****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

主の勝利の矢で地面を打つという象徴的行為

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列王記の目次

35. 主の勝利の矢で地面を打つという預言的行為

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【聖書箇所】 13章1節~25節

はじめに

  • ユダの王ヨアシュの治世(23年目)に、北イスラエルではエフ―の子エホアハズが王となった時も、またエホアハズの子ヨアシュの治世になっても、依然として「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」との格言どおり(ボタンのかけ間違いは続き)、神に対する罪を犯し続けました。それゆえ神の父性的懲罰として、アラムの王ハエザル、およびハエザルの子ベン・ハダデの手に渡され、その結果イスラエルはしいたげられていました。
  • そんな頃に、死の病をわずらっている預言者エリシャのところにわざわざヨアシュが赴きました。それはアラムの脅威に対してヨアシュが恐れを覚え、預言者エリシャを通してなんらかの助言を得たいと考えたためだと考えられます。
  • するとエリシャはヨアシュ王に弓と矢をもって来させて、それを手に取らせ、東側の窓を開けさせ、そこから矢を射るように命じました。ヨアシュが矢を射ると、エリシャは「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」と言い、「それで地面を打ちなさい」と命じたのです。この預言的行為はいったい何を意味しているのでしょうか。

1. 主の勝利をもたらす「矢」

  • 王のヨアシュは、エリシャが言われるようにしましたが、地面に三度矢を放ってそれで止めてしまいました。「神の人」であるエリシャはヨアシュに向かって怒り、こう言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、立ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう」と。
  • 「勝利」と訳された名詞のへブル語は「テシューアー」תְּשׁוּעָהで「救い」とも訳せます。敵を絶ち滅ぼすことのできる主の勝利の矢で地面を打つように求められたヨアシュは三回打っただけで、矢を射ることを止めてしまいました。そのために神の人エリシャはヨアシュに向って怒りました。なぜこのとき「神の人」が怒ったかといえば、それは敵を打ち滅ぼすという徹底性がヨアシュに欠けていたからでした。また彼が放つ矢が、単なる矢ではなく、「主の勝利の矢」であることへの信頼性が欠けていたからでもありました。

2. 「矢」が意味するもの

  • この箇所での「矢」は「主の勝利の矢」を意味し、その矢を射ることで敵を完全に打ち滅ぼすことのできる「矢」でした。この「矢」が意味しているのは、神のみことばです。あるいは、神のみおしえ(トーラー)のことです。
  • エリシャがヨアシュに「矢を取りなさい」と命じたその「矢」(「ヘーツ」חֵץ)はここで使われているのは複数形の(冠詞付で)「ハヒツィーム」הַחִצִים)です。それを「取る」という動詞は「ラーカハ」לָקַחです。この「ラーカハ」の名詞は「レカハ」で、「教え、理解」を意味します。その「教え」と「理解」は、当然のことながら、神の御言葉の「教え」であり、またその「理解」や「悟り」です。
  • 「矢を放つ、矢を射る」のヘブル語は「ヤーラー」יָרָהですが、この動詞は「教える」という意味も持っています。そしてそれが名詞になると、「トーラー」תוֹרָהとなるのです。つまり、ここでの象徴的行為は、「矢を取る」ことも、「矢を射る」ことも、すべては神のトーラー(律法、神の教え)によって生きることを意味しています。「矢を取り」「矢を射る」ことは、神のみことばである「神の律法」によって歩むことによって、敵に打ち勝つことが出来ることを意味しています。それゆえヨアシュが敵に対して三度で矢を射ることを止めてしまったその不徹底さに、神の人エリシャは怒ったのです。
  • 神の民が神が与えた「教え」(トーラー、律法)に生きることがなければ、それは無用の民となり、烏合の衆となってしまいます。その結果、神のみこころをこの世に示すという使命を果たすことは到底できません。エリシャの地上での最後の働きは、イスラエルの王に対して、象徴的な行為を通してト―ラーを回復し、神のみことばに立ち返るべきことを教えたのです。

3. 「主のしもべの歌」にある「とぎすました矢」(イザヤ49:2)

  • イザヤ書には四つの「主のしもべの歌」(42:1~4/49:1~6/50:4~9/52:13~53:12)があります。「主のしもべ」は新約の光から解釈するとき、それは神のしもべとしてこの世に受肉されたイエス・キリストを啓示しています。四つの歌の中の第二の歌は、主のしもべが発言しています。その中にこうあります。

【新改訳改訂第3版】イザヤ49章2節
主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、
私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した

  • 49章2節はヘブル語特有のパラレリズム(同義的並行法)が用いられており、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し」ということと、「(主は)私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」ということは同義です。とすれば、「剣」も「矢」も同義ということになります。これは「みことば」の比喩です。使徒パウロは悪魔の策略に対して、「御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」と述べています(エペソ6:17)。エペソ6章16節では「悪い者が放つ火矢」という表現がありますが、敵を打ち破る神の「矢」もあるのです。詩篇64篇7節には「しかし、神は矢を彼ら(悪者)に居掛けられるので、彼らは不意に傷つく。」とあります。
  • イザヤ書49章2節のしもべの歌の中にある「とぎすました矢」とは、神のみこころの中心を射る矢と言えます。主のしもべは預言者としての務めを果たすための口から出る鋭い剣を持ち、神のみこころの中心を成し遂げていくための矢」となるために、時が来る時まで(すなわち公生涯に入るまでの30年という期間を神は隠し、神にとどまらせたのです。語る前に、与える前に、しっかりと自分のものとして学び、備えられる必要があるのです。神はそのようにしてご自身の「しもべ」に対して十分な備えを与えられるのです。これが「矢筒の中に隠した」という意味です。ちなみに、「隠した」と訳されたヘブル語動詞は「ハーヴァー」(חָבָא)です。イザヤ書49章2節は、神がその主権をもってご自身のしもべをとぎすました矢とするために、矢筒の中に隠されるという貴重な箇所です。

3. 矢筒に矢を満たしている人は幸いである

  • 詩篇127篇3節~5節には「矢筒に矢を満たしている人の幸い」が述べられています。

新改訳改訂第3版 詩篇127篇
3 見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。
4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ
5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。

  • 胎の実は神様からの賜物(プレゼント)であると同時に、神を信じる信仰によって歩んでいる者には「報酬(報い)」でもあるのです。ただし、神から与えられた「子ども」という賜物(プレゼント)をどのように育てるかが問題です。どんなに良い賜物でもそれを用いることがないとしたら、それを活用しないとしたら、与えた方はがっかりすることでしょう。
  • 「若い時の子らは、まさに勇士の中にある矢のようだ」とありますが、どのような意味なのでしょうか。矢が勇士の手の中にあるということはあるべき最上の状態です。若い時に与えられた子どもを神のみおしえによって育てるとき、その親は子に教える前に神のみおしえを自ら学ぶ必要があります。「勇士(単数)の手にある矢(複数)」とはそのような関係を示しています。そして、それが「幸いなこと」なのです。
  • 「矢筒を矢で満たしている」幸いとは、主にある家族が神のみおしえによって歩み、また神のみこころのうちに従って歩む幸いです。その家族(家)は、敵に対して決して恥を見ることがない(失望させられることがない)からです。
  • その意味において、127篇1節は真実なのです。

    新改訳改訂第3版 詩篇127:1
    【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。


2012.11.21


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