****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の日に、私は御霊の中にあった

文字サイズ:

10. 主の日に、私は御霊の中にあった

【聖書箇所】 1章10節

【新改訳改訂第3版】
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

【新共同訳】
ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。

【エマオ訳】
私は、主日に御霊によって捕えられた。そして私のうしろにラッパのような大きな声を聞いた。

【NKJV】
I was in the Spirit on the Lord's Day, and I heard behind me a loud voice, as of a trumpet,


ベレーシート

  • 10節における注目点は、「エゲノメーン・エン・プニュウマティ」をどのように訳すかということです。

    画像の説明

  • 「エゲノーメーン」は「ギノマイ」のアオリスト中態1人称単数です。英語でいうならbe動詞で、「御霊の中にいた」というのが直訳的です。ですから、英語訳ではそのように I was in the Spirit  と訳しています。ところが、日本語訳を見ると実にさまざまに訳しています。新改訳では「御霊に感じ」と訳し、新共同訳(口語訳、岩波訳等)では「霊に満たされていた」と訳し、エマオ訳は「御霊によって捕えられた」と訳しています。すべて受動態のように訳されています。もしヘブル語訳で訳すとしたら、「ハーヤー」(הָיָה)という動詞が使われるはずです。

1. ヘブル語動詞「ハーヤー」に見る不可抗力性

  • ヨハネはユダヤ人であったことを忘れてはなりません。旧約において、預言者が召されるときにどのように表現されるかと言えば、「次のような主のことばがあった(あるいは、臨んだ)。」です。ここの「あった」という動詞が「ハーヤー」(הָיָה)です。この動詞は単にそこに存在したというような意味ではなく、主の「主権性」を表わす、いわば不可抗力的な性格をもった動的な意味を持つ動詞なのです。これについてのチャートは、⇒こちらを参照のこと。
  • 黙示録1章10節の「私は御霊の中にいた」という表現は、エマオ訳にあるように、まさに、御霊に捕えられるという不可抗力的な力がヨハネに臨んだことを意味しているように思います。新改訳の「感じる」といった感覚的なものでは決してなく、むしろ、御霊の支配の中に完全に捕えられた状況です。しかもそれは一見受身的に表現されながらも、同時に、そうした状況の中に自ら身を置く意味合いも兼ねたニュアンスです。これはヨハネが預言者的務めを果たしていくための重要な体験だと言えます。この表現は4章2節にも再び登場します。
  • 黙示録は新約聖書における唯一の預言書であり、旧約の預言書と黙示文学の流れが統合されていると考えるならば、ギリシア的思惟ではなく、ヘブル的思惟で理解する必要があるように思います。

2. ラッパの響きのような大きな「声」

  • 「声」、あいるは「音」を意味する「フォーネーン」(φωνην)は、神の声を意味します。黙示録ではきわめて重要な語彙のひとつです。新約139回中、黙示録では55回使われています。
  • 「声」が「ラッパの音(響き)のよう」であるというのには意味があります。つまり、そのたとえには旧約的背景があるということです。旧約において、ラッパの音は大事な所で登場しています。その出来事を辿ってみると、まず第一に、出エジプト記19章16節にある、主がシナイ山に降りて来られる場面で、山の上には雷といなずまと密雲があり、そこに角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がったと記されています。神の民はシナイ山で主から十戒が与えられて、契約を結びますが、そのときに「角笛の音」が高く鳴り響いたことは重要です。また、レビ記25章の「ヨベルの年」には全土にそのことが近づいたことを知らせるために、「角笛を鳴り響かせなければならない」とあります(25:9)。角笛(ラッパ)のような大きな声とは、単に大音響な声ではなく、大切な事を知らせるための声であり、響きなのです。


3. 「主の日」の理解

  • ヨハネが御霊の不可抗力的な支配の中に置かれたのは、「主の日」の出来事であったと聖書は記しています。ここの「主の」の「の」は属格ではなく形容詞です。こうした例は、聖書の中では他に、Ⅰコリント11章20節の「主の晩餐」の一箇所だけです。その意味は「主にささげられた、主のために聖別された」という意味です。10節の「主の日」という名称も、イエスの復活を記念して、週の最初の日が聖別された日としての「主の日」として用いられています。まさに、「主の日」という用語はキリスト教の特有な名称で、普通の暦でいう「日曜日」のことです。神のさばきの日を意味する「主の日」とは異なります。


2013.11.23


a:4428 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional