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ヨハネに対する主の委託の声(1)

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17. ヨハネに対する主の委託の声(1)

【聖書箇所】 1章17節

【新改訳改訂第3版】
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

【新共同訳】
わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、

【口語訳】
黙 1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、


1. 「死人のようになった」ヨハネ

  • 栄光の主イエスの幻(人の子のような方)を見たヨハネは、倒れて「死人のようになった」とあります。「腰を抜かす」という言葉がありますが、腰を抜かすほどの出来事に遭遇することは滅多にありません。ヨハネが死人のようになったという表現は「腰を抜かす」以上のことであったろうと推察します。旧約の預言者ダニエルも実は似たような経験をしています。

    【新改訳改訂第3版】ダニエル書 10章8〜9節
    8 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。
    9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。

  • ダニエルの場合、「うちから力が抜け、輝きを失い、意識を失って、地に倒れた」のですから、ヨハネの「死人のようになった」と同様、尋常ではない経験と言えます。

2. 主の御手が

  • ダニエルとヨハネの二人はとても酷似しています。以下の記述を見比べてみましょう。いずれも主の御手が差しのばされています。

    ダニエル書10章10節
    10 ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。

    黙示録1章17節
    1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いて

  • ダニエルに対しても、ヨハネに対しても、同じく主の御手が差しのばされています。体に手を触れることは大きな意味があります。それは主の優しさのあふれです。人間同士でも手が触れられるだけで、相手の愛が伝われるものです。触れられるという行為は、次の言葉とともにそれを聞く者に大きな励ましと力を与えるのです。

3. 主の励ましのことばが

  • 主の御手に触れられた後に語られた主のことばに注目しましょう。

【ダニエルの場合】
10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。・・・」

【ヨハネの場合】
こう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、
・・

  • ダニエルとヨハネに語られた主の言葉で共通しているのは、「恐れるな」ということばです。主の使命の委託を与えようとする彼らに、主は「恐れるな」と語っています。主の偉大な働きをした人々が一様に耳にしたことばは、「恐れるな」(Don't be afraid)です。旧約はアブラハムから始まって、ヤコブ(イスラエル)、ヨシュアなど、新約では主の弟子たち、そしてパウロ、ヨハネなどです。主の働きの委託を受ける者たちは、みな、主からの「恐れるな」という御声を聞いているのです。
  • ちなみに、「恐れるな」(メー・フォブー, μη ϕοβου)は、黙示録の2章10節では、スミルナの教会に対する励ましとして、「あなたが受けようとしている苦しみを(何も)恐れてはいけない(メーデン・フォブー,μηδέν ϕοβου)。」と語られています。
  • 主の御手に触れられ、あいは御手を置かれ、さらに主の励ましの御声を聞いて、はじめてその働きを担っているという事実を受け止める必要があります。

4. 「わたしは、最初であり、最後です。」

  • 1章8節にもすでに「わたしはアルファであり、オルガである」という主の自己宣言がなされていました。「アルファ」と「オメガ」は、「最初」と「最後」です。こうした表現は、「メリズモ法」というへブル語特有の修辞法です。
  • 「天と地」という二つの相反する言葉をつなぎ合わせることで、空間的総称を表わす表現法です。「天にあるものと地にあるもののすべて」という意味です。詩篇1篇2節にある「昼も夜も」は、時間的、あるいは状況的総称を意味します。他にも「ダンからべエルシェバまで」といえば「北から南まで」、あるいは、「日の上るところから沈む所まで」といえば地理的総体を意味します。「善と悪」といえば「善からはじまり悪に至る」知識の総体を意味します。二つの中間的位置は問題とされません。このように全く逆のことばを使って全体を表す修辞法、それが「メリズモ」です。
  • それゆえ、ヨハネの黙示録1章17節の「わたしは、最初であり、最後です」というメリズモは、神の永遠の主権的統治の総称と言えます。その統治の中に、創造、罪、救い、賦与、喪失、回復などを含むすべてのドラマがあるのです。


2013.12.12


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