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ブライダル・パラダイム (8)

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9. ブライダル・パラダイム (8) ー「この奥義は偉大です」

【聖書箇所】エペソ人への手紙5章31~32節、創世記2章24節

二人は一体となる。この奥義は偉大です。

ベレーシート

  • 「ブライダル・パラダイム」ということばの意味は、キリストと教会とのかかわりを「花婿と花嫁」という視点で見る見方のことです。今回は、このかかわりが「一体」「一心同体」となるということは神のご計画における「奥義」であり、しかもその「奥義は偉大です」という点に目を留めてみたいと思います。まずは、創世記2章24節。そしてエペソ人への手紙5章31~32節にあるみことばを見てみましょう。

(1) 創世記2章24節【新改訳2017】
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。

(2) エペソ人への手紙5章31~32節【新改訳2017】
31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

  • 「ふたりは一体となる」とは、偉大な奥義であるということです。その「ふたり」とは、直接的には「夫と妻」のことを意味しているのですが、その「夫と妻」の関係は、本来の偉大な奥義である「キリストと教会」の類比でしかないのです。つまり、本体は「キリストと教会」であり、その本体の影(コピー)が「夫と妻」なのです。
  • 当教会は「日本神の教会連盟」に属していますが、その連盟の「国内宣教委員会」が主導する新しい働きとして、今年 (2015年)の夏から「次世代育成プロジェクト」という名称のミニストリーがスタートしました。このミニストリーの構想は神の永遠のヴィジョンと関連する壮大な大事業となる取り組みです。というのは、このプロジェクトを進めて行くためには、根底にある聖書的土台から取りかからなければならないからです。つまり、別の言い方をするならば、その土台が崩されているという現実から出発しなければならないからです。まさにこのプロジェクトはペルシャの王の検酌官(毒味役)であったネヘミヤのエルサレムの城壁再建にも匹敵すると言えるからです。ネヘミヤが城壁再建に取りかかる前に用意周到な準備をしたように、十分な準備の必要があると考えています。
  • このプロジェクトの全体の構想は、次世代を担う者たちが神のご計画(マスタープラン)のヴィジョンを実現する者として整えられることです。そのためには、「御国の福音」をヘブル的・ユダヤ的視点と「ブライダル・パラダイム」の視点をもって理解することが求められます。そのためには、教会に集う次世代の子どもたちが神の啓示の舞台であるイスラエルの歴史を学ぶための教会教育における変革が求められます。これだけでもかなりハードルが高くなってしまうのですが、さらにこのプロジェクトの最も根幹となる、優先順位の高い「家庭教育」に取り組む必要があります。この部分に取り掛かるためには、どうしても避けて通ることのできないものとして、聖書が教える「結婚」の奥義に触れなければならないのです。なぜなら、そこに神のご計画の隠された真理があるからです。その土台が崩れているなら、どんなに力を尽くしてもその働きはすべて水泡に帰してしまうからです。使徒パウロは次のように述べています。

【新改訳2017】Ⅰコリント3章10~13節
10 私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
11 だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
12 だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
13 それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。

  • 上記で語られている重要なことは、使徒パウロが「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。」と述べていることです。そしてその「土台とは、イエス・キリストです」と述べて、この土台の上にどのような材料で家を建てるかについてはそれぞれが注意しなければならない」と述べているのです。その結果はすぐには分かりませんが、やがてその働きは明らかになるとしています。つまり、火というさばきによっても残るような材料で建てられていたなら、その建てた者の働きは報いを受けると言うのです。
  • 「土台とは、イエス・キリスト」とありますが、この表現はキリストと教会を「建物」(神の神殿)にたとえて、土台とその土台の上に建てられる建物がどんな試練にあっても残るような建物でなければならないことを表わしています。土台だけが残ったとしてもそれは建物とは言えません。揺るぎない土台の上に建てられる建物は、なさっていたすべてのどのような火の力にも耐え抜くような堅固なものでなければならないのです。
  • ところで、このキリストと教会のかかわりをブライダル・パラダイムの視点から考えると、そのかかわりの究極は、「一体」、あるいは「一心同体」となることです。この真理を正しく教えることによって、次世代が聖書的な方法で「家庭教育」を施すことがはじめてできるということなのです。「社会教育」「学校教育」「家庭教育」の優先順位はこの順の逆です。聖書に基づく「家庭教育」を再建させることが実は最も困難な大事業なのです。

画像の説明

  • この大事業に取り組むために、私はどうしても二つのことを、使徒パウロのように、人の顔を恐れずに言わなければなりません。その第一は「人は父と母を離れる」ということ。そして第二は、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけない」(Ⅱコリント6:14)ということです。

1. 「人は父と母を離れる」ということ

  • このことばだけを抜き出すなら、キリスト教は恐ろしい宗教だということになってしまい、つまずかれるかもしれません。創世記2章は、まだ人間が神に対して罪を犯す前に語られたことばであることを念頭に置きましょう。またエペソ人への手紙5章も、夫と妻とが二人とも主にある者(同じ土台を持つ者)という前提で書かれていること、そしてそこで語られていることが、神が当初から持っておられたご計画であると同時に、究極の目的であるということが背景にあるのです。
  • エペソ人への手紙5章31節は、創世記2章24節の引用です。

    「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)
    「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」(エペソ5:31)

  • 何故、「人はその父母を離れなければならないのか」。ここで「離れる」と訳された原語は「アーザヴ」(עָזַב)で、「捨てる」という意味です。「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで、決して見捨てない。」と言われるとホッとしますね。普通の人は・・。「では、約束したことが果たされると、見捨てるのか」と考える人はかなりひねくれた人です。「約束したことが果たされたとしても、決して見捨てない」というのが本当の意味です。「決して見捨てない」の反対の意味、すなわち「父母を離れる、父母を見捨てる」という意味で創世記の2章24節は使われているのですが、それには究極の目的が付されています。「父母を離れる」目的は「妻と結び合い、ふたりは一体となるため」なのです。このことが重要なのです。「結び合い」と訳された動詞は「あるものとあるものをくっつける、ある者にすがりつく」ことを意味する「ダーヴァク」(דָּבַק)で、神と人、および人と人のかかわりを表わすときに使われ、きわめて親密な一体性をうかがわせる動詞です。たとえば、モアブ人のルツが姑のナオミに「すがりついた」(「ダーヴァク」(דָּבַק)ことで、ボアズと結婚し、やがてイェシュア・メシアにつながるダビデが登場します。ルツが故郷を捨てて(離れて)姑のナオミに「ダーヴァク」したことがどんなにすばらしい結果をもたらしたか、そのストーリーはまさに圧巻と言えます(ルツ記)。そのようにして、異邦人とイスラエルは「一体」となったのですが、この「一体」が「エハーッド」(אֶחָד)なのです。使徒パウロが「この奥義は偉大です」と言っているのは、この「エハーッド」(אֶחָד)のことで、これが花婿なるキリストと花嫁なる教会との永遠のかかわりとして隠されていた秘密なのです。やがてその秘密は明らかにされ、花婿も花嫁も共に栄光を受けるのです。
  • 詩篇45篇は「王の詩篇」として知られていますが、その詩篇の中に以下のようなフレーズがあります。

    10 娘よ。聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
    11 そうすれば王はあなたの美を慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。

  • ここでの「王」は花婿なるキリストのことを預言しています。「娘」は異邦人とイスラエルの民とから成る「教会」を預言しているかもしれません。「娘」(花嫁)は肉親への愛にも勝る花婿に対する愛が求められています。
  • 「父母を離れ」とか、「あなたの民(民族、親族、友人などを含む)とあなたの父の家を忘れよ」とかは、あくまでも、新しい夫とのかかわりを優先させるためです。文字通りに、「父と母を見捨てる(離れる)」ことではありません。聖書はむしろ、「あなたの父と母を敬え」と教えています。しかし、結婚にこそ神の深いみこころがあるために、父母とのかかわりは優先順位において、格下げされるのです。新たな夫婦は新しい家庭において、夫をかしらとして、妻はそのからだとしての秩序をもって築くようにと聖書は教えています。
  • 「救われるためには、何をしなければなりませんか」というピリピの看守の問いに対して、使徒パウロが答えた答えはこうでした。「主イエスを信じなさい(アオリストの命令形)。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)。ここには家族の救いについての示唆があります。ここの看守は後で明らかになるように「一家の長」です。つまり家族の救いが保障されているのは、あなたをかしらとする「家族」です。その家族には家長の親や兄弟を含んでいません。自分から始まる家族に対する救いの保証です。それゆえ、ひとりの人の救いによって作られる家庭、女性であれば、主を信じる男性との結婚によって築かれる家庭に対する救いの保証がなされているのです。親戚や自分の兄弟たちに対するものではありません。主を中心とした家庭に対する救いの約束です。自分から始まる家庭の祝福です。ですから、結婚する前から、自分がやがて結婚してどのような家庭を築けばよいのかは、結婚する前からクリスチャンホームを築くことが神のご計画における偉大な召し(召命)なのだということを理解している必要があるのです。
  • そのために、若いうちから結婚について(理想的には両親をモデルにして)学ばなければならないのです。なぜなら、「結婚」の「一体となる」という奥義(「ミュステーリオン」μυστήριον)は「偉大」だからです。「偉大」のギリシア語は「メガス」(μέγας)で、ヘブル語の形容詞「ガードール」(גָּדוֹל)と同義です。それは「偉大な、大いなる、きわめて重要な、大切な」という意味です。つまり、結婚における「一体となる」という奥義は、メガ級レベル(当時の表現として最大級)のきわめて重要な神のヴィジョンと密接につながっている事柄なのです。このような概念は、この世の結婚観にはありません。この世においては隠されているという意味で「奥義」なのです。つまり「奥義」は、主を信じる者にしか理解できない事柄だということです。

2. 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはならない」ということ

  • 聖書に基づく「家庭教育」を再建させるためには、第二のこと、つまり、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません」(Ⅱコリント6:14)という使徒パウロの教えを正しく理解する必要があります。この教えが意図していることは、キリストの花嫁が花婿であるキリストと「一体」となるという福音の奥義が、神の最終のご計画(ヴィジョン)と深くかかわっているからです。その神のヴィジョンと一致しない曖昧な教えはすべて排除されなければなりません。そのことは、特にすでに結婚してしまった者にではなく、これから結婚する者たちに対して教えなければならないことです。サタンはこの偉大な奥義を破壊するためにエバを、そしてアダムを誘惑したことを決して忘れてはならないのです。果たして私たちが、パウロの言うように、次世代のために、「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」、「語るべきことを大胆に語れるように」、「私のためにも祈ってください」と言えるでしょうか。この祈りの要請の背景には、「福音の奥義を大胆に語る」には必ず戦いが余儀なくされるという現実があるからです。
  • 「ブライダル・パラダイム」への転換という取り組みは、花婿をひたすら慕い求めるという美しい面があると同時に、偉大な奥義の真理に立つという厳しい面があることを忘れてはならないのです。ですから、聖書的な「家庭教育」がなされるためには、真理に対する戦いという面がどうしても不可欠なのです。このことを曖昧にして、花婿を慕い求めることは偽善に陥ることになります。聖書的な健全な「家庭教育」を土台として初めて「教会教育」が力を持ってきます。さらに「連盟教育」が大きく実を結ぶことになると信じます。この教育の連鎖にある種の流れが作られるためには、忍耐と一貫した姿勢が求められます。それが可能となるために祈る必要があります。困難な大事業だからです。
  • いつの時代であっても「子育て」は大事業です。この点、異邦人である私たちは、神の民であるユダヤ人たちがどのような教育をしてきたのか、偏見を持たずに、謙虚に学ぶことは良いことかも知れません。なぜなら、彼らは昔から伝統的に教育に熱心な民族であり、しかも旧約聖書には「子育て」や「教育」に関するすぐれた知恵が多く記されているからです。「セレブレイト・スッコート」も今日で終わり、これから「箴言」をゆっくりと瞑想していきますが、家庭教育をいかにして建てあげるべきか、その知恵を得るための瞑想となればと思います。その箴言の中から・・

①「しっかりした妻は夫の冠」(新改訳2017,12:4)
②「妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。」(新改訳2017,18:20)
③「家と財産とは先祖から受け継ぐもの、賢明な妻は主からのもの。」(新改訳2017,19:14)
④「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。」(新改訳2017,31:10)

  • 箴言で、結婚について高く評価しているのはそこに神の奥義が隠されているからであり、唯一、それを破壊する力は姦淫の罪だけです。また親子の関係においても、「むちを控える者はその子を憎む者である」(13:24)とあり、知恵を持つために厳しくしつけられる必要が教えられています。聖書は特に家庭の重要性について教えています。ですから、聖書によって家庭教育がなされるならば、「次世代育成プロジェクト」は間違いなく、実を結ぶと信じますが、そのための準備にまごついていてはならないのです。なぜなら、子はすぐに大きくなっていくからです。「子育て」においても、「時」があるのです。その時を見逃すことなく、主にある両親のみならず、教会全体がこのことのために心を傾ける必要が、今の時代に求められているのではないでしょうか。
  • 家庭教育は、結婚という聖書的な奥義に裏付けられなければなりません。この領域が今日、敵によって最も激しく攻撃されています。聖書的土台が崩されていては、私たちは何も建て上げることはできないのです。まずそこから改革を始めなければならないのです。
  • 最後に、コリントに向けた使徒パウロの「キリストの花嫁」の霊性についての教えに耳を傾けましょう。

【新改訳2017】Ⅱコリント6章13~18節、7章1節
13 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。
14 不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。
15 キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。
16 神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、
18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」
7:1 愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。

  • おそらく多くの者(クリスチャン)が、このような教えに対して、現実にそぐわないとして反発を感じ、事実、反対するかもしれません。なぜ、使徒パウロはコリントの花嫁に対してこのようなことを書き記したのでしょうか。パウロ自身がその思いを以下のように述べています。

【新改訳2017】Ⅱコリント11章2~3節
2 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
3 蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

  • 分離の命令の意図は、「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないか」という懸念があるからです。それゆえ、「不信者と、つり合わないくびきをともにしては」いけないのです。

2015.10.4

改定2018/12/6


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