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ユダ王国の滅びを決定づけたマナセ

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列王記の目次

42. ユダ王国の滅びを決定づけたマナセ

【聖書箇所】 21章1節~21節

はじめに

  • ユダの14代目の王マナセ。彼がなにゆえに父ヒゼキヤが行った宗教改革に反発して、偶像礼拝を復活させたのか。父がなした政策を継承することなく、むしろ跡形もなく崩壊させたことはまことにもって謎です。ヒゼキヤがマナセの教育を誤ったとする説もあります。あるいは側近の影響だという説もあります。前者の説は、父ヒゼキヤが息子のマナセを溺愛したという見解です。つまり、父ヒゼキヤの蒔いた種が原因だとするものですが、聖書的な根拠がありません。後者の見解も同様です。ここで原因がなんであったかということよりも、歴史的事実(現実)をそのまま受け止めるしかありません。

1. マナセの治世を表わす特徴的な語彙

  • 列王記第二21章の特徴的な語彙として、ユダの王マナセは、2節、11節にあるように、「忌みきらうべきこと」を行なったということです。これは主の前において「忌みきらわれるべきもの」であり、具体的にはカナンの宗教(偶像)を拝むことを意味します。ここで使われている原語は「トーエーヴァー」(תּוֹעֵבָה)で、旧約では117回使われています。特に、列王記の第一では14:24に1回、第二では21:2, 11/23:13に3回使われています。第一では分裂後のユダの最初の王レハブアムの時代に、ユダの人々が異邦の民のすべての「忌みきらうべきならわし」をまねて行っていたことが記されています。列王記第二では、21章2, 11節に、ユダの王マナセが「忌みきらうべきならわし」をまねて、主の目の前に悪を行なったことが記されています(2節は単数、11節は複数)。
    モレクに子どもを捧げる.JPG
  • 列王記第二23章では、ヨシヤ王が自分の父や祖父が行った「シドンの忌むべきアシュタロテ」「モアブの忌むべきケモシュ」「アモン人の忌むべきミルコム」、「バアルやアシェラ像」を主の宮から運び出しエルサレムの郊外、キデロン川で焼却しています。
  • このように「忌みきらうもの」「忌みきらうこと」「忌むべきもの」(トーエーヴァーתּוֹעֵבָה)は、偶像礼拝に関して、またそれに伴う不道徳的な行為に対して使われる用語です。その意味合いは「身の毛のよだつような、ゾッとするほどの嫌悪の情を起こさせるもの」です。マナセの行った偶像礼拝の一つに「自分の子どもに火の中をくぐらせ」(列王記第二21:6)というのがあります。これは「幼児の人身を犠牲として祭壇で焼く異教的な宗教習慣で、一般にはモレクの神へのささげ物と考えられています。この残虐な「忌みきらうべきならわし」は、マナセの祖父であるアハズもしています(列王記下16:39)。他にも、マナセは卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の前に悪を行ない。主の怒りを引き起こしました(21:6)。これは神の目から見るならば完全にトーエーヴァーなのです。マナセの政策は彼の父祖アハズの政策への復帰です。その背景には、アハズの時と同様に、アッシリヤの脅威があったものと思われます。

2. マナセの弾圧政策

  • こうしたマナセの政策に対して、真っ向から反発し、非難の声を上げたのが預言者たちでした(21:10)。それに対して、マナセは弾圧政策をもって報いたようです。その弾圧の徹底さは、預言者たちだけでなく、無偶像礼拝に身を汚すことを拒絶した者たちも同様に弾圧したと思われます。それが、「罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々にみちるほどであった」という言葉が意味していることです。このマナセによって預言者イザヤも殺された可能性があります。
  • 父ヒゼキヤの宗教改革を完全に覆して背教の道を進んだマナセの悪行は、彼の孫であるヨシヤ王の賢明な改革によってしても、その後遺症からユダ王国を救い得なかったほどだったと言えます。21:3ではマナセがしたことは北イスラエルの王アハブと対比されているのは注目すべきところです。北イスラエルはすでに滅び、南ユダ王国もやがては滅びることになりますが、それはイスラエルの歴史において罪が積み重ねられてきた結果のゆえです。滅亡の憂き目をもたらした代表格が北はアハブだとすれば、南はマナセとしているのが列王記の記者の歴史観です。
  • マナセの弾圧政策に対する神の刑罰の予告は以下の通りです。

【新改訳改訂第3版】Ⅱ列王記21章11節~15節

11 「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行ったすべてのことよりもさらに悪いことを行い、その偶像でユダにまで罪を犯させた。
12 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。
13 わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。
14 わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。
15 それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行い、わたしの怒りを引き起こしたからである。」

  • 歴代誌第二33章によれば、マナセはアッシリヤによってバビロンに捕囚されていますが、そこで彼が悔い改めたこと、そして再びエルサレムに帰還して、すべての偶像を撤去していることが記されています。なぜこのことが歴代誌に記されているのかと言えば、それは列王記の歴史観とは異なり、歴代誌の歴史観がバビロン捕囚を経て、再び、神の民を再建するために歴史が見直されているためで、マナセがバビロンに捕囚となり、そこで悔い改めたことによって再びエルサレムに帰還したことと自分たちの出来事を重ね合わせているためです。そのことによって、偶像礼拝を一切しないという新たな決意が歴代誌の歴史観の中に息づかせるためです。したがって、晩年のマナセの悔い改めは、なぜユダ王国が滅びたのかという視点から書かれている列王記では扱われなかったと言えます。それほどにマナセのしたことは、神の目に「トーエーヴァー」だったということです。

最後に・・教訓として

  • 神との愛の交わりを重視して書かれたヨハネの手紙第一の最後にあることばは、「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(5:21)です。偶像の本質は欲望の無限肯定です。それを許すのが偶像の神です。自分の欲望が否定されることなく、無限に肯定される、これこそが偶像礼拝の誘惑です。偶像礼拝は神が私たちに与えようとしている良いものを受け取ることをできなくしてしまう悪の力です。そのことに私たちは警戒しなければ、イスラエルの歴史のように、やがて滅びる運命にあるのです。歴史上の繁栄した国々がやがて滅びていくのも、その背後に偶像礼拝があるのです。

画像の説明

(大島力監修「図解 聖書」131頁より引用)

2012.12.7


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