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主の御名を大きくするマリヤの信仰

4. 主の御名を大きくするマリヤの信仰

【聖書箇所】 1章39~56節

※ルカの福音書1:46~55のマリヤの賛歌は、「アドヴェントの瞑想」でも取り上げていますので、そちらを参照してください。ここではそこで取り上げなかった部分を取り上げます。

はじめに

(1) 「胎内の子どもが喜んでおどった」ということ

  • 受胎を告知されたマリヤは親類のエリサベツのところへ行き、そこで3ケ月過ごしました。エリサベツは訪ねてきたマリヤを歓迎し、彼女を「女の中の最も祝福された女」として祝福しました。そのとき、エリサベツハ「胎内で子どもが喜んでおどりました」(1:41, 44)と語っています。珍しい表現ですが、これはヨハネとイエスのかかわりが表現されています。
  • 「胎内」にいる子どもがなにかの動作をすることが将来のあることを予告することがあります。たとえば、イサクの妻リベカが双子を身ごもったとき、子どもたちが彼女の胎内で「ぶつかり合うようになった」とあります。やがて双子が生まれ、主から予告されたように、「二つの国民に分かれ、兄が弟に仕える」ようになっていきます。つまり、兄弟における祝福の優先が逆転したのです。マリヤの挨拶を聞いたエリサベツの胎内の子が「喜んだ」のも、やがてヨハネとイエスとの関係において、そのようなかかわりになっていくからです。

(2) なぜ、マリヤはエリサベツのところへ訪問したのか

  • ところで、なぜマリヤはエリサベツのところへ出かけたのでしょう。二つの理由が考えられます。

    ①御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも」(ルカ1:36)ということばがあり、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思った。
    ②婚約者のヨセフも「彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めていた」 (マタイ1:19) こと。
    ③自分が受胎したことを知られないため。


    • ③は有力な理由として考えられますが、受胎から3ケ月後に再びナザレの家に戻ってきていますので、理由としては弱いかもしれません。つわりの期間だけ滞在したのか、あるいは、エリサベツの出産が間近に控えてそこへいられなくなって自分の家に戻ったのか、その理由をルカは記していません。いずれにしても、マリヤの受胎が周囲の人々からなぜ告発されることがなかったのか、聖書は沈黙しています。それはひとえに神が守ったとしか言いようがありません。

(3) 女性の地位を高めているルカ

  • 新約聖書が書かれた時代においては、女性の地位は(子どもの地位も含めて)とても低いものでした。しかし、ルカの福音書は第1章において、エリサベツとマリヤという二人の女性を登場させることで女性の地位を高めています。信仰的な面においては、決して男性に劣ることなく、神は女性を尊く用いられたことをルカは綿密に調べてその事実を記しています。男性優位であったユダヤ社会においてこれはとても大きなことです。
  • ルカは「福音書」と「使徒の働き」において、しばしば女性の地位を高めています。
    2:36の女預言者アンナ。7:36~50の罪深い女性。8:2~3のマグダラのマリヤ、ヨハンナ、スザンナをはじめ、自分の財産をもって仕える大勢の女性たち。11:38~42のマルタとマリヤ。13:10~13の腰の曲がった女性など。使徒の働きでは、9:36のダビタ(ドルカス)という女性の弟子。16:14のルデヤ。18:26のアクラの妻プリスキラ。

1. マリヤの賛歌に見られることばの背景、旧約との対比

  • マリヤの信仰を考えるとき、その賛歌の中に実に多くの旧約聖書に見られるフレーズを用いているということです。これはマリヤが旧約聖書の中に生きていたことを意味しています。そうした彼女に神はご自身の御子を託されたことを思います。
  • 詩篇119篇9節に、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」とあります。「守る」とは、ここでは「愛する」と同義で使われています。義務的に、あるいは強制的に神のことばを覚えるということではなく、神のことばを愛して自発的に心に貯えていき生き方を意味します。そんな生き方をイエスの母マリヤがしていたということを想起させます。
  • サムエルの母ハンナもマリヤに似た信仰を持っていました。ですから、マリヤの賛歌にもハンナの歌からの引用が見られます。
  • ちなみに、マリヤの賛歌にみられる旧約聖書の引用箇所は以下のとおりです。
賛美のことば旧約聖書の対比箇所
46わがたましいは主をあがめ1サムエル2:1(ハンナの歌)
48主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです同上、1:11(ハンナの祈り)
48どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう創世記30:13(レアの言葉)
49力ある方が、私に大きなことをしてくださいました申命記10:29(モーセの言葉)
50そのあわれみは、主を恐れる者に、代々にわたって及びま詩篇103:17
51主は御腕をもって力強いわざをなし詩篇89:10
52心の高ぶっている者を追い散らし1サムエル2:10(ハンナの歌)
52低い者を高く引き上げヨブ5:11
53飢えた者を良いもので満ち足らせ詩篇107:9
54主はそのあわれみをいつまでも忘れないで詩篇98:3
54そのしもべイスラエルをお助けになりましたイザヤ41:8
55私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりミカ7:20


2. 「わたしのたましいは主をあがめます」

  • 瞑想のテーマとしては、賛歌の冒頭にある「わがたましいは主をあがめます」としたいと思います。
    ここで使われている「あがめる」という動詞は、主の祈りの冒頭の「天の父よ。御名があがめられますように」の「あがめる」とは異なります。主の祈りで使われている「あがめる」は、ハギアゾーάγιαζωで「聖別する、取り分ける」という意味です。しかしマリヤの賛歌で使われている「あがめる」は、メガリューノーμεγαλύνωで本来、「大きくする」という意味です。
  • 果たして、私は神を大きくしているかどうか、思い巡らさなければなりません。自分を大きくしているなら優越感をいだき傲慢になります。反対に、他人が大きくなると劣等感をいだき卑屈になります。マリヤは冒頭で「わがたましいは主をあがめます(大きくする)」と言っています。優越感や劣等感から自由になれるのは、他人と自分を比べることをせず、ひたすら神とのかかわりの中に自分を置くことによってです。神が自分に対してどのようなお方であるかを知るとき、私たちの霊は喜び、たましいは解き放たれ、自由とされます。焦点を神に合わせて生きるとき喜びを見出します。マリヤははしための自分が神に顧みられたことを喜んでいます。焦点を神に合わせて生きるとき逆転のみわざがなされます。
  • 驚くべきことに、ここでの賛歌は、神の逆転のみわざを将来起こる未来形としてではなく、全部成就した過去完了形で語っています。このマリヤの賛歌はギリシヤ語で記されていますが、旧約のヘブル的色彩が強い歌です。ヘブル語の時制は完了形か未完了形しかありません。完了形で記される場合、それがまだ実現していなくも、確実に実現する事柄はすべて完了形で記されます。したがって、ここでも主の御手の中で確実に「高い者は低くされ、低い者は高くされ」るのです。終末における逆転のみわざの成就がこのマリヤの賛歌で語られているということです。


2011.4.21


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