****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ミカ書〔מִיכָה〕

ミカ書 (「ミーハー」מִיכָה)

ベレーシート

●十二の小預言書の第六回目は「ミカ書」を取り上げます。「ミカ書」と言えば、クリスマスの時期にキリスト(救い主)がどこで生まれるかという聖書的根拠として、特に、5章2節のみが引用される程度ではないかと思います。つまり、ベツレヘム(=エフラテ)からイスラエルの偉大な支配者(牧者)が出るという預言です。しかし、この情報だけでも「ミカ書」は永遠に価値のある預言書と言えます。実際、ヘロデ王の時代にその預言が実現しました。不思議な星を見た東方の博士たちは、ユダヤのエルサレムにやって来て、ヘロデ王にこう言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」と。それを聞いたヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました(マタイ2:4)。そこで彼らは聖書を調べ、ミカ書5章2節の箇所を見つけ出したのです。

●「なぜキリストはベツレヘムで生まれたのか」、「なぜイェシュアはベツレヘムで生まれなければならなかったのか」。そこには神の必然性があるはずです。神のドラマには多くの歴史的な事柄が緻密につながっています。ベツレヘム(エフラテ)はダビデの出身地です。イェシュアがベツレヘムで生まれるためには、実に不思議とも思える絶妙な神の導き(タイミング)があったのです。神が歴史の舞台に介入されなければ、決してあり得ない出来事だったのです。しかし今回取り上げるメッセージは、イスラエルを治めるメシア・イェシュアが誕生するベツレヘム(=エフラテ)が、ユダの氏族の中で「あまりにも小さい」(最も小さい)という事実です。しかも、それは「永遠の昔から定まっている」ということです。ここに最初の焦点を当てたいと思います。

1. 永遠の昔から定まっている事実

【新改訳2017】ミカ書 5章2 節
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」

●「あまりにも小さい」(聖書協会共同訳「最も小さい者」)と訳されたヘブル語は「ツァーイール」(צָעִיר)です。小さいだけでなく、劣る、つまらないという軽蔑的な意味合いをもった語彙です。ヤコブもその妻ラケルもいわば第二子であり、当時では第一子に比べると劣る者、つまり彼らは「ツァーイール」(צָעִיר)な存在だったのです。「ベツレヘム・エフラテ」も「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」とされていました。しかしそのようなところにダビデは生まれ、イェシュアも生まれたのです。いずれも「イスラエルを治める者が出る」場所として、そのことは永遠の昔からの定めなのです。「永遠の昔からの定め」とは「神の定め」と同義です。

●イェシュアは「聖書は、わたしについて証ししている」(ヨハネ5:39)と言われました。このことは、私たちが聖書を解釈するときに決して忘れてはならない原則です。聖書の初めから最後まで、あらゆるところにイェシュアが証しされています。ヤコブの息子の一人に「ダン」がいます。そのダンについて、父ヤコブとモーセが以下のように預言していますが、その預言とはダンに対してというよりも、イェシュアのことを証ししているのです。預言的証しとは、イェシュアが来られることで初めて理解できるということなのです。

①【新改訳2017】創世記49章16~17節
16 ダンは自分の民を、イスラエルの部族の一つとしてさばく(דִּין)。
17 ダンは道の傍らの蛇(נָחָשׁ)となれ。通りのわきのまむしとなれ。彼が馬のかかとをかむと、乗り手はうしろに落ちる。

②【新改訳2017】申命記33章22節
ダンについては、こう言った。「ダンは獅子の子。バシャンから躍り出る。」

●この預言はいったい何を意味しているのでしょうか。「ダンは道の傍らの蛇となれ」とあります。ここでの「蛇」は、さばく「メシア」(מָשִיחַ)を意味しています。それは、蛇とメシアのへブル語のゲマトリアが同じだからです。「ダンは自分の民を、イスラエルの部族の一つとしてさばく(דִּין)」とあります。ダンはイスラエルの一つの部族ですが、イスラエルの内側をさばくのです。これはイェシュアが諸国の民をさばく(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)という意味ではなく、イェシュアがイスラエルを限定してさばく(「ディーン」דִּין)という意味です。ダン族は当初、エルサレムの西の海沿いの土地を与えられました。しかし後に、そこから遠く離れたガリラヤ湖よりも更に北方の地に移住しました。「ダン」の町はバシャンの西北部の町です。そこにおいて「ダンは獅子の子、バシャンから躍り出る」と預言されています。ダン族は小部族でありながら、サムソンに象徴される「獅子の子」として、やがて頭角を現わす御子イェシュアを預言しているのです

●創世記2章24節の「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」という預言によれば、第二の人、最後のアダムであるイェシュアは、「父と母を離れ」て、当時の宗教(ストイケイア)の外で神に仕えます。ここでの「父と母」とは預言的・奥義的なたとえです。それは神殿ユダヤ教と律法主義を意味しています。神殿の「へーハール」(הֵיכָל)は男性名詞、律法の「トーラー」(תּוֹרָה)は女性名詞です。「父と母」はユダヤ教という「大きなもの」を象徴していますが、イェシュアは「あまりにも小さい」ベツレヘムで生まれたということに深い意味があります。

(1) イェシュアはナザレにおいてマリアの胎に宿った。
(2) イェシュアは宗教の中心地エルサレムから最も遠いナザレに住み、「ナザレ人」と呼ばれた。弟子の一人のナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った(ヨハネ1:46)。
(3) イェシュアはエルサレムにいた指導者たちの影響を受けていない。ユダヤ教の伝統、伝承、および律法の権威者からの教育を受けなかった。しかも彼らが解釈する「安息日」や「断食」の規定もことごとく破った。イェシュアは「真新しい布切れ、新しい衣、新しいぶどう酒、新しい皮袋」という革新的な存在として、ご自身を示された。
(4) イェシュアは文字(もんじ)ではなく、「霊であり、いのち」を与える生きたことば(レーマ)を語った。
(5) イェシュアによって召された弟子たちは、みな「無学の普通の人」だった。
(6) イェシュアはエルサレムでエルサレムの宗教指導者たちによって殺された。
(7) ユダヤ教の申し子サウロを、イェシュアは「大いなる光」によって造り変えて、神のことばを完成させた。

●これらのことの中に、イェシュアについての「ダンは獅子の子。バシャンから躍り出る」という預言が成就されているのです。パウロ(へブル名はサウル)はタルソからエルサレムに来て、ガマリエルという権威ある律法学者の下で律法を学んでいました。それは彼が大きな者になることを目指していたからです。しかし彼はイェシュアに出会うことで、「小さな者」となりました。「パウロ」(「パウロス」Παῦλος)という名前は彼が自分でつけた名前です。その意味は「小さな者」という意味です。その彼がこう言っています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙1章26~28節
26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。

●こうして見てくると、「あまりにも小さい」「最も小さい者」という表現には、「謙遜の奥義」が隠されていることがわかります。イェシュアが「子羊」であることもそうです。その「子羊」が御座に座しておられるのです。主の弟子たちも「最も小さい者」なのです。これは目に見える幼い子どものことを言っているのではありません。イェシュアは公生涯において、ストイケイアとなったユダヤ教に対して、「バシャン(בָּשַָׁן)から躍り出る」のです。ちなみに、「バシャン」の語源は「恥をかく」を意味する「ボーシュ」(בּוֹשׁ)です。やがて、御国であるメシア王国は「最も小さい者たち」が集められるところなのですが、そこに「イスラエルの残りの者」がいるのです。

2. 主は、イスラエルの残りの者を必ず集められ

【新改訳2017】ミカ書2章12~13節
12 ヤコブよ。わたしは、あなたを必ずみな集め、イスラエルの残りの者を必ず呼び集める。わたしは彼らを、囲いの中の羊のように、牧場の中の群れのように、一つに集める。こうして、人々のざわめきが起こる。
13 打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。」

●この預言はミカ書の特異なものです。この箇所には同義的パラレリズムが繰り返し用いられており、将来に起こる出来事の確実性が強調されています。 12節で重ねられている動詞は「アーサフ」(אָסַף)で、「集めに、集めて」が「必ずみな集め」と訳されています。もうひとつは「アーサフ」と同義の「カーヴァツ」(קָבַץ)で、「呼び寄せ、呼び集める」が「必ず呼び集める」と訳されています。そのようにしてイスラエルの神を敬う「残りの者」を、囲いの中の羊のように「一つに集める」(「ヤハド・スィーム」יַחַד שִׂים)という預言が記されています。ことごとく、確実になされるという預言が、「必ず集める」「必ず呼び集め」「一つに集める」で表現されています。これほどに強調された表現はミカ書以外にはありません。特に「スィーム」(שִׂים)の「集める」は、期間限定ではなく「永遠に任命する」という意味を含んでいます(「スィーム」שִׂיםの初出箇所の創世記2:8参照)。

●「イスラエルの残りの者」、「シェエーリート」(שְׁאֵרִית)は、英語では「レムナント」と言い、ギリシア語では「レイッマ」(λειμμα)と表現されます。12節に繰り返されている「主が、イスラエルの残りの者を必ず呼び集めること」、これはメシアの地上再臨の前に実現されることであり、まだ実現されていません。「囲いの中の」(=おりの中の)と訳されたヘブル語は「ボツラ」(בָּצְרָה)です。「ボツラ」は「イスラエルの残りの者」が獣と呼ばれる反キリストの支配から逃れて来るとされている場所です。そこにおいて、彼らに「恵みと嘆願の霊」が注がれ、自分たちが十字架につけたイェシュアこそ神の御子メシアであることに霊の目が開かれます(ゼカリヤ12:10)。そのことによって「イスラエルの残りの者」はイェシュアを王として付き従い、「一つの群れ」となるのです。そのときのことをイザヤ書63章1節は以下のように預言しています。

画像の説明

【新改訳2017】イザヤ書63章1節
「エドムから来るこの方はだれだろう。ボツラから深紅の衣を着て来る方は。その装いには威光があり、大いなる力をもって進んで来る。」「わたしは正義をもって語り、救いをもたらす大いなる者。」

●ミカ書に戻ります。2章12節で主が「イスラエルの残りの者」を集めるとき、どのようなことが起きるのでしょうか。「ざわめきが起こる」とあります。「ざわめきが起こる」と訳されたヘブル語は「フーム」(הוּם)で「ざわめく、どよめく、歓声を上げる」という意味です。これはどういうことでしょうか。それは、岩を積んで仮の石垣を作った羊飼いが、夜間、羊をその囲いの中に入れることを思い描いてみてください。翌朝、羊飼いがその囲いの門から羊を引き連れて出そうとするとき、一晩中囲いに入れられていた羊たちは、窮屈な場所から早く出たいと待ちかねています。押し合いへし合いの中、「打ち破ろう」と飛び出そうとします。ついに広い野原に飛び出て羊飼いの後に進もうとする羊たちの姿、そんなイメージを持って、再度、13節を読んでみましょう。

13 打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。

●ある時、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちを通じて、イェシュアに質問したことがありました。その質問とは「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」でした。この質問にイェシュアは「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と答えました。この後に、イェシュアは質問をして来たヨハネについて、群衆に次のように話されました。

【新改訳2017】マタイの福音書11章10~14節
10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。

●ヨハネのことを「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした」とイェシュアはほめています。ほめながらも、「天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です」と言っています。どういうことでしょうか。「天の御国で一番小さい者」の方が、ヨハネよりも偉大だと言っているのです。なぜそうなるのかというと、ヨハネは神のご計画について「天の御国で一番小さい者」以上には知っていないからなのです。何を知らないのかといえば、天の御国はすでに来ているが、いまだその時は完全には来ていないという緊張関係です。そのことをヨハネが理解できていないことを語っているのです。むしろ、そのことを知っている者こそ、「天の御国で一番小さい者」なのです。ミカ書2章13節に話を戻しましょう。

打ち破る者は彼らの先頭に立って上って行く。彼らは門を打ち破って進み、そこを出て行く。彼らの王が彼らの前を、【主】が彼らの先頭を進む。

●イェシュアはこの13節の「打ち破る者」をヨハネとし、「彼らの王」をご自分、つまり「来たるべきエリヤ」としているのです。「打ち破る者」とはヘブル語「パーラツ」(פָּרַץ)の分詞で、「どっと流れ出る者、ほとばしり出る者」という意味です。イェシュアはマタイ11章12節で「バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。 そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」と語っています。しかし、「激しく攻められています」ではなく、ここの原意は歓声を上げて「ほとばしり出ています」です。また「それを奪い取っています」ではなく、「その中のすべての者がほとばしり出ています」という意味です。つまりイェシュアについて行こうとして、羊たちが門から「ほとばしり出ている」のです。ミカの預言の成就はメシアの地上再臨前のことなのですが、すでに御国はバプテスマのヨハネの時から始まっているということをイェシュアは語っているのです。確かに、天の御国は、バプテスマのヨハネの登場とイェシュアの登場によってすでに始まっているのですが、いまだその時は完全には来ていないのです。この二つが同時に起こっているという緊張関係をヨハネは理解できなかったゆえに、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」とイェシュアに質問したのでした。「風に揺れる葦」のようにイェシュアにつまずいたのです。しかし今、イェシュアの話を聞いている群衆に対して、このことを理解して、信じるようにと求めたのが「耳のある者は聞きなさい。」(15節)ということばです。このフレーズは御国の奥義を知ることにおいてきわめて重要な語彙です(マタイ13:9, 43)。このミカ書2章13節の預言はいまだ成就していませんが、「イスラエルの残りの者」に必ず実現するのです。メシアは再臨されて、イスラエルの残りの者は「どよめきながら、メシアに従おうとして我先にとボツラからほとばしり出て来る」のです。

●エックレーシアはすでに御国の福音を聞いていますが、「ほとばしり出るようにして」イェシュアに付き従おうとしているでしょうか。天に携挙される14万4千人の人々(黙示録14章)とはエックレーシアのことですが、これらの人々は「子羊が行く所、どこにでもついて行く」者たちなのです。もう一つの14万4千人の人々とは「イスラエルの残りの者」のことで、いまだ起こされてはいません。しかしこの「イスラエルの残りの者」が起こされなければ、神のご計画と約束は実現されません。

●「残りの者」(「シェエーリート」שְׁאֵרִית)の初出箇所は創世記45章7節です。

【新改訳2017】創世記45章7節
神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。

●ここでは、自分の兄弟たちによって売られたヨセフが「残りの者」(「シェエーリート」שְׁאֵרִית)となっています。そのヨセフによって、イスラエルの民が七年間の大飢饉の中でも生き延びることができたのです。このことはノアの洪水でも同様です。神はノアの箱舟にいた八人の家族と各一対のすべての生き物だけを残して(「シャーアル」שָׁאַר)、新しい地をもたらしました(創世記7:23)。「残りの者」はその意味で重要なのです。メシア王国では「イスラエルの残りの者」によって、アブラハムの子孫が星の数のようになるのです。この神の約束が成就するためにも「イスラエルの残りの者」=「シェエーリート・イスラーエール」(שְׁאֵרִית יִשְׂרָאֵל)が不可欠なのです。ミカ書で「残りの者」(שְׁאֵרִית)は2章12節だけでなく、4章7節、5章7,8節、7章18節にもあります。

●ところで、なぜ神はイスラエルに対して目を開かせないようにしておられるのでしょうか、それはパウロがローマ人への手紙で言っているように、今はエックレーシアの時代だからです。「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)だからです。しかし、エックレーシアの時はイェシュアの空中再臨で終わります。そのあとに、イスラエルが取り扱われる時が来ます。ダニエル書12章1~3節を見てみましょう。

【新改訳2017】ダニエル書12章1~3節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。
3 賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。

●ここには五つのことが預言されています。

(1)「その時」、つまり「終わりの時」にイスラエルの人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がるとあります。大いなる君ミカエルとは戦いのための天使長です。彼が立ち上がるのは、獣と呼ばれる反キリストが立ち上がって来るからです。
(2) イスラエルの国に未曾有の苦難の時が来るからです。これはイスラエルの民に対する神の最後の取り扱いです。エックレーシアのためではなく、イスラエルのためです。
(3) しかしその時、イスラエルの民で、「あの書に記されている者はみな救われる。」とあります。「あの書とは本体である聖なる都、新しいエルサレムの「いのちの書」のことです。そこに名が記されている者だけがみな救われるのです。これが「イスラエルの残りの者」であり、黙示録7章に記されている14万4千人なのです。彼らは全世界から集められるのです。彼らの額には神の印が押されるため、殉教することなくメシア王国に入って行き、多くの子孫を生み出します。
(4) 「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます」とは、イスラエルの旧約の民のことを言っています。彼らはイェシュアの地上再臨のときに目を覚まし、イスラエルの残りの者、およびエックレーシアとともに地上で合流します。
(5) 「賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる。」と語られています。「賢明な者たち」とは、イスラエルの残りの者です。パウロを見ればわかるように、彼らの霊の目が開かれたならば、きわめて瞬時に御国の福音を理解する者となります。まさに「大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導く」者となることは明らかです。彼らは、「大きな患難の中から」大勢の異邦人の群衆を救いに導くのです(⇒イスラエルの残りの者によって救われる異邦人の群衆/黙示7:9, 13~14)。

●このようにして、最後の最後にイスラエルの残りの者は「王なる祭司」としての務めを果たすのです。

3. あなたのような神が、ほかにあるでしょうか

●「イスラエルの残りの者」についてすでに2章12節で取り上げましたが、他の箇所にもあります。

①【新改訳2017】ミカ書 4章7節
わたしは足を引きずる者を、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。【主】であるわたしが、シオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。

②【新改訳2017】ミカ書5章7~8節
7 そのとき、ヤコブの残りの者は、多くの国々の民のただ中で、【主】のもとから降りる露、青草に降り注ぐ夕立のようだ。彼らは人に望みを置かず、人の子らに期待をかけない。
8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。通り過ぎるときには、踏みにじり、かみ裂けば、助け出す者はいない。

③【新改訳2017】ミカ書 7章18節
あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。

●特に最後は③の7章18節を取り上げます。なぜなら、預言者「ミカ」の名前は「だれが主のようであろうか」という意味だからです。その内容を7章18節で答えています。ミカは北イスラエルと南ユダの両方に神のことばを語った唯一の預言者です。「あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神」としています。「ご自分のゆずりである残りの者のために」とあるように、「残りの者」(「シェエーリート」שְׁאֵרִית)に特別な思いを寄せています。彼らこそ「ご自分のゆずりの民」なのであり、「神の賜物と召命は、取り消されることがない」(ローマ11:29)ことを証しする者たちなのです。にもかかわらず、「神は今日に至るまで、彼らに鈍い心と見ない目と聞かない耳を与えられた」とあります(同11:8)。それは、「イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエル(=イスラエルの残りの者)はみな救われるのです。『救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である』と書いてあるとおりです」(同11:25~27)。

●「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか」という問いかけは、そのような神はほかにはいないという意味です。イスラエルの神は、「恵みを喜ばれる」(「キー・ハーへーツ・ヘセド」כִּי־חָפֵץ חֶסֶד)神なのです。このフレーズもミカ独自のものです。ヘセドは契約における確固たる不変の愛を意味します。「尽きることのない、絶えることのない、信頼に足る、裏切られることのない、確実な愛」とも表現されます。

●パウロとともに私たちも、神の知恵と知識の富と神の計らいを賛美したいと思います。

【新改訳2017】ローマ人への手紙11章30~33節
30 あなたがた(エックレーシア)は、かつては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエルの民)の不従順のゆえに、あわれみを受けています。
31 それと同じように、彼ら(イスラエルの民)も今は、あなたがた(エックレーシア)の受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
32 神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです
33 ああ、神の知恵と知識の富(「テホーム」תְהוֹם)は、なんと深いことでしょう。神のさばき(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)はなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.7.23
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