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人の心は何よりも陰険で、それは直らない

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20. 人の心は何よりも陰険で、それは直らない

【聖書箇所】 17章1節~27節

ベレーシート

  • 17章は以下の三つの部分からなっています。
    (1) 1~14節 ユダの消しがたい罪と神の鋭い人間洞察
    (2) 15~18節 エレミヤの告白(祈り)
    (3) 19~27節 安息日の遵守
  • ユダヤ人にとって割礼と安息日の遵守が彼らが神によって選ばれた民であることのしるしでした。第三の部分では、安息日の遵守がなおざりにされていること、それがユダの滅亡、ないしは民族の存亡と大いに関係があるということが語られています。
  • ここでは、17章9節にある神の目線から見た人間洞察のことばを心に留めたいと思います。そして、5節~8節にある「呪いと祝福のことば」についても注目してみたいと思います。

1. 人の心について

  • 9節のいろいろな訳を見てみます。

【新改訳改訂3】
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
【口語訳】
心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
【新共同訳】
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
【岩波訳】
何よりも不正なのは心、病んでいるのはこれ。誰が、これについて知り得よう。
【関根訳】
心は総てのものよりも偽るもの、救い難いしろものだ。誰がこれを知り尽くそう。
【ATD訳】
心はよろずのものにもまして偽るもので、救い難いーだれがこれをよく知ろう。

  • ここで問題されているのは「心」です。原文には「人の」という言葉はありませんが、冠詞付単数の「心」(「レーヴ」לֵב)となっているために、新改訳と新共同訳では「人の心」と訳されています。その「人の心」がなによりも「陰険、偽るもの、不正、とらえ難い」のです。原語は形容詞の「アーコーヴ」(עָקֹב)です。旧約では3回しか使われていませんが、この語の動詞は「アーカヴ」(עָקַב)で「かかとをつかむ」「だます」「押しのける」「出し抜く」という意味。「ヤコブ」の名前の由来になっています。ヤコブは名前のごとく、人を欺き、出し抜き、押しのける性格をもっていました。このヤコブを神はやがて造り変えられました。そして名を「イスラエル」としたのです。
  • 人の心はヤコブが代表しているように、何にもまして「陰険」なのです。他人を欺き、自分をも欺く心をもっていると神は教えています。それは神によってのみ造り変えることのできる「心」です。
  • イエスはこの「心」を「木」にたとえられました。

    【新改訳改訂第3版】マタイの福音書7章17~19節

    17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

  • 「良い木」とは「良い実を結ぶ木」です。そのような木は本来、自然には存在しません。「良き木」とは、神によって祝福され、「水のほとりに移植された木」だからです。

2.  呪いと祝福のことば

  • エレミヤ書17章5節~8節には、主に呪われた人と主に祝福された人が語られています。

    新改訳改訂第3版 エレミヤ書17章5~8節
    5 【主】はこう仰せられる。
    「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が【主】から離れる者はのろわれよ。
    6 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
    7 【主】に信頼し、【主】を頼みとする者に祝福があるように。
    8 その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。

  • 原文では、文節の頭にそれぞれ「呪われよ。その人は」「祝福されよ。その人は」と置かれていて理解しやすい形となっています。
    アルール(אָרוּר) ハ・ゲヴェル( הַגֶּבֶר)
    バールーフ(בָרוּך) ハ・ゲヴェル(הַגֶּבֶר)
  • 人間に信頼し、肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は呪われる存在です。「呪う」の「アーラル」(אָרַר)は、6節の実を結ぶことのない「裸の木」と訳される「アルアール」(עַרְעָר)という言葉と掛け合わせになっています。
  • 一方、祝福される者とは、熱暑や日照りにもかかわりなく、いつまでも実を結ぶことのできる木にたとえられています。問題なのは実ではなく、木それ自体です。木が「流れの水のほとりに植わった(植えられた)」かどうかが問題なのです。この木は自然木ではなく、移植された木であるということです。これがイエスのいう「良い木」であり、「良い木」は悪い実を結ぶことなく、良い実を結ばせるのです。ここには神を信頼するという内面的な、目に見えない神とのかかわりが重視されているのです。このかかわりによって、はじめて「陰険な心」が、「いやしがたい心」が癒され、真実な心となり得るのです。この祝福をユダの人々が自分のものとするためには、神のバビロン捕囚と言う外科的処置を必要としたのです。この処置の中に、神の真実があることを私たちは忘れてはならないのです。なぜなら、不信実な心にもかかわらず、常に、どこまでも真実を貫く主が、人の心を造り変えるからです。

2013. 2.19


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