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ブライダル・パラダイム (9)

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10. ブライダル・パラダイム (9) ー「キリストの花嫁の特権」

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【聖書箇所】エペソ人への手紙5章22~32節、創世記2章18~24節


ベレーシート

  • 前回は、創世記2章24節にある「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」という箇所をパウロが引用して、「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:23)ということがどういうことかについてお話ししました。「この奥義」とは、「ふたりは一体となる」ことを指していますが、この「ふたり」とは「夫と妻」という範疇を越えて、「キリストと教会」のことを意味していますが、こちらの方が実は本体なのです。キリストと教会とのかかわりを「花婿と花嫁」という視点で見る見方を「ブライダル・パラダイム」と言うことでお話して来ましたが、そこに秘められた「奥義」(「ムステーリオン」μυστήριον)は「偉大だ」とパウロは述べています。この「偉大」と訳されたギリシア語は「メガス」(μέγας)で、先にも後にも、どの世界においても、これ以上の奥義・秘義はあり得ないことを、パウロは「この奥義は偉大です」と表現したのです。パウロが生きていた時代の最大級の大きさを表す単位は「メガス」(μέγας)でした。
  • 私が昔聞いた「メガトン」という単位は、原爆の威力を表わす単位でした。1メガトンとはどれほどの威力を表わすのでしょうか。広島に落ちた原爆は一瞬にして広島を消滅させてしまうほどの威力でしたが、それでもその威力は0.014メガトンだと言います。ですから、1メガトンとはその100倍です。アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験は広島に落ちた原爆の約700倍の威力だと言います。まさに、「途方もない」「桁外れ」の威力です。
  • 使徒パウロが「この奥義は偉大です」と語ったのは、それが人間の理解力をはるかに越えたこの上もない神の事柄だということを言おうとしたのだと思います。パウロという人はその手紙などでも分かるように、最大級、最上級、最大限、無限大の表現を使うことが多いのが特徴です。それもそのはず、神の奥義を啓示された彼としてはそうした表現しかできなかったはずです。例えば、エペソ人への手紙の3章の最後にある部分を神の偉大さを次のように表現しています。そこの箇所をリビングバイブルで読んでみたいと思います。

「どうか、私たちのなしうるかぎりの祈り、願い、考え、望みを無限に超えて、つまり、私たちが大胆に願い求め、夢見ることもはるかに及ばないすばらしいことを、その偉大な力でなされる神様に、栄光がありますように。」

  • 「私たちのなしうるかぎり・・・を無限越えて、私たちが・・夢見ることもはるかに及ばない・・をその偉大な力でなされる神」という表現は、まさにメガトン級的表現です。パウロの手紙を見ると、「絶大な」「きわめて」「はるかに」「(人知では)測り知ることのできない」「あふれる」「ますます」を意味する「ヒュペル」(ὑπερ)のついた合成語が数多く用いられています。なぜなら、すべての領域における神のみこころとその御旨、そのご計画の緻密さとその深さ、キリストにある無尽蔵な富を知り尽くすことなど、とてもできないからです。

【新改訳改訂第3版】ローマ書 11章33節
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

  • 知恵にしても、知識にしても、さばきにしても、道にしてもすべてが底知れず深く、測りがたいのですが、重要なことは、それらすべての根源がどこにあるかということです。「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」(エペソ5:23)というパウロのことばの源泉がどこにあるのか。どこからはじまっているのか、そこに目を向けたいと思います。パウロという人はそのようなことに、殊の外、関心を抱いた人物です。それゆえに、彼にこそ「奥義」が開かれたとも言えます。

1. 神のご計画の中心は、御子に花嫁を与えることであった

  • 神のご計画の中心(あるいは目的)は、御子に花嫁を与えることであった」ということを聞いて驚かれた方はすばらしい人です。驚かなかった方はその逆です。この命題について、即座に、「アーメン」と言えた人はすごい人です。なぜなら、その人は神のみこころ、すなわち、神の創造の究極的目的である「奥義」に触れているからです。キリストの十字架の死と復活の出来事も、まさにその目的の実現のために不可欠な出来事であったに過ぎません。神の福音は「キリストの十字架と復活」であることには間違いありませんが、それが神の究極の福音ではありません。神の究極の福音とは、花婿なるキリストと花嫁なる教会が「一体となること」です。このことは人間が罪を犯す前から、天において定まっていたということです。とすれば、だれが敵対しようとも、それを阻むことはできません。神はご自身が目指されたことを必ず成し遂げられます。
  • 「人がひとりでいるのは良くない」と言われた神は、アダムを眠らせ、そのアダムからエバを造られました。このことは、神がご自身の息子に花嫁を与えようという御旨を果たすためには、御子から造られなければならないことの型でした。つまり、花嫁である教会のすべては完全に御子自身のからだから出てくるものでなければならないということです。御子であるキリストから出たものでなければ、「助け手」としての資格はないのです。これが最初からあった神のご計画です。イェシュアがぶどうの木の幹と枝のたとえの中で、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書15:4, 6後半)と言われましたが、これはそのことを言わんとしているのです。イェシュアがぶどうの木の幹と枝のたとえの中で、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書15:4, 6後半)と言われましたが、これはそのことを言わんとしているのです。
  • 一体となるためには「からだ」が不可欠です。教会が「キリストのからだ」と言われているのはそのためです。単にキリストの意志を遂行するための器官としての「からだ」ではありません。交わりのための「からだ」、一体となるための「からだ」なのです。それは「ふたりが一体となる」ために不可欠だったのです。神の永遠のご計画(神のみこころ)は「ふたりが一体」となることによってはじめて実現し、成就することができるのです。一方だけでは神のご計画を実現することはできません。それゆえ使徒パウロが「(・・である方に)、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(エペソ3:21)という祈りを記しているのは、そのことを明確に意識していたからです。
    御子と花嫁の型.JPG
  • ここで「教会により」、また「キリスト・イエスにより」となっている点が重要なことです。では、ここまで来て、イスラエルはどうなってしまったのか。イスラエルの民の位置づけはどうなるのかということです。実はここにも奥義があるのです。パウロはエペソ人への手紙3章で次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙3章6節
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

  • ここでの「奥義」とは、「男」と「女」とが結婚によって一体となるということではなく、「イスラエル」と「異邦人」とが共同の相続者となるということで一体となるということが語られています。そのことをパウロは「新しいひとりの人に造り上げる」と表現しています。この「新しいひとりの人」という概念はパウロ独自の表現ですが、キリストにあって「イスラエル」と「異邦人」の二つの民が「一つに」されることを意味しています(エペソ2:11~16)。このことが実現されるプロセスにおいて、キリストの十字架の出来事が位置づけられているのです。これがパウロに啓示された奥義でした。

【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙3章8~9節
8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
9 また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを、明らかにするためです。

  • 驚くべきことに、イスラエルと教会の歴史的な誕生は、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現であったと述べていることです。まだイスラエルも教会も誕生していない創造のはじめに、神のご計画においては、御子とその花嫁が一体となることがすでに定められていたということなのです。この奥義(神秘)を理解するために、もう一度、創世記(1~2章)とエペソ人への手紙に目を向けたいと思います。

2. 人間(男と女)の創造は、キリストと教会とのかかわりの型であった

  • このことはパウロが述べていることです。夫婦についての教えの中で、「ふたりが一体となる」ということは、「キリストと教会とをさして言っているのです」とあります。つまり、本体は「キリストと教会が一体となること」であり、「夫と妻のかかわり」はその本体の「型」であることを示しているのです。神の創造において、人間の創造が神のご計画の中心であることは明らかです。しかし、人間の創造も神の究極的な目的を実現する一つの「型」でしかありません。先にも述べたように、神の究極的な目的とは御子に花嫁を与えることです。その究極的目的を目に見える形で教えるために、神は人を「男」と「女」とに造られたのです。なぜ、人間には「男」と「女」が存在するのか。動物に「雄」と「雌」がいるようにその類(程度)のものなのか、否か。子孫を与えるための神の処置なのか、否か。その問いにどのような答えを出したとしても、おそらく不十分なものでしかないと思います。なぜなら、その答えは「奥義」として隠されているからです。しかしその奥義が開かれた者として、パウロは「夫婦」というかかわりを通して、天にある「本体」について語ろうとしているのです。

(1) エバはアダムから出た存在(=「彼らはひとり」)

  • 創世記1章では、神が創造の冠として人を神のかたちに似せて創造された時、当初から「男と女とに彼らを創造され」ました。そして、それは神の目において「非常に良かった、はなはだ良かった」(「トーヴ・メオッド」טוֹב מְאד)のです。ここでの「良かった」というニュアンスの中には、神の喜び、神のご満悦が込められています。
  • 創世記2章18節では「人がひとりでいるのは良くない」と言われた神が、どのようにして人に「ふさわしい助け手」を与えられたのか、そのプロセス(成り行き)が記されています。まず神がされたことは人に深い眠りをくだされたことです。「深い眠り」という表現も聖書においては重要です。それはある意味、「死」を象徴するものだからです。しかしこの時点ではまだ罪が入っていない状態で起こっている出来事です。ですから、死を象徴する「深い眠り」は罪に対する贖いを意味するものではありません。贖いではなく、いのちを与えるための「眠り」と言えます。

【新改訳改訂第3版】創世記2章21~23節
21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

  • 人(アダム)に関する限り、それは土から造られた人です。しかし他方において、人(アダム)はキリストを予表しています。そして女が人(アダム)から造られた事実は、教会がキリストから造られることを象徴しています。そして、この教会こそキリストにとって「ふさわしい助け手」(花嫁)となるべき存在なのです。
  • 創世記1章27節にある人の創造においてもこの真理が語られています。

【新改訳改訂第3版】創世記 1章27節
神はをご自身のかたちとして創造された。神のかたちとしてを創造し、男と女とに彼らを創造された。

  • 「神は人を」の「人」は単数形です。そしてその「彼」が「彼らを」と複数形に変わります。ひとりの「人」が「男」と「女」とに造られたからです。神は「ひとりの人」を造られたのに、その「ひとりの人」が「二人」になっています。なぜなら、「男」と「女」とは「ひとりの人」(アダム)の中にいたからです。アダム(男)はキリストの型です。そしてアダムから出てきたもう一人の女は教会の型です。「彼ら」とは、「キリストと教会」を予表しています。その本体(ご計画のマスタープラン)は天にありましたが、その影(コピー)が「男と女」とに創造されるという形で現わされたのです。

(2) 教会はキリストから出た存在

  • ギリシア語で「教会」のことを「エクレーシア」と言います。それは「この世から呼び出された者」という意味ですが、このギリシア語は「教会」の真の本質を伝えていません。なぜなら、女が男から取り出されたように、教会はキリストから取り出された存在だからです。呼び出されたのではなく、取り出されたのです。つまり、男の象徴であるキリストなしに教会の存在はなく、何の地位もなく、またいのちもありません。すべてはキリストにあって存在しているというのが「教会」が意味していることです。
  • 新約聖書で初めて「教会」という言葉が出てくるのはマタイの福音書16章18節ですが、そこではイェシュアが「わたしはわたしの教会を建てる」と言っています。この「建てる」という動詞はヘブル語では「バーナー」(בָּנָה)です。この動詞は創世記2章22節の人のあばら骨を女に「造り上げる」と同じ動詞「バーナー」(בָּנָה)です。つまり、マタイの福音書16章では「キリストがご自身によって教会を造り上げる」ことを意味しているのです。ひとりの女が人から取られたもので造り上げられたように、教会もキリストご自身から造り上げられなければならないのです。つまり、女が男から造られたことによって一体であるように、教会もキリストから造られたことによって一体なのです。女が人のように土からではなく、アダムの中にあるものによって造り上げられたように、教会もキリストのうちから出たものでなければならないのです。
  • このことを知ることで、パウロが記したエペソ人への手紙の1章1~14節にある壮大な神への賛美の内容をはじめて理解することができるのです。この箇所は、キリストにある幼子には難しい箇所です。しかし神のご計画の全体像を知り、神のキリストにある壮大なヴィジョンを知った大人たちには、この箇所がパウロの記した神への賛美の中でも、ひときわ際立つ驚くべき箇所として理解できるのです。この箇所の特長は「キリストにあって」という表現がしつこいと思われるほどに出てきます(以下の青色の部分がそうです)。これはパウロがあえて意識して使っているのです。

①†のある箇所は第3版で改訂された部分です。(  )内は私の説明です。
②この手紙にある「聖徒たち」「私たち」「あなたがた」とは、「教会」(=キリストの花嫁)と同義です。
黄色のマーカーは、神の永遠のご計画と意志決定を表わす語彙で、「みこころ」「みむね」「ご計画」「目的」といった語彙が含まれます。これを読まれる方がそれらの語彙を自分でも調べられるように原語表記してあります。


【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙1章1~14節 
1神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

†3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福(=予め定められた神のご計画とそれに付随する祝福)をもって私たちを祝福してくださいました。

†4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
†5 神は、みむね(「ユードキア」εὐδοκία)とみこころ(「セレーマ」θέλημα)のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました
†6 それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
†7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
†8 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
†9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
†10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
†11 この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画(「プロセシス」πρόθεσις)のままをみな行う方の目的(=意志「ブーレー」βουλή)に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです
†12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

†13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
†14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐこと(=相続財産)の保証(=手付金)です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

  • エペソ人への手紙1章1~14節を読んで、以下の事柄は比較的理解して受け取ることができると思います

    ①自分が神によってこの世の基が置かれる前から選ばれていたこと。
    ②神の子どもとされたこと。
    ③キリストにある血によって罪の赦しを与えられたこと。
    ④約束の聖霊をもって「御国を受け継ぐ者」としての証印を押されたこと。
    ⑤これらはすべて神の恵みによること。

  • しかしそれ以外の事については特別な関心をもっていないことが多いのです。なぜなら、ここに書かれていることを自分個人について書かれていると理解するからです。神の壮大なご計画が神の御子によって建てられて、教会がこの御子キリストから出たものであり、この方と永遠に一体となる定めにあるということに、関心を持つことが少ないのです。神の「みこころ」「みむね」「ご計画」「目的」といったことがらに対して、より関心を抱くことが、キリストから出た花嫁の最大の関心事とならなければならないのです。
  • パウロはエペソの教会の長老たちに語った訣別説教の中で、「神の恵みの福音」だけでなく、「御国の福音」について余すところなく知らせておいたと語っています(使徒20:27)。パウロの関心は常に神のご計画とその成就でした。それはひとえに、事柄の源泉への関心と深く結びついているのです。教会の様々な問題以上に、その源泉がどこにあるのか、その究極的目的は何かということについて、いつも目を向けていたのです。私たちもそのように視点が必要です。私たちが学ぼうとしている「ブライダル・バラダイム」はまさにそのことと密接なかかわりを持つのです。

ベアハリート

  • 「結婚すること」の意義は、今日においても、またいつの時代にあっても、神のご計画の始まりとその究極的な目的という観点から見直されなければなりません。今日、神が制定された結婚が人間の思いによってますますゆがめられつつある時代です。一人の特定の人ではなく、自分が愛する人であれば何人とでも結婚して良いとする「自由婚」、あるいは同性者との結婚。また19世紀初頭から生まれた「フェミニズム」の思想などは、本来の神のご計画とは全く異なり、神のみこころに敵対するものであり、その背景には偶像礼拝と同じ霊が隠れています。その行き着く所がどのようなものであるかは神の歴史と預言の中にすでに啓示されています。もし花嫁なる教会がそのような時代精神を自らのうちに取り入れるならば、「教会」ではなくなってしまうのです。
  • イェシュアが「わたしはわたしの教会を建てる(=造り上げる)」と言ったことばを、私たちは軽く考えてはならないのです。なぜなら、キリストの花嫁である教会は神のご計画の中枢にある事柄であり、「一体となる」という秘義がそこに隠されているからです。


2015.10.18


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