****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ヨナ書〔יוֹנָה〕

ヨナ書 (「ヨーナー」יוֹנָה)

ベレーシート

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●十二の小預言書の第五回目は「ヨナ書」を取り上げます。預言者「ヨナ」は「」を意味します。洪水によるさばきの後で、ノアが放った鳩がオリーブの葉をくわえて戻ってきました。それは、地において新しい時代が始まったことを示す預言的出来事でした。前回の「オバデヤ書」では、アブラハムを呪う者を神がのろうという反ユダヤ主義への神のさばきの代表として、「エドム」が取り上げられていました。しかし今回のヨナ書では、全イスラエルがイェシュアの伝えた「御国の福音」を宣べ伝えることで、大勢の異邦人が救われるという終わりの日の出来事が預言されています。その代表として、アッシリアの「ニネベ」の人々が取り上げられているのです。

●神のイスラエルはいまだ「御国の福音」を知りません。イェシュアをメシアと信じるメシアニック・ジューは少しずつ増加してはいますが、彼らはエックレーシアの構成員です。それとは異なる異邦人の救いが、メシアの再臨前に起こされるのです。私たちクリスチャンはそれをまだ見ていません。それはリバイバルではありません。なぜならリバイバルはすでに信仰を与えられた者たちの復興だからです。リバイバルではなく、全イスラエル(=イスラエルの残りの者)による「御国の福音の宣教による新たな群れ」なのです。それはエックレーシアとは異なる団体です。ですから、メシア王国には大きく分けて「四つの群れ」が入って行くのです。

●その一つ目は「イスラエルの残りの者」、二つ目は「エックレーシア」、いずれも「14万4千人」です(ヨハネの黙示録7:1~8、14:1~5)。「イスラエルの残りの者」は額に「神の印」が押されるゆえに、獣と呼ばれる反キリストの未曽有の苦難にも耐えることができ、メシア王国に生身のからだで入って行きます。一方の「エックレーシア」は携挙によってその恵みの時代が終わりますが、そのときに朽ちることのない御霊のからだとしてよみがえる者たち、あるいは変えられる者たちです。彼らの額には「子羊の名と、子羊の父の名」が記されています(黙示14:1)。これがもう一つの14万4千人です。この14万4千人という数は12000×12の数で、神は殊の外、この「12」の数にこだわられます。そして三つ目は「旧約の聖徒たち」です。彼らはメシアの再臨時によみがえります。そして最後の四つ目は「全イスラエルによって救われる異邦人」の群れです。彼らは救われた後に反キリストによって殉教するため、天に引き上げられて新しいからだを得ますが、彼らの額には何も記されていません。彼らは患難の中から救われた「異邦人たち」なのです。

●メシア王国に入る群れが四つであることは、ヤコブが見た「天からの梯子」による神の家のヴィジョンのすぐ後で語られています。

【新改訳2017】創世記29章1~10節
1 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。
2 ふと彼が見ると、野に井戸があった。ちょうどその傍らに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。
3 群れがみなそこに集められたら、その石を井戸の口から転がして、羊に水を飲ませ、その石を再び井戸の口の元の場所に戻すことになっていた
4 ヤコブがその人たちに「兄弟たちよ、あなたがたはどこの方ですか」と尋ねると、彼らは「私たちはハランの者です」と答えた。
5 それでヤコブが「あなたがたはナホルの子ラバンをご存じですか」と尋ねると、彼らは「よく知っています」と答えた。
6 ヤコブは彼らに尋ねた。「その人は元気ですか。」すると彼らは、「元気です。ほら、娘のラケルが羊を連れてやって来ます」と言った。
7 ヤコブは言った。「ご覧なさい。日はまだ高いし、群れを集める時間でもありません。羊に水を飲ませて、草を食べさせに戻ってはどうですか。」
8 すると彼らは言った。「そうはできません。群れがみな集められて、井戸の口から石を転がすまでは。それから、羊に水を飲ませるのです。
9 ヤコブがまだ彼らと話しているとき、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女は羊を飼っていたのである。
10 ヤコブは、母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石を転がし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた

●この話の「四つの羊の群れ」は神の家(=メシア王国)の構成員となる「四つの群れ」を意味し、「それらが集められたところで、井戸の石を転がして羊に水を飲ませる」という話です。「井戸の石」の「」を意味する「エヴェン」(אֶבֶן)は「キリスト」ご自身を啓示し、「井戸の石を転がす」の「転がす」を意味する「ガーラル」(גָּלַל)は(二根字גלの関連語としての「ガーアル」גָּאַלとも関連して)「キリストによる贖い」を意味し、「石を戻す」の「戻す」を意味する「シューヴ」(שׁוּב)は「その贖いの完了」を意味します。そして「水を飲む」の「飲む」を意味する「シャーカー」(שָׁקָה)はメシア王国における「救いの喜びの潤いに与る」ことを預言しています(イザヤ43:20)。四つ目の「羊の群れ」はいまだこの世には存在していません。しかし必ず存在するようになることを聖書は預言しているのです。種類別で見るなら、この四つの群れは「イスラエル」と「異邦人」の二種類ですが、羊の群れとしては異なるのです。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録7章9~10, 13~17節
9 その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。
10 彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」
13 すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。
14 そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです
15 それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。
16 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
17 御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」

●ここで語られている「大勢の群衆」は、四つ目の群れを指しているのです。この最後の群れを生むことになることを、イェシュアはすでに語っておられます。それは、「終わりの日にはどんなしるしが起こるのか」という弟子たちの質問に対して語られたメッセージの中にあります。

【新改訳2017】マタイの福音書24章14~16節
14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます
15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら──読者はよく理解せよ── 16 ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。

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●「終わりの日」の「御国の福音の宣教」は、全イスラエル(イスラエルの残りの者)の14万4千人によってなされるのです。イスラエルに敵対して来た異邦人に対して、彼らが福音を語る時が来るのです。この出来事は未曽有のことです。しかもごく短い間に、「だれも数えきれないほどの大勢の群衆」が救われるのです。こうした神のご計画を捉えて「ヨナ書」を読むなら、この書が特異な預言的メッセージを持っていることに気づくのです。

1. 「ヴァイェヒー」、再び、「ヴァイェヒー」

(1) 「再び」が意味すること

●前置きが長くなりましたが、これでヨナ書の言わんとすることを理解しやすくなると思います。ヨナ書は、主に選ばれた全イスラエルの民が終わりの日に再び主によって集められて、「王なる祭司としての務め」を果たすようになるという驚くべき預言だということです。

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【新改訳 2017】ヨナ書 3 章 1~2 節

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●3章1節は、「再び」ということばを除くと、1章1節の「アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった」と全く同じです。「あった」と訳されたヘブル語の「ハーヤー」(הָיָה)は、神のことばがひとたび臨むなら、不可抗力的な力によって神のご計画が実現されることを含む動詞となります。誰もそれに対抗することができません。すべてが神によって動かされ、導かれ、神の栄光が現わされていくという主権的な力をもった動詞です。ヨナは最初に語られた主のことばに逆らって、西の果てのタルシシュに逃れようとしました。しかしそれは主によって阻止され、当初の神のご計画に引き戻されました。このことを記しているのが1~2章です。こうして再度、主から同じ使命のために同じことばで命じられた預言者は、ヨナ以外にいません。「再び」とは副詞の「シェー二ート」(שֵׁנִית)で、受け入れ難い重要な事柄を、神が人に理解させる場面で起こる場合があります。たとえば使徒ペテロがそうです。彼が異邦人を受け入れることについて、神からの啓示を拒絶する場面があります。

【新改訳2017】使徒の働き10 章9~16節
9 ・・・・ペテロは祈るために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。ところが、人々が食事の用意をしているうちに、彼は夢心地になった。
11 すると天が開け、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来るのが見えた。
12 その中には、あらゆる四つ足の動物、地を這うもの、空の鳥がいた。
13 そして彼に、「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という声が聞こえた。
14 しかし、ペテロは言った。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
15 すると、もう一度(שֵׁנִית)、声が聞こえた。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」
16 このようなことが三回あってから、すぐにその入れ物は天に引き上げられた。

●「ペテロよ、立ち上がり、屠って食べなさい」という天からの声は、神の定めた規則(既成概念)を打ち破って神が新しいことをはじめようとしていることを、「立ち上がって」(新改訳第三版は「さあ」)という「アニステーミ」άνιστημι)で表しています。これは「立つ」という意味の復活用語ですが、ここでは新しい啓示とそれを理解することをペテロに促しているのです。そのためにルカは、神のこの特別な導きを2章に渡って(10章と11章)書き記しているほどです。「主よ、そんなことはできません」と拒絶するペテロのことばに対して、再び天の声があり、「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」とペテロを諭しています。ペテロが神の啓示を受け入れるまで、こうしたやりとりが「三回あった」(確約の「三」)とルカは記しています。

●ヨナの場合は、魚の腹の中で「三日三晩」と記されています。それは神のご計画とみこころを理解するには、人のたましいが死ぬことを要求されるということです。「大きな魚の腹の中で三日三晩」は主が備えたことでした。ヨナ自身に「イェシュアが死んでから、三日目」が証しされています。それは新しいヨナを生むための神の計らいなのです。ヨナは魚の腹の中で「私は御目の前から追われました。ただ、もう一度(שֵׁנִית)、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」というヨナの悔い改めの祈りがなされた時、主は彼を陸地に戻されました。この「陸地」は「ヤッバーシャー」(יַבָּשָׁה)で、単なる「陸地・乾いた所・地」という意味ではなく、イスラエルが「王なる祭司」としてその務めを果たすべき「地」を意味します。そこに主はヨナを再び戻されたのです。実際全イスラエルにその務めが回復するのは、終わりの日の患難時代になってからです。そのことをヨナ書は啓示し、預言しているのです。

(2) ヨナに対する主の命令と告知 

●主の命令は「立って、行き、宣言をせよ」です。特に「宣言をせよ」と訳された「カーラー」(קָרָה)は、「告げる、叫ぶ、宣告する」という意味ですが、同時に「出会う」という意味もあります。つまり神との出会いが起こるようにせよ、ということが期待されている語彙なのです。この出会いをつくることができるのは私たちではなく、神の働きです。機能不全を起こしている人の「霊の残り」(マラキ2:15)に語りかけるのです。霊の残滓(ざんし)が主の声を聞くことで、主に立ち返る可能性があるからです。

●ヨナが託された主の「告知」は3章4節にあります。それは「あと四十日すると、ニネベは滅びる」というものでした。「40」という数は神の試み、さばきを意味する数です。ここでは悔い改めの猶予期間を意味します。「ニネベ」はアッシリアの首都です。アッシリアはイスラエルに対して脅威を与えた国です。彼らの「横暴さ」は極まりないものでした。「横暴」と訳されたことばは「暴虐」とも訳され、原語は「ハーマース」(חָמָס)です。今日でも「ハマス」というイスラム原理主義組織をニュースで耳にします。ハマスとは現代の「テロリズム」、武力による抗争と支配を意味します。しかもアッシリアの首都二ネベは、ハムの子孫のニムロデが建設した町です。ニムロデは地上で最初の権力者となった人物で、力によって町々を支配し拡大させた人物です。二ネベもその町の一つで、そこに住む人々にもニムロデの霊性が流れています。ですから、その彼らが「ハマス」的生き方から神に立ち返るということは普通では考えられないことなのです。しかし、驚くべきことにそれが起こったのです。

2. わざわいを思い直された主とヨナの怒り

【新改訳2017】ヨナ書 3章10節
神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。

 

●預言者ヨナの告知にしたがって、二ネベの王と大臣(高官)たち、またその町のすべての人々が悔い改め、わざわいが及ばないようにとひたすら神に願ったことによって、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直されました。こんなことがあり得るのかと思うような、実に不思議極まりないことです。ところが、主がわざわいを思い直したことがヨナを非常に不愉快にさせ、怒らせたのです。この「怒り」は尋常な怒りではありませんでした。この「怒り」に、ヨナを代表とするイスラエルの民の異邦人に対する複雑な心情が表されているのかも知れません。これは私たち異邦人が知り得ない感情です。

●「怒らせた」と訳された「ハーラー」(חָרָה)の本来の意味は「燃える」で、「燃えるような怒り」「ひどく怒る、激怒する」というニュアンスです。この語彙の初出はカインが主に対して「激しく怒り、顔を伏せた」とする箇所です(創世記4:5)。神である主はカインに対して「なぜ怒るのか」と問い、その怒りを「治めるべきだ」と語りかけますが、その制止を無視して弟のアベルを殺してしまうほどのすさまじい「憤り・怒り」でした。ヨナ書4章1節、9節に、この「怒る」(「ハーラー」חָרָה)が使われているのです。

●罪を赦されたクリスチャンたちが「神を許さない」などということはあり得ないと思っているとすれば、それは大きな誤解です。ヨナやカインのように神を許せない者もいるのです。あるいは「二人の息子を持つ父のたとえ話」(「放蕩息子のたとえ」とも言われます)の中に出てくる兄は、父を許せないのです。自分が信じている善悪の基準とは異なっているという理由で、神や父のすることに対して受け入れることができないのです。このような人の怒りを静め、説得することはとても困難なのです。

●ヨナの怒りは、彼の思いと神の思いが対立したことによって引き起こされたと考えられます。ヨナの思いとは、神がイスラエルの民を愛し、その選ばれた民に対してあわれみを与えられるというもの、そしてその特別な愛は、異邦人とりわけニネベの人々のような悪しき異邦人に向けられるべきではないというものです。ところが、神がその異邦人ニネベを愛しているように見えたのです。これはまさに、放蕩三昧の限りを尽くして帰ってきた弟を父が歓待しているのを知って嫉妬した兄の妬みと似ています。愛についての見解が引き起こした嫉妬による怒りだったのです。

●マタイ24章では、イェシュアが「終わりの日」について言及されています。「民族は民族に」は内戦、「国は国に」は戦争、戦争が起こると食糧難となり、「飢饉」ともなります。また「地震」も起こります。「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです」(8節)と言われました。さらに、以下のようなことが起こってきます。

【新改訳2017】マタイの福音書24章9、12~14節
9 そのとき、人々はあなたがた(=ユダヤ人)を苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがた(=ユダヤ人) はすべての国の人々に憎まれます。
12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

●つまりユダヤ人に対する風当たりはますます強くなってくる中で、どうして全イスラエルが異邦人に対して「御国の福音を全世界に宣べ伝える」ということが起こるのでしょうか。これこそが奇蹟的なことです。いくつかの理由が考えられます。一つ目は黙示録11章に登場する「二人の証人」の出現です。二つ目は「神によって全世界から全イスラエルが集められ、額に神の印が押されることで生存の保障が与えられる」ことです。そして三つ目は「恵みと嘆願の霊」が注がれて、イェシュアこそメシアであることを悟り、奇蹟的な悔い改めが起こるからです。

3. 「二人の証人」の出現とその影響

●「二人の証人」の出現は、異邦人よりも、ユダヤ人(イスラエルの人々)に大きな影響を与えると考えられます。ここからイスラエルの残りの者(14万4千人)が生まれ出るとも言えます。その者たちによって最後の「御国の福音」が宣べ伝えられるのです。この時まで、全イスラエルによってこの福音が宣べ伝えられることはあり得ないのです。この奇蹟によって、大勢の異邦人が救われ、神の「あわれみ」が証しされるのです。この時には、すでにエックレーシアは携挙されているというのが私の立場です。

●「二人の証人」は最後の七年(患難時代)に入った時から三年半、エルサレムを中心として活躍するようです。といっても彼らの働きは全世界に知れ渡るようになっています。彼らについての情報は以下です。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録11章3~13節
3 ・・・・・、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」
4 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である
5 もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。
6 この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、水を血に変える権威、さらに、思うままに何度でも、あらゆる災害で地を打つ権威を持っている。
7 二人が証言を終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう
8 彼らの死体は大きな都の大通りにさらされる。その都は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれ、そこで彼らの主も十字架にかけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、言語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺めていて、その死体を墓に葬ることを許さない。
10 地に住む者たちは、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を交わす。この二人の預言者たちが、地に住む者たちを苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。
12 二人は、天から大きな声が「ここに上れ」と言うのを聞いた。そして、彼らは雲に包まれて天に上った。彼らの敵たちはそれを見た。
13 そのとき、大きな地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死んだ。残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した

●13節に「残った者たちは恐れを抱き、天の神に栄光を帰した。」とありますが、ここの「残った者たち」とは、額に印の押されたイスラエルの残りの者のことと思われます。彼らが世界の大勢の異邦人に御国の福音を宣べ伝えるのです。「二人の証人」が具体的に誰であるかについては、聖書が言及していないので分かりませんが、おそらく、ヨナの時代に活躍していたエリヤとエリシャのような二人です。彼らは多くの奇蹟をもって、神である主が生きておられる方であることを北イスラエルの人々に証ししました。

●「二人の証人」の宣教がなされた後、「底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう」のです。しかし神は、三日半の後に彼らを復活させ、「彼らは雲に包まれて天に上った」とあります。「二人の証人」の働きによってどれだけの人々が救われるのかは定かではありませんが、ユダヤ人の14万4千人(黙示7:4~8)は彼らの証言によって大きな影響を受けることは言うまでもありません。そしてその14万4千人による「御国の福音」の宣教によって、数えきれないほど多くの群衆(異邦人)が救いにあずかると考えられます(黙示7:9~17)。そして救われた多くの群衆(異邦人)は獣と呼ばれる反キリストによって殉教し、そのまま天に携挙されるのです。

べアハリート

●ヨナ書が語ろうとしているメッセージは4章にあります。ニネベの「横暴な」人々が悔い改めたこと以上に、ヨナに対する神のお取り扱いこそが重要なのです。そのために神が備えられたものは三つあります。一つ目は「一本の唐胡麻」、二つ目は「一匹の虫」、三つ目は「東風」です。ヨナは陰を作って自分を覆ってくれる一本の唐胡麻を非常に喜んだのですが、一匹の虫によって枯れてしまいます。そのため、太陽が昇ったときに焼けつくような東風が吹いたことでヨナは再度怒ります。そのときに神が言われたことばが重要です。

【新改訳2017】ヨナ書4章10~11節
10 【主】は言われた。
「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

●この神の問いかけは、ヨナ個人に対してというよりは、今も続いているユダヤ人と異邦人の間に横たわっている根深い問題に対するものです。この問題はやがて平和の君と言われるメシアが地上に再臨される直前に、歴史上はじめて全イスラエルが「御国の福音を宣べ伝える」ことで解決されます。つまり、全イスラエルが果たすべき「王なる祭司」の務めが回復されて大勢の異邦人に主の救いをもたらすようになるということ、この預言が「ヨナ書」なのです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります

2023.07.09
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