたが、ヨハネの福音書では自ら進んでいのちを捨て、神の栄光を現す時として描かれています。イエスの死の受動と能動と違いーこれが共観福音書とヨハネの福音書の違いなのだと思います。

2012.9.13


a:4997 t:4 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional