****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

マラキ書〔מַלְאָכִי〕

マラキ書 (「マルアーヒー」מַלְאָכִי)

ベレーシート

●「マラキ」(「マルアーヒー」מַלְאָכִי)は「わたしの使者」という意味です。固有名詞なのか、それとも普通名詞なのか、意見が分かれるところです。しかし重要なことは、この書が「マラキを通してイスラエルに臨んだ【主】のことば」であるという事実です。「ハガイ書」と「ゼカリヤ書」のテーマは「神殿の再建」です。それらは、10月1~8日に開催する「第二回セレブレイト・スッコート」で取り上げる予定となっています。順序は逆になりますが、12の小預言書を締めくくる「マラキ書」を先に取り上げます。

●バビロンの王ネブカドネツァルによってバビロンに捕囚とされたユダの民は、B.C.539年ペルシアのクロス王がバビロンを占領したことで帰国が許されます。その中から熱心な者たちがエルサレムに帰還することで、神殿再建の働きが始まります。しかしそのことを喜ばない周辺の住民の反対により、当初の熱心さは衰えて、再建工事は中止されてしまいます。ところが、後にハガイとゼカリヤの二人の預言者が立てられて、彼らが語る神のことばに励まされた民たちは、B.C.520年に工事を再開して5年後(515年)に神殿は完成します。その神殿は「第二神殿」とも「ゼルバベル神殿」とも呼ばれます。バビロン捕囚から神殿完成までが「七十年」(エレミヤ29:10)です。

●神殿を再建して、それを奉献した民は、ハガイが預言した「わたしはすべての国々(「ゴーイム」גּוֹיִם)を揺り動かす。すべての国々(גּוֹיִם)の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす」(2:7)という将来のメシア王国の預言のことばを、今にも実現するかのように思い込んでしまいます。当然、彼らが見た夢は実現しませんでした。期待が大きければ大きいほど、それが実現しなかったときの失望落胆も大きいのです。このような状況の中で、神に対する信頼と期待は次第に希薄となり、同時に神への不誠実が神の民の中に蔓延していったのです。そのことがマラキ書の背景に顕著に表れています。

●まさに、神のご計画を正しく知ることがなければ、「民は好き勝手にふるまう」(箴 29:18)ことになるということです。目先の祝福への希求が強いことで、神のヴィジョンは歪められ、神がなそうとしておられるご計画が見えなくなってしまうのです。これはみことばに携わる祭司にとって、かなり深刻な危機的状況となります。

1. 「どのように」

【新改訳2017】マラキ書1章2節
「わたしはあなたがたを愛している。──【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。・・・

●「わたしはあなたがたを愛している」「アーハヴティー・エットゥヘム」(אָהַבְתִּי אֶתְכֶם)というラブコールはこの箇所しかありません。イザヤ書 43章4節に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とありますが、ここでは「あなた」と単数になっており、ヤコブの子孫である「イスラエルの民」を指しています。しかしマラキ書は複数の「あなたがた」で、マラキの糾弾の対象者である「祭司たち」に語っています。そして「わたしは~を愛している」と訳された「アーハヴティー」(אָהַבְתִּי)は、創世記1章1節の「創造した」(「バーラー」בָּרָא)と同様、完了形です。つまり「必ずそうなる」という神のご計画における完成を表しています。ですから「愛した」という完了形は「愛することを完全に貫く」という宣言でもあります。人間の場合、そう願ったとしてもできないことがあります。しかし神が「愛した」という場合には、愛が途切れることなく、昔も今も、そして永遠に貫かれるということを意味します。

●人は自分が置かれている状況次第で、神に対する態度がいとも簡単に変わってしまう弱さをもっています。この変化はどこに起因しているのでしょうか。それは「たましい」(=肉)に起因しています。霊の中で生きるときには、神のことばをそのまま受け取ることができ、周囲の状況に何ら左右されることなく、確かな神のご計画の視点の中で、永遠のいのちをもって生きることができるのです。神との交わりはサタンの力が及ばない霊の中でなされるのです。その霊の中が神と人が交わるシークレット・プレイス(Secret Place)なのです。その場を人のど真ん中に創造するために、イェシュアが人となって来なければならなかったのです。今やそれはすでに包括的になされています。しかしいまだ完成されてはいないのです。それが完成されるときはイスラエルとエックレーシアとでは異なります。エックレーシアの場合は、キリストの空中再臨の携挙の時に完成されますが、イスラエル(=全イスラエル=イスラエルの残りの者)の場合には、キリストの地上再臨の時ではなく、千年間の「メシア王国」が終わる時です。神の創造のわざが必ず成就・完成するのだとしたら、神が選ばれたイスラエルに対する愛も完全に貫徹されるのです。このことが、「わたしは愛した」(「アーハヴティー」אָהַבְתִּי)という完了形が意味していることなのです。この視点で神とかかわることが「霊の中に生きる」ということでもあるのです。

●不思議なことに、へブル語動詞には「完了形」と「未完了形」の二つしかありません。しかしこのことが、神のご計画にある「すでに」と「いまだ」を説明できる唯一の根拠でもあります。一方、ギリシア語はあらゆる時制を豊かに表す言語ですが、神のご計画を簡潔に表すことはできません。例えば、「すでに」の時制を「完了形」や「アオリスト(過去形)」「未完了形」で表し、「いまだ」の時制は「現在形」や「未来形」で表すのです。また、神の事柄に関して「必ずそうなる」という場合、へブル語では完了形で表しますが、ギリシア語では未来形で表します。一つの例を挙げましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書22章35~40節
35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
37 イエスは彼に言われた。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
38 これが、重要な第一の戒めです。
39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

●この箇所の「愛しなさい」のギリシア語の時制は、「愛するようになる」という意味の未来形で記されています。それは聖霊がそうするようにと著者に働かれたからです。これは神の救いのご計画において見るなら自然です。神が必ずそうしてくださるという意味合いで語られているからです。「愛しなさい」ということばを、イェシュアが御国において完全にできるようにしてくださるという視点で理解するなら福音となりますが、私たちのたましいで命令として受け止めてしまうと、偽善、ないし失望を招いてしまいます。事実、人が神のみこころを実現するために、イェシュアが贖いの一連の出来事において、死からの復活により「いのちを与える霊」となられて、私たちの霊を再生し、御霊との共同の働き(ミングリング)によって、私たちのたましいを造り変え続けてくださっています。しかしそのようなキリストにある「新創造」がなされる以前には、イスラエルの民がエジプトにおいて四百年の時を必要としたように、マラキからイェシュアが来るまで同じく四百年の時を必要としたのです。そして今やイェシュアの来臨(初臨)からすでに二千年の時が流れていますが、「わたしはあなたがたを(あなたを)愛している。」という主のことばは変わっていません。不変です。不変どころか、神の預言(=幻)は必ず実現するのです。

●マラキ書1章2節に、祭司たちが神に対して、『どのように(「バッマー」בַּמָּה)、あなたは私たちを愛してくださったのですか。』とあります。神の糾弾に対するこの問いこそ、目先の祝福を希求する祭司たちを堕落させ、形骸化させた要因です。なぜなら、人は自分の周囲の状況にどうしても思いが行ってしまうからです。マラキ書で「バッマー」(בַּמָּה)がある箇所は以下の通りです。

①1章2節『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか。』
②1章6節『どのようにして、あなたの名を蔑(さげす)みましたか。』
③1章7節『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか。』
④2章17節『どのようにして、私たちが疲れさせたのか。』
⑤3章7節 『どのようにして、私たちは帰ろうか。』
⑥3章8節『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』

●祭司に対する神の糾弾が解消するのはいつの日でしょうか。それは「契約の使者」(3:1)であるメシアが再臨された時なのです。その預言が以下に記されています。

【新改訳2017】マラキ書3章3~4節
3 この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは【主】にとって、義によるささげ物を献げる者となる。
4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように【主】を喜ばせる。

※「義によるささげ物」はこの箇所だけです。イスラエルの残りの者が悔い改めることによって献げられるささげ物のことで、メシアの再臨によってそうなるのです。


2. イスラエルと諸国の民との関係の預言

●前回の「ゼパ二ヤ書」でイスラエルの残りの者について取り上げ、彼らが、短い期間ですが、御国の福音を「全世界に宣べ伝える」ことによって、大勢の異邦人を救いに導くことになることを話しました。その「大勢の異邦人」は「ゴーイム」(גּוֹיִם)で「男の子」(黙示12:5)という集合名詞で表されていることを述べましたが、マラキ書にはこの「ゴーイム」がイスラエルとのかかわりで繰り返し語られているのです。以下がそうです。

① 【新改訳2017】マラキ書 1章11節
日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で(「バッゴーイム」בַּגּוֹיִם)偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で(בַּגּוֹיִם)偉大なのは、わたしの名。──万軍の【主】は言われる──

②【新改訳2017】マラキ書1章14節
・・・・わたしは大いなる王であり、──万軍の【主】は言われる──わたしの名は諸国の民の間で(「ヴァッゴーイム」בַגּוֹיִם)恐れられているからだ。」

③【新改訳2017】マラキ書3章12節
すべての国々(כָּל־הַגּוֹיִם)は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の【主】は言われる。

●マラキ書にあるこれらの預言は御国(メシア王国)で実現されますが、預言者はそれを基点として、現在のあり方を非難し矯正しようとしているのです。これこそが預言者の務めの骨頂なのです。メシア王国では「主の名が国々の間で偉大となり、すべての場所で、主の名のためにきよいささげ物が献げられ、香がたかれる」だけでなく、「すべての国々がイスラエルを幸せ者と言うようになる」とあります。「すべての国々、諸国の民」がこのように変化するのです。だれがこのことを信じているでしょうか。ゼカリヤ書の以下の箇所でもそのことが記されています。

④【新改訳2017】ゼカリヤ書8章22~23節
22 多くの国の民、強い国々が、エルサレムで万軍の【主】を尋ね求め、【主】の御顔を求めるために来る。」
23 万軍の【主】はこう言われる。「その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、一人のユダヤ人の裾を固くつかんで言う。『私たちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたから。』」

●なぜこのような事態になるのでしょうか。それは終わりの日に「イスラエルの残りの者」が主に立ち返ることでもたらされる結果なのです。神の選民の姿を見た多くの国の民(「アンミーム」עַמִּים)、強い国々(「ゴーイム」גּוֹיִם)が、「エルサレムで主を尋ね求め、主の御顔を求めるためにやって来る」のです。イスラエルの残りの者がメシアに出会ったときに放つ輝きは、世界中の多くの国々の人々をメシアへと導く吸引力になるようです。彼らの悔い改めは復活中の復活と言われるほどのものなのです。かつて主が約束したように、「あなた(アブラハム)の子孫によって、地のすべての国々(גּוֹיֵי)は祝福を受けるようになる」(創22:18)ということが、文字通りに実現されるのです。このように、いつの時代でも、預言者たちはこの「御国の到来」の視点から現実を見つめ、そして語っているのです。その視点のない預言者は偽預言者です。真の預言者と偽預言者を見極めるには、彼らが「御国」の視点から語っているかどうかを判断する必要があります。そのためには、私たち自身も「御国」についての正しい理解が不可欠であるのは言うまでもありません。

●使徒パウロは三年半、手塩にかけて育ててきたエペソの教会に対して、「御国の福音」(=神のご計画の全体)を、余すところなく知らせたと述べています(使徒20:27)。「神の恵みの福音」(=十字架による贖い)はそれに与った者の経験として証しすることができますが、「御国の福音」は後の日に実現し完成されるため、今はそれを体験して証しすることはできません。しかし「御国の福音」は聖書から論証することができるのです。パウロの時代は聖書と言っても、私たちの言う旧約聖書しかありませんでした。その旧約聖書の中に預言されている神のご計画における「御国」を、彼は怯むことなく、臆することなく人々に教えていたのです。なぜなら、そのことがイェシュアの語り教えたことだったからです。イェシュアこそ最後の預言者です。今日のキリスト教会はこの「御国」の視点から聖書を読み、神のご計画を知る必要があります。置換神学と個人的救いの強調の弊害から脱却して、私たちエックレーシアは「御国の福音」を土台とし、それを宣べ伝える「王なる祭司」とならなければならないのです。

●「御国の福音」の射程範囲は、「ユダの家とイスラエルの家」の全イスラエル、つまり「イスラエルの残りの者」から、それに接ぎ木される「エックレーシア」、および異邦人つまり「諸国の民」までです。マラキ書1章11節には、この「諸国の民」(「ゴーイム」גּוֹיִם)が二度使われ、「国々」ということばで訳されています。この存在が御国と深くかかわっているのです。特に詩篇の中で「国々」(61回)が出てくるときには、メシア王国(あるいはその直前)のことが語られていることが多いのです。旧約の預言者たちと同様に、私たちも神の壮大なヴィジョンに心躍らす者でなければなりません。

①【新改訳2017】詩篇2篇1~8節
1 なぜ国々(גּוֹיִם)は騒ぎ立ち もろもろの国民(לְאֻמִּים)は空しいことを企むのか。
2 なぜ地の王たちは立ち構え 君主たちは相ともに集まるのか。【主】と主に油注がれた者に対して。
3 「さあ彼らのかせを打ち砕き 彼らの綱を解き捨てよう。」
4 天の御座に着いておられる方は笑い 主はその者どもを嘲られる。
5 そのとき主は怒りをもって彼らに告げ 激しく怒って彼らを恐れおののかせる。
6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
7 「私は【主】の定めについて語ろう。主は私に言われた。
『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。
8 わたしに求めよ。わたしは国々(גּוֹיִם)をあなたへのゆずりとして与える。地の果ての果てまであなたの所有として。

②【新改訳2017】詩篇22篇28節
王権は【主】のもの。主は国々(גּוֹיִם)を統べ治めておられます。

③【新改訳2017】詩篇46篇10節
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間で(「バッゴーイム」בַּגּוֹיִם)あがめられ 地の上であがめられる。」

④【新改訳2017】詩篇47篇1~3, 8~9節
1 すべての国々の民(「コル・ハーアンミーム」כָּל־הָעַמִּים)よ 手をたたけ。
喜びの声をもって 神に大声で叫べ。
2 まことにいと高き方【主】は恐るべき方。
全地を治める大いなる王。
3 国々の民(「アンミーム」עַמִּים)を私たちのもとに 
もろもろの国民(「レウッミーム」לְאֻמִּים)を 私たちの足もとに従わせられる。
8 神は国々(「ゴーイム」גּוֹיִם)を統べ治めておられる。
神はその聖なる王座に着いておられる。
9 国々の民(「アンミーム」עַמִּים)の高貴な者たちは集められた。
アブラハムの神の民として。
まことに地の盾(=民の指導者)は神のもの。神は大いにあがめられる方。

画像の説明

メシア王国では新しい統治形態となります。いと高き方【主】である神、メシア・イェシュアは全地を治める王として全イスラエルとエックレーシアを治めるだけでなく、「国々」「すべての国々の民」「もろもろの国民」をも集めて、イスラエルの足もとに従わせられるのです。イスラエルの残りの者はメシア王国において、支配的な立場に置かれるのです。しかもそのことを異邦人が自然に受け止められるところに、神の栄光のみわざが現されるのです。

3.「確かに見よ。その日が来る。」

●4章1節は多くの聖書が「見よ、その日が来る。」と訳していますが、原文には「見よ」の「ヒンネー」(הִנֵּה)の前に「なぜなら、まことに」を意味する「キー」(כִּי)がついて、「キー・ヒンネー」(כִּי־הִנֵּה)となっています。関根訳だけが「まことに、見よ。」と訳しています。「ヒンネー」だけでも神の重要な事柄として注目される語彙ですが、それに「キー」を付加することで、「その日が来ることの確実性」が強調されています。「その日」とは「わたしが事を行う日」のことであり、それはある者にとっては徹底的な神のさばきの日であり、ある者にとっては完全な救いの日なのです。そのことが最終的に明確にされる日なのです。マラキは以下のように、両者の運命と、そして二つの事柄を語っています。

【新改訳2017】マラキ書4章1~6節(Hebrew聖書=3章19~24節)
1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は言われる──
2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の【主】は言われる。
4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。
5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす
6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」

(1)「わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る」

●「その日が来る」と、主に対して「高ぶる者」「悪を行う者」たちの運命は、完全に焼き尽くされ、根も枝も残されないというさばきです。「聖絶」(「ヘーレム」חֵרֶם)のように、完全に滅ぼし尽くされるのです。しかし逆に、「わたしの名を恐れる者(=メシアを信じる者)」の上には「義の太陽」が昇り、その翼によって「癒し」がなされます。ここでの「癒し」は「救い」「解放」と同義です。「義の太陽」(「シェメシュ・ツェダーカー」שֶׁמֶשׁ צְדָקָה)はメシア的表現で、聖書ではこの箇所にしか使われていません。また「翼」と訳された「カーナーフ」(כָּנָף)は、旧約では「鷲の翼に乗せて」(出19:4)、「御翼の陰に」(詩篇17:8/36:7/57:1/61:4/63:7など)とあるように、神の保護、祭司を通しての保護を表わす比喩として用いられています。また「牛舎の子牛のように跳ね回る」とあるように喜びが保障されています。「跳ね回る」(とびはねる)と訳されたヘブル語は「ポーシュ」(פּוֹשׁ)という珍しい動詞ですが、終末論的意味で使われているのはこのマラキ書のみです。牛舎から解放されて自由に跳び回っている子牛にたとえられた「喜び」を想像してみましょう。このように、「その日」には、明確に「さばき」と「回復」、「光」と「やみ」が分かれることを主は警告しているのです。

(2) 「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」

●「その日」には、預言者エリヤが主によって遣わされると預言されています。しかもそれは「主の大いなる恐るべき日が来る前に」(4:5)です。「恐るべき日」とは、獣と呼ばれる反キリストによる未曽有の大患難のことです。ところで、主が遣わされる「預言者エリヤ」とは誰なのでしょうか。後にイェシュアがこのエリヤのことを「バプテスマのヨハネ」だと解釈しています(マタイ11:7〜14)。また弟子たちがイェシュアの変貌の後に「来たるべきエリヤがバプテスマのヨハネである」と気づいたともあります。ルカ1章17節にも「彼(バプテスマのヨハネ)はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します」とあります。このことはすでに実現しています。しかしマラキ書3章1節においては、「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。」と記し、その使いを「」(冠詞付の「ハーアードーン」הָאָדוֹן)とも、「契約の使者」とも表現しています。「契約の使者」はこの箇所でしか見られませんが、それは「メシア・イェシュア」のことを指しています。ですから、バプテスマのヨハネは本来の「使者」である「イェシュア」の前座的役割(型)として遣わされたのです。つまり「預言者エリヤ」には重複的な意味が含まれていると言えるのです。

●預言者の務めは、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせること」です。これはどういうことでしょうか。これはマラキ書における重要なメッセージです。「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」とは、父と子が向き合う関係を回復させることです。父と子の関係は神と人、神と神の民を示唆しています。その両者が「顔と顔を合わせる」ことができるために律法と預言者が必要なのです。なぜなら、律法と預言者の中にこそ神の永遠のご計画が秘められているからです。

●最初の人アダムを造られたときに、神は人の鼻に息を吹き込まれました。そのときにも顔と顔とが向き合っています。その向き合いのオリジナルは神ご自身のうちにあります。ヨハネはその福音書の冒頭に、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった」と記しています。「ことばは神とともにあった」という「ともに」とは、ギリシア語で「プロス」(προς)という前置詞が用いられており、「向き合った形で共にいる」という意味です。御父と御子とは永遠に顔と顔とが向き合っている存在なのです。そのかかわりの中で人が神のかたちに似せて造られたのですから、神と人とのかかわりにおいても、本来の姿は「顔と顔とを合わせた」かかわりなのです。人が罪を犯したあとに、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)とあります。「主の御顔を避ける」という表現は、神と人との本来あるべきかかわりが壊れたことを意味します。ですから神の救いの究極は、神と人とが「顔と顔とを合わせる」ことの回復にあることは言うまでもありません。ヨハネの黙示録ではその救いの究極を「御顔を仰ぎ見る」(22:4)と表現しています。

●イェシュアは永遠に「御父のふところにおられた方」であり、遣わされたこの地上においても、いつも御父と密接なかかわりを持っておられました。「顔と顔とを合わせている」関係です。それゆえ御子イェシュアが、自分の語ることばはわたしのものではなく、御父のもの、わたしを通して御父が語っているのだと言いました。一切、それに付け加えることなく、自分流に解釈したりすることなく、また、注釈したりすることもなく、御父の隠されていた御思いを真の預言者としてありのままに語ったのです。この方こそ、「父と子が向き合う関係を回復させてくださる」唯一の方なのです。

ベアハリート

●預言者モーセがその生涯の終わりにこう語っています。「あなたの神、【主】はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」(申命記 18:15)と。「私のような一人の預言者」とは、モーセがそうであったように、「主と、顔と顔とを合わせるような預言者」のことであり、その預言者は単数です。つまり第二のモーセ、メシア的人物である「契約の使者」である御子イェシュアを示唆しています。旧約で何度も登場する単数の「御使い」は受肉前のイェシュアを表していました。また「聞け、イスラエルよ(「シェマ・イスラエル」)」(申命記6:4)の「シェマ」が、御子イェシュアに聞けという預言(マタイ17:5)であるならば、旧約の最後を飾るマラキ書の著者が「わたしの使者」である「イェシュア」を啓示しているのは、まさに圧巻の極みです。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.9.17
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