ヨシュアの任命、恩寵先行・信仰後続の論理
ヨシュア記の目次
1. ヨシュアの任命、恩寵先行・信仰後続の論理
【聖書箇所】 1章1節~9節
はじめに
- 「さて、主のしもべモーセが死んで後」(1:1)からはじまるヨシュア記は、新しい指導者ヨシュアとイスラエルの第二の世代の民たちが、神によって与えられた地をどのようにして自分たちのものとしていったか、その記録が記されている書です。
- ヨシュア記1章1節~9節にはヨシュアが民を率いる指導者として任命されたその内容が記されています。今回はそこに焦点を当てて瞑想してみたいと思います。
1. 神の再度のチャレンジ(「今、立って、渡れ」)
- 2節に「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」とあります。しかし原文には「行け」という動詞はなく、「~の方へ」を意味する方向を指し示す前置詞「エル」(אֶל)があるだけです。2節には「立つ」(「クーム」קוּם)と「渡る」(「アーヴァル」עָבַר)の命令を示す二つの動詞があるだけです。ちなみに、「アーヴァル」(עָבַר)は、「渡る」という意味だけでなく、「通り過ぎる、越える、進む、追い払う」といった意味もありますから、「~に行け」という意味も含まれていると言えます。
- 「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地」とは、神がアブラハム、イサク、ヤコブとその子孫に与えると誓った約束の地であり、そこは「良い地」であり、「乳の蜜の流れる地」、「安住の地」でもあります。しかもその範囲(領土)は、「荒野から大河ユーフラテス、そして日の入る方の大海に至るまで」(4節)です。
- 神の側からすれば、その地はすでに賜物としてイスラエルの人々に「与えている」(原文ではנָתַןの完了形が使われています)のです。したがってイスラエルの民に求められているのは、そこへ行ってその地を占領して自分たちのもの(所有)とすることです。すでに与えられていることを信じてそれを自分たちのものとすることを「信仰の戦い」と言われます。別な表現をするならば、「恩寵先行、信仰後続の論理」と言います。
- 「今、立って、渡れ」という神からの語りかけは新たな神のチャレンジです。神のチャレンジは40年前にもなされました。しかし民たちの不信仰によってそれは実現せず、40年間も荒野をさまようことになったのでした。再度のチャレンジは以前よりもハードルが高いものとなっています。なぜなら、ヨルダンを渡らなければならないからです。しかもその河は雪解けの水で岸いっぱいに滔々と流れ、人間的にはまさに不可能と思われるものでした。しかし神のチャレンジはその「ヨルダン河を渡る」ことでした。
2. 「強くあれ、雄々しくあれ」(信仰の鼓舞)
- とても有名なフレーズです。このことばでどんなに多くの信仰者が励まされてきたことでしょうか。この「強くあれ、雄々しくあれ」というフレーズ「ハザク ヴェ・エマーツ」が語られているパターンは以下のとおりです。
(1) 「主」⇒「ヨシュア」(申命記31:23/ヨシュア記1:6, 7, 9)
(2) 「モーセ」⇒「ヨシュア」(申命記31:7)
(3) 「モーセ」⇒「民」(申命記31:6)
(4) 「民」⇒「ヨシュア」(ヨシュア記1:18)
(5) 「ヨシュア」⇒「民」(ヨシュア記10:25)
- これを見るかぎり、このフレーズは互いに信仰を鼓舞するために使われています。なぜか上記の箇所(8回)にしか使われていませんが、特筆すべきフレーズです。
これからは、余談のように見えて重要なことを記します。ルカの福音書13章24節でイエスが「努力して狭い門から入りなさい。」と言われました。これは「主よ。救われる者は少ないのですか」と質問に応えたことばです。イエスは神の国をからし種とパン種にたとえて話された後のやりとりです。神の国ははじめては小さく、そして目立たないがやがては大きく拡大することを語りました。「狭き門」とは単に狭いということではなく、目立たない入り口という意味です。目立つことがない、そのためにだれも注目しない、だれからも見向きされない門、それが「狭き門」の意味です。そんな狭い門から入るのに「努力して」(新改訳)ということばが付け加えられています。これは実はおかしな話なのです。
確かに、「努力して」と訳された原語のギリシャ語では「アゴーニゾマイ」
άγωνίζομαιという動詞が使われており、この語の直訳は「競争する、勝敗を競う、獲得しようと奮闘する」といった意味です。しかしイエスが実際に使ったヘブル語に訳し戻した場合(ヘブル語の新約聖書参照)では、「アマーツ」ということばが使われています。「アマーツ」とは励まし用語です。「強くあれ、雄々しくあれ」は「ハザク ヴェ・エマーツ」ですが、後者の「エマーツ」(אֱמָץ)は「アーマツ」(אָמַץ)の命令形です。この動詞は励まし用語なのです。その背景には「恐れ」があります。ヨシュアに語った背景には「恐れ」がありました。ですから、「恐れてはならない」ということばが添えられています(ヨシュア1:9)。しかしイエスのことばの背景にあるのはマイノリティ(少数派)に対する恐れです。そんな恐れに対してイエスは、必ず神の国は大きく膨れ上がることを語って、「雄々しく、勇気をもって狭い門から入りなさい」と人々に語られたのです。「少数」であることを恐れてはならない、雄々しくあるようにと励ましているのです。決して「努力して、頑張って」という意味ではないのです。今日、ヘブル的視点、あるいはユダヤ的ルーツ、ユダヤ的背景からイエスの語ったことばを解釈する必要が語られ始めています。これまで、キリスト教の歴史はユダヤ人を排斥してきたために、こうした視点から聖書を読むことができませんでした。しかし今日、神は「奥義」であるユダヤ人と異邦人がともにキリストにあって「共同の相続人」となることができる道を開いてくださっています。「共同の相続人」とは、教会はこの二つのものがひとつにされなければ完成しないことを物語っています。つまりキリスト教会は、ユダヤ的背景、へブル的視点から聖書を再解釈しなければならない時代に来ていることを物語っています。
3. 神を愛すること(律法の書を、昼も夜も口づさむこと)
- 主はヨシュアにモーセが語った律法をすべて守り行なうように命じました。それは別なことばでいうならば、神を愛すること、神を第一にすることを意味します。このかかわりが生きているかぎり、賜物として与えられたすばらしい良い地にあって栄えることが重ね重ね約束されています。
【新改訳改訂第3版】
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
- 「信仰」ということばは一度も出て来ませんが、ヘブル的信仰はより動的な動詞をもって表現されます。例えば1章では、足の裏で「踏む」(3節)とか、「継がせる」(6節)、「占領する」(11節)、「所有する」(15節)、「守り、行なう」(7節)、「口ずさむ」(8節)という動詞です。つまり、ヘブル的信仰とは神がすでに与えてくださったもの(事実)を、具体的な行動をもって自分のものとすることを意味するのです。そこには常に神を愛するという霊的戦いが求められます。 その霊的戦いの一面は「神を愛すること」であり、他面は「偶像を破壊する」ことでもあります。これは別々の事柄ではなく同義的事柄です。
- 神の教え(トーラー)を「(昼も夜も)口ずさむ(=思い巡らす)」ことで、詩篇1篇3節に出で来る動詞「ハーガー」と同じ動詞が使われています。「ハーガー」は瞑想用語です。神のみことばを瞑想することを怠る時、霊的な力は必ず喪失します。「強くあれ、雄々しくある」ためには、神のことばの確かな約束を口ずさんで瞑想力を回復することが不可欠です。今日のキリスト教会の建て直しの重要な課題は、実はここにあります。今、内なる霊的な感動のあふれが求められているのです。
2012.3.9
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