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ヨブのモノローグ(神への問いかけ)

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4. ヨブのモノローグ(神への問いかけ)

【聖書箇所】3章1~26節

画像の説明

ベレーシート

  • 人間には自分の意志でどうにもできない事柄があります。それを宗教的出来事と言うことができるかもしれません。自分の(存在の)事柄でありながら自分の意志で自由にできない事柄です。そのような事柄は三つあります。それは「誕生」と「死」、そして「出会い」(神との出会い、結婚相手との出会いなど)です。自分の人生にとって最も重大な出来事でありながら、自分の意志で思う通り、自由に、操作したりできない事柄です。特に、誕生と死はそうです。人は自分の誕生を自分で決められないと同様に、自分の寿命も自分で決められないのです。
  • ところが、この世には自分のいのちを生かすのも殺すのも、自分次第(操作可能)と考える人もいます。それは、あたかも自分のいのちを自分の意志によって得たかのように考えているヨブの妻にある「愚かさ」です。聖書における人のいのちは、神によって与えられたもので、それは神のものであり、人の意志で操作してはならないという峻厳たる土台があります。「はじめに神が・・」という絶対的な神の主権という概念の中にヨブは生きています。ヨブの苦悩はその概念の中で生じているものです。自分のいのちを操作可能と考える世界にヨブは生きていないのです。そのことを前提としてヨブ記のテーマを瞑想していく必要があります。この前提の背景には、別の言葉で表現するならば、人間中心的な概念(ヘレニズム)を土台として生きるか、神中心の概念(ヘブライズム)を土台として生きるかといった世界観の大きな隔たりが存在しています。

1. ヨブの「のろい」のことば(2~10節)

  • ヨブ記の本論は3章から始まります。ヨブの友人たちはヨブのあまりに深い悲しみを目の当たりにして、衣を引き裂き、ちりをかぶって、全く沈黙して座り込んでしまっていました。この沈黙を最初に破ったのはヨブ自身でした。この3章は、神に向かってでもなく、また人に向かってでも、独り言のように、ヨブの口から「のろい」のことばが出てきました。聖書は「その後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日をのろった。」と記しています(3:1)。
  • 1章、2章での「のろう」ということばは「祝福する」ということばの婉曲語法としての「のろう」でしたが、ここ3章では「カーラル」(קָלַל)の強意形ピエル態が用いられて「のろう」という意味になります。「カーラル」の意味は、本来の「軽んじられる」「速い」という意味ですが、それが「のろう」という意味とどうつながるのでしょうか。それは、ヨブの心にあった苦々しい思いが、何ら制御されることなく、軽率にも、口からつい愚痴となって出てしまったということかもしれません。
  • エレミヤも、実はヨブと同様に自分が生まれた日をのろっています(エレミヤ20:14~18)が、そこで使われている「のろう」という動詞は「アーラル」(אָרַר)が使われてます。創世記3章でへびが呪われ、土地が呪われるという受動態で使われています。こちらが一般的な「のろう」という意味です。ですから、ヨブの口から出て来たことばは、苦しみゆえに、うかつにも口から出たため息まじりのことばだったと言えるかもしれません。もし仮にそうだとしても、心の内から出た真実なことばとして耳を傾ける必要があります。

2. 神に対するヨブの二つの問いかけ(11~26節)

  • 1~2章とは異なり、3章では「主」(יהוה)という神の名前が全くありません。このあとに出て来るのは12章に1回(12:9)と38章、40章、42章です。それまではすべて「神」(「エローアハ」אֱלֹהַּ)です。
  • 3章には、心の吐露として、ヨブの二つの問いかけがあります。「なぜ」(Why)ということばが多く見られます。KJVでは7回、新改訳も7回その訳語が見られますが、原文では二つの語彙の合わせて4回だけです。いずれも、「なぜ」(Why)と訳されています。

    (1) לָמָּהラーンマー」・・3:11, 20, 20
    (2) מַדּוּעַ マッドゥーア」・・3:12(他に、18:3/21:4, 7/24:1/33:13)


    (1) なぜ、自分は生まれてすぐに死ななかったのか(11~19節)

    (2) なぜ、神は自分を生かしておられるのか(20~23節)


3. ヨブが最も恐れたものとは何か(24~26節)

  • 3章25節には、「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。」とはどういうことか。同義的並行法によるこの表現が意味することは、21節に「死を待ち望んでも、死は来ない」とあるように、死を望んでも死ぬことができず、苦しみながら生きることを余儀なくされている状態のことです。しかも神が、それに対して全く沈黙しているということです。それゆえ、「私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。」とヨブはうめいているのです。
  • 生も死も、自分の意志によって操作ができないという神の絶対主権という前提の中でヨブは苦しんでいるのです。なぜなら、彼のいのち(ネフェシュ)は神のものだからです。それゆえ、1章、2章では、神はサタンにヨブの信仰をふるいにかけることを許しても、ヨブの「いのち」(「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)にふれることを禁じています。「いのちはだれのものか」。その問いかけはヨブ記を読むことにおいて大きく左右してきます。

2014.5.9


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