****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(5)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.5

人の霊(5)

べレーシート

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●人は「霊とたましいとからだ」の三つの区分からなっています。これはパウロがⅠテサロニケ人への手紙5章23節で語っていることです。この事実は、神が三一(御父・御子・御霊)であると同様に、今やキリストにある者(クリスチャン)にとって重要です。この意識が希薄ですと、パウロの言っていることが正しく理解できません。特に、ローマ人への手紙8章にある「御霊に従って歩む」ということがどういうことなのかが、正しく理解できないのです。ただ訳語が「御霊」のことを言っているのか、それとも「人の霊」のことを言っているのかが明白ではないため、混乱が生じてしまっています。「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」(8:16)とあれば、「御霊」と「人の霊」が明確に区別できますが、「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです」(8:9)だと不明確です。神の御霊が私たちの霊に入って、霊の部分が回復されているなら、肉と霊を区別して生きることができることをここでパウロは述べているのです。ちなみに、回復訳は「霊の中にいるのです」と訳しています。つまり私たちが「霊の中で生きるのか」、それとも、「肉の中で生きるのか」が明確に迫られるのです。もっとも「御霊」と「人の霊」がミングリングされているため、いつもその区別が明確でないことは事実です。しかし「人の霊」を意識して生きることは、恵みの事実として重要なのです。

1. たましいと霊を見分けて生きる

【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

●神のことばが生きて働くと、たましいと霊を見分けることができるようになり、心の思いやはかりごと(動機)をも見分けることができるようになるのです。そうすれば、たましいから逃れて、霊の中に生きることができ、御霊に属する者として成長できるのです。神である主が人間を造られたときに、「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創2:7)ことで、霊とたましいとからだのそれぞれにいのちが与えられたのです。「いのちの息」を「二シュマット・ハッイーム」(נִשְׁמַת חַיִּים)と言いますが、「息」を意味する「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)は、「霊」を意味する「ルーアッハ」(רוּחַ)と同義です。また、「いのち」を意味するヘブル語の「ハッイーム」(חַיִּים)は「ハイ」(חַי)の複数形です。なぜ複数形なのかと言えば、「いのちの息」が「霊」のみならず、「たましい」にも「からだ」にもそれぞれいのちを与えるものとなったからです。「霊」の部分は人間にのみ与えられた重要な部分です。というのは、「霊」は神と交信する重要な部分で、「人の霊」が司令塔としての機能を持ち、「たましい」と「からだ」を統括するように神によって造られていたからです。ところが、サタンの戦略は人の霊からの指令を通さずに、たましいとからだによって生きるように仕向けることでした。その戦略に人はまんまと騙されてしまったのです。これが罪であり、死です。「霊」のいのちとしての機能が死んでしまったのです。「死んでしまった」といっても、その存在がなくなってしまったというのではありません。機能不全を起こして、あたかも死んだような状態になってしまったのです。

●「たましい」を構成する「知・情・意」を「心」とか「精神」と言いますが、聖書ではそれを「霊」に対応する語彙として、「肉」(「サルクス」σάρξ)と表現しています。「肉の思い」は神に対して反抗する性質を持っています(ローマ8:7)。なぜならそこにサタンが自分の足場を置いているからです。サタンは悪霊たちを用いて人を偽りの神(=偶像)に向けさせて、それに頼るように仕向けています。ですから、心で神を知ることも、神を愛することもできなくなってしまったのです。私たちの「たましい」(心)は曲者です。それは「自我・自分本位」であるからです。エレミヤは「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」(エレ17:9)と言っています。ノアの時代に滅びた人々と何ら変わっていないのです。特に、日本人は心や心情を大切にします。美しいものだと感じさせます。その美しさに心が奪われている人ほど、神を知ることが出来ないのです。サタンの本来の姿は、神の被造物の中で最も賢く、最も美しい存在(御使い)であったことを忘れてはなりません。心、たましい、精神と訳される「ネフェシュ」は人間を表現する媒体ですが、神がそれを全く新しいものとして回復してくださらない限り、その思いは神に敵対するものになってしまうのです。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、知性を尽くして、神を愛するようになる」ためには、人の霊が回復され、そして「霊の中に生きる」ことがなければならないのです。「心」は神が造られたものであり、人が自分を表現する上で大切な機能をもっています。それゆえに、心が神の霊と人の霊からの指令を受けるべく、新しく造られる必要があったのです。つまりキリストによる新創造がなされる必要があり、キリストの贖いの一連の出来事が不可欠だったのです。以下の図がそのことを記しています。

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2. 神がなされた贖いの一連の事実

●この図には「天と地」が線でつながっています。「天と地」は「神と人」を表しています。神と人がともに住む家を神が造られるというご計画を、創世記1章1節では「神が天と地を創造された」と記しています。1節は全聖書の表題(タイトル)です。2節の「地は茫漠として何もなく」から始まっていますが、その地が回復され、新しいものとして創造されることを「神は創造された」と表現しています。ここは完了形で記されているのですが、ヘブル語では歴史的にはまだなされていないことであっても、必ず実現することを完了形で表すのです。しかもこの語彙は神にしか使われません。神は時間と空間に支配されない、永遠なる神です。聖書はその神の息吹(=霊)によって書かれたものです。神がドラマのシナリオライターだとすれば、時間(歴史)の中でそれが実際に展開される前に、ドラマの最初も最後もあらかじめ完成されているはずです。ドラマは「夕があり朝があった」というリズムで完結するドラマです。その中に数多くの「夕があり朝があった」というリズムが繰り返されているのです。

●天と地を結ぶ立て役者は「御子」です。御子は神ご自身のかたち(神ご自身の表現)として、イェシュアという名前で受肉されました。イェシュアは百パーセント神であり、百パーセント人です。神性と人性を併せ持つ存在として、「インマヌエル」と呼ばれます。受肉の時から聖霊が内在されていました。30歳の時に洗礼を受けられたことで私たちを取り込んでくださいました。イェシュアの洗礼は私たちを取り込んで私たちと一体となることを意味します。3年半の公生涯において、神と人がともに住む家である「御国」について語られました。また数多くの奇蹟によって、御国のリアリティーをデモンストレーションしてくださったのです。そして私たちとともに十字架にかかり、死ぬことによって、「最初のアダム」がもたらした罪とのろいの裁きをすべて受けてくださったことで、すべての人の罪(単数の罪)をきよめ、罪(複数の罪)を赦し、それらの罪(単数も複数も)を完全に取り除いてくださったのです。しかしこれは贖いの半分でしかありません。あとの半分は、イェシュアが死んで三日目に、私たちとともによみがえられたことです。つまりイェシュアは「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられ」たのです(Ⅰコリント15:20)。この「初穂であるキリスト」が、何と驚くべきことに創世記1章1節の冒頭にある「はじめに」という言葉「ベレーシート」の中に隠されているのです。「レーシート」(רֵאשִׁית)は「初物、初穂、最上の物」を意味します。その前に置かれた「ベ」(בְּ)は「~によって」を意味する前置詞で、それを合わせた「ベレーシート」は「眠った者の初穂であるキリストによって」と言い換えることが出来るのです。

●しかも初穂は、主の例祭では神へのささげものとして奉献(揺り動かすささげ物)しなければなりません。ですからイェシュアは初穂としてのご自身をささげるために、復活した日の朝、秘密の昇天をすることをマグダラのマリアに告げているのです(ヨハネ20:17)。しかしその日の夕方には、弟子たちの前に現れて、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言って彼らの霊の中に入られました。これは「いのちを与える御霊」となられたイェシュアが、彼らの心ではなく、彼らの霊の中に入られた事実を意味します。この事実こそが贖いの真の「目的」だったのです。彼らの霊を聖霊によって回復させて満たしたことで、弟子たちはイェシュアが語られた「御国の教え」をより深く理解することができたのです。と同時に、キリストは人の霊に入られただけでなく、私たちとともに昇天し、ともに神の右の座に着座されました。そこに私たちのいのち、つまり「霊とたましいとからだが回復されたいのち」があります。それがやがて現わされるまで、そこに隠されているのです。このように、すでに「いのちを与える御霊」となったイェシュアが私たちの霊の中におられるだけなく、天の御座においても、イェシュアとともに私たちのいのちが隠されているということです。ですから、天においても地においても、今や私たちのいのちはキリストとともにあると言えるのです。

●この神の事実を信じることが、聖書のいう「信仰」なのです。信仰とはキリストのことばを聞いてその事実を受け入れることです。そのときはじめてその霊的リアリティーが解き放たれるのです。たとえキリストのことばがからし種のように小さいものであったとしても、いのちを持った種であるがゆえに、山をも動かすことになるのです。これらのことを裏付ける聖書箇所は以下です。

【新改訳2017】コロサイ人への手紙3章1~4節
1 こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

●「上にあるもの」を求めなさい、思いなさいとパウロは命じています。その「上にあるもの」とは、「キリストとともに神のうちに隠されている私たちのいのち」のことです。「隠される」という意味は二つあります。それは、天において「保護されている」ということと、「完成されている」ということです。私たちのいのちが完成しているという面は重要です。エレミヤ31章の新しい契約がすでに天においては完成されていて、やがてキリストが現れるとき、すなわち空中再臨(教会)と地上再臨(イスラエルの残りの者)の時に、キリストとともに栄光のうちに現わされるということです。これを信じるなら、私たちは至聖所の「恵みの御座」にいることになるのです。そこは安息の場所です。

●これらのことを思いながら先の図を見るなら、神の事実が理解され、かつ整理されるはずです。クリスチャンになっても、自分の中にある「霊」と「たましい」の区別がつかないでいるのは、「肉に属する者」だからです。しかしそれは決して恥ずかしいことではありません。「肉に属する者」は霊的に幼子で、乳しか飲むことが出来ません。最初から堅い食物を食べる幼子は誰一人いません。しかし次第に成長するなら、堅い食物を食べる大人になることができます。それをパウロは「御霊に属する者」と言っています(Ⅰコリント3:1~2)。ただしそのためには霊的な覚醒が必要なのです。

3. 「たましいから逃れ出て、霊の中に生きる」ための訓練

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●「霊と肉」「霊の中に生きることと、たましいの中に生きること」の違いを知り、それを区別して生きるようになるためには訓練が必要です。旧約聖書にある一つの神のことばに心を留めてみたいと思います。私たちが「たましいから逃れ出て、霊の中に生きる」ために、神はみこころのままに訓練します。右の図は台風の目です。台風の目はキリストにある平安(安息)を啓示しています。その中は完全に「晴れていて無風」状態です。まさにそこは人の霊の中にある至聖所そのものです。神である主は、たましいから逃れ出て、そこに入るように語っています。以下の神である主のことばがそうです。

【新改訳2017】イザヤ書30章15節
イスラエルの聖なる方、【神】である主はこう言われた。
「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、
静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

●この箇所のヘブル語を逐語的に訳すと、以下のようになります。

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●「立ち返り」と「静まり」によって あなたがたは「救われる」。「落ち着き」と「信頼」が あなたがたの「力となる」。ここは二つの文章から成っているヘブル語特有のパラレリズムで、前文が後文によって補強されている形です。文ではなく、一つひとつのことばが並んでいます。このことばをだれが語っているのかといえば、「イスラエルの聖なる方」ですが、預言者イザヤを通して、ユダの王であるヒゼキヤとその民たちに語っているのです。
「立ち返り」「静まり」は名詞です。「落ち着き」は不定詞、そして「信頼」は名詞です。動詞は「救われる」と「(あなたがたの力と)なる」で、ここの「力」(「ゲヴーラー」גְּבוּרָה)は名詞ですが、その動詞(גָּבַר)を調べるならば、みなぎる力、増し加わる力、勢いとしての「力」(strength)であることが分かるのです。神のことばは「霊であり、いのち」ということができます。このことばを人の霊の中で聞くならば、神の力は人に対してだけでなく、周囲の状況に対しても強まるのです。

●30章15節を二語の漢字で表わすと、「悔改(かいかい)」「静謐(せいひつ」「平穏」「信頼」となります。

悔改」は、神中心の生き方を促すことばです。
静謐」は、神との交わりを促すことばです。
平穏」は、冷静沈着さを促すことばです。  
信頼」は、神にゆだねることを促すことばです。

●実はこれらは霊の中の事柄なのです。いずれも霊が機能不全を起こしている中では困難です。霊が回復されたとしても、一朝一夕にして体得できるものではありません。イザヤの時代の多くの人々がこの神の呼びかけに対して、「これを望まなかった」とあります。喜んで受け入れることができなかったのです。なぜなら、それは目に見えない保障であり、目に見える助けの方が安全だと思ったからです。神への不信がやがて自分たちの国を滅ぼすことになることを警告されているにもかかわらず、神に信頼することができないのです。これが肉なのです。霊の中で生きるとは、肉にしたがって生きないことですが、結局の所、ユダの民はバビロンによって「トーフー・ヴァーヴォーフー」(茫漠として何もなく)となってしまったのです。

4. 神の再度の熱い約束

【新改訳2017】イザヤ書30章18~21節
18 それゆえ【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、
それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。【主】が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者、もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
20 たとえ主があなたがたに苦しみのパンと虐げの水を与えても、
あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。
21 あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。

●このことばは終末における神の預言です。やがて「イスラエルの残りの者」に対する神のご計画が預言されているのです。日本語の聖書ではわからないのですが、この神のことばの中に意味を強調する「強意形のピエル態」と言われる動詞が二つも使われています。ひとつは「待つ(待っておられる)」(「ハーハー」חָכָה)という動詞、もうひとつは「あわれむ」(「ラーハム」רָחַם)という動詞(不定詞)です。神は「恵みを与えようと待たれる神」であり、「あわれもうとする神」です。つまり、民が立ち返ってくるのをいつも待っておられる神なのです。そしてあわれまれるのです。まるでイェシュアが語った「二人の息子を持つ父」のたとえ話のようです。

●「あわれむ」という語彙がイェシュアによって使われる時、「スプランクニゾマイ」(σπλαγχνίζομαι)という神の深い心情を表わす語彙として用いられます。同情で終わることなく、必ずこの語彙の後には具体的な行動が伴っているのです。こうした神の呼びかけのことばを霊の中で聞いて信仰を働かせるなら、霊が奮い立たせられると同時に、神の大きな力が解き放たれるのです。エルサレムをアッシリア軍が包囲したとき、ユダの王ヒゼキヤは何をしていたのでしょうか。以下の二つの箇所から見てみることにしましょう。
①Ⅱ列王記19章5~7節、32~36節 ②箴言25章2節

【新改訳2017】Ⅱ列王記19章5~7節、32~36節
5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。『【主】はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
7 今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
32 それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
33 彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。
34 わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」
35 その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
36 アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。

【新改訳2017】箴言25章2節
事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。

●箴言25章は1節に「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。」とあるように、ソロモンの箴言の補遺として編集されているようです。そしてその冒頭に「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。」とあるのです。このことばには深い秘密が隠されています。反意的パラレリズムです。神は隠し、王たちはその隠されたことを探り、そして発見するからです。私たちも、キリストにあって王なる祭司としての務めが与えられているのです。

●ヒゼキヤは南ユダ王国の13番目の王です。彼は祭司と書記官にソロモンの箴言を書き写すように命じました。当時、ユダは北から強力なアッシリアの侵略を受けていた時代です。すでに北イスラエルの首都サマリアはアッシリアによって陥落していました。ユダのエルサレムも、センナケリブ率いるアッシリアの大軍に包囲されるという危機的な時代でした(事実、3回にわたる攻撃を受けていました)。そんな状況下で、ヒゼキヤはなんと箴言を編集し直す作業をしていたのです。そこには霊的に重要な意味があります。神の代理者として立てられたヒゼキヤが、戦いにおいて優先したことは神のみことばでした。隠された神のみこころを探し出すこと、神のみことばをもって勝利すること、それが神の代理者としての王の務めだと考えたのです。

●ヒゼキヤ王の父アハズは敵の侵略から守るために神に頼ることをせず、異邦の国に助けを求めました。預言者イザヤの「神にのみ信頼して静かにしていなさい」というメッセージを受け入れませんでした。一時的には解決を得ましたが、結果的にはさらなる苦しみ(貢物をすること)が増しました。しかしヒゼキヤはイザヤの指導を受けながら、アッシリアの脅威に屈することなく、神にのみ信頼し、神のみことばに堅く立つことが勝利の道だと確信したのです。いつの時代でも失われた神のことばを回復することが霊性の回復の道であり、唯一の勝利の道です。

●神のみことばは私たちが想像するレベルをはるかに越えた奥深い世界です。物事を秘密にするのは神様の誉れだからです。それゆえ、それを探し出して発見する者たちが必要なのです。エレミヤ書29章13節には「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける」あります。私たちは霊の中で主の秘密を探し求めなければなりません。「探る」と訳されたヘブル語は「ハーカル」(חָקַר)で、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味です。これが神の代理者である王たちの務めであるとすれば、同じく「王である祭司」として召された私たち(教会)もこの使命を理解する必要があります。それは神の豊かな知恵を、この世ばかりでなく、「天にある支配と権威(=サタン)に対して、教会を通して」示すためなのです。神が隠している秘密を見つけるという使命が教会に与えられているのです。このことにもっと力を注ぐ必要があります。それが私たちの誉れとなるのですから。

ベアハリート(神の事実にとどまることの重要性)

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章4~5節
4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5 ・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

●4節の前半は、「あなたがたはわたしにとどまりなさい」という命令です。これは、これまでイェシュアを通してなされた神の包括的事実(受肉、洗礼時の取り込み、十字架の死と復活、昇天、着座)を、信仰をもって個別的に受け入れてイェシュアの中にとどまることを意味しています。しかし、命令文に続く後半の「そうすれば、わたしもあなたがたの中にとどまります」には、永遠にイェシュアが私たちの中にとどまってくださるという約束が語られています。この順序が重要です。神の事実と神の約束を霊の中であるがままに「アーメン」と言って信じること、そのことが重要なのです。その結果、多くの実を結ぶことができるのです。

2022.6.26
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