****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ブライダル・パラダイム (3)

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4. ブライダル・パラダイム (3) ー花嫁の純真さ

【聖書箇所】Ⅱコリント書 11章2~3節 

ベレーシート

  • 聖書では神と人とのかかわりをいろいろな比喩を用いて以下のように表しています。私たちが今、取り上げているのは「花婿と花嫁の関係」です。婚約は成立していますが、まだ結婚していない状態です。つまり、待ちの状態に置かれています。

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  • 上の図に共通していることは何でしょうか。「かしらとからだ」「夫と妻」「父と子(子どもたち)」「礎石と石」「幹と枝々」「羊飼いと羊の群れ」「花婿と花嫁」「王と民」のかかわりに共通していることは、「一致する」ことによって成り立つということです。これらは神と神の民イスラエルの関係と、キリストと教会の関係を表わしている比喩です。中でも、「花婿と花嫁」の比喩は、神のご計画を常に意識しながら歩む上で、きわめて夢のある終末的・未来志向をもった比喩だと言えます。「宮を建設中」という視点よりも、この「ブライダル・パラダイム」を明確にすることによって、今日のキリスト教会にいのちの回復をもたらすと信じます。
  • 今回は、シリーズ「キリストの花嫁」の第四回目で、「ブライダル・パラダイム」No.3です。キリストと教会とのかかわりを「花婿と花嫁」という視点から見る「ブライダル・パラダイム」について取り上げたこれまでのことを、簡単に振り返ってみたいと思います。
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  • 第一は、花嫁の霊性の特徴について取り上げました。その霊性の特徴は、何よりも神を知ること、神を愛することを喜びとし、そのことを何よりも大切にすることです。つまり、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主なる神を愛する」という第一戒に生きる世界であり、それは、主の前にすわって主の語られることばに耳を傾けるというマリアの霊性、あるいは、いのちの日の限り主の家に住むことを願ったダビデの霊性だということでした。しかもそれは、「顔と顔を合わせて」(Face to face/「パーニーム・エル・パーニーム」פָּנִים אֶל־פָּנִים)神と過ごすこと、神の秘密(奥義)を知るという祭司の霊性とも関係することを学びました。この祭司の務めによって、地を支配するという王としての務めを完成することができるからです。
  • 第二は、花嫁の日々の歩みについて取り上げました。花嫁の究極の喜びは、花婿といつの日か、「顔と顔を合わせて見る」ということです。では、現在は「顔と顔とを合わせて見る」ことはできないのでしょうか。いいえ。完全ではなくても、「ぼんやり」と見ることはできるのです。「一部分」を知ることができるのです。とすれば、ぼんやりではあっても、花婿の顔を慕い求めようとすることは自然です。主の隠された秘密の一部分ではあってもそれを求めることは自然であり、花嫁に与えられている喜びなのです。その喜びを日々経験することで、花婿を待ち望む思いはより増してくるのです。聖書の中で主の御顔を慕い求めた者たち、主と「顔と顔を合わせる」ことのできた人々には、共通したライフスタイルがありました。それは花婿の御顔を慕い求めるために、ある聖別された「時」をもっていたということです。その「時」とは、「暁」「夜明け」の時です。なぜ「夜明け」なのかといえば、一日の中で「朝」は主と出会う最良の時であり、主との密会の時なのだということを心に留めたいと思います。

1. キリストにささげられた花嫁としての教会

  • 第三は、花嫁の思いにおける純真さです。このことを、今回の「ブライダル・パラダイム」(3) として後で取り上げたいと思います。その前に、教会がキリストの花嫁とされたのは神の永遠のご計画によるものであることを学びたいと思います。まずは、テキストを読みましょう。コリント人への手紙第二、11章2~3節です。

【新改訳2017】
11:2私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。
11:3蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。


(1) 教会がキリストの花嫁となることは神の永遠のご計画

  • ここで使徒パウロはコリントの教会の人々に、「私はキリストの福音を伝えてあなたがたをキリスト教に改宗させようとした」とは述べていません。「あなたがたを清純な処女(単数)として、一人の夫キリストに献げるために婚約させた」と述べています。なぜなら、これが神の永遠のご計画だからです。つまり、あなたがた(教会)がキリストの花嫁であるようにされたのは、この世界の基の置かれる前から神(御父)が御子のために、すでにご計画していたことなのだということです。パウロが考えたことではなく、神がご自身の子である方(イェシュア)に花嫁を与えるというご計画があったのだということなのです。
  • 創世記2章に記されているように、神である主はエデンの園に大地のちりで形造った人を置かれました。「エデン」(「エーデン」עֵדֶן)とはとても贅沢な、良い食べ物がたくさんあってそれを思いのまま食べてよい所です。また、いのちの水の源泉であり、その川が四方に流れている所で、それは天にある神の御座から流れてくるいのちの川です。そこには永遠の喜びと楽しみがあるところ、それが「エデンの園」という意味です。そこに「人」が置かれたのです。「人」は神が造られた被造物(野の獣や空の鳥)のすべてに名をつけるという立場にいました。「名をつける」ということは、それらを支配する力が与えられていたということです。ところが、何かが足りませんでした。何か大切なものが欠如していました。それはその「人」がひとりであったということです。この「人」(「アーダーム」אָדָם)に対して神はこう言われました。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(新改訳2017)と。そして彼に深い眠りを与え、その眠っている間に、彼のあばら骨で一人の女を造り上げたのでした。この出来事は実は天のご計画にある写しなのです。男と女(妻)が結び合って一体となるという奥義はそもそも、天にある神のご計画に秘められた出来事だったのです。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているとパウロは言っているのです(エペソ5:31~32)。
  • パウロはこのような感覚で教会を考えていたのです。少なくとも、私は最近になるまで、教会が「キリストの花嫁」であるというこの概念を明確にはもっていませんでした。もちろん、ことばとしては知っていましたが、念頭に置かれることはなかったのです。これは「御国の福音」を考える上で、また、キリストの再臨と終末に関する教えにおいても重要な概念であり、「終わりの日」に向かっているこれからの時代に必要なパラダイムだということを神の導きの中で確信したのです。「あなたがた」(教会)=「清純な(純潔な)処女(単数)」。「一人の夫キリストに献げるために婚約させた」=「キリストにささげた」という構図です。

(2) イスラエルと教会の関係

  • ここで、明確に整理しておきたいことがあります。それは、神の民として選ばれたイスラエルと教会との関係です。以下の図で説明したいと思います。

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2. キリストの花嫁の品性としての「きよさ」

  • 教会はキリストの花嫁として婚約したのです。興味深いことに、ユダヤ的文化では、婚約と結婚はほぼ同じ意味で使われています。同じ意味とはどういうことかと言えば、婚約した場合、その二人の関係は夫婦と同じ倫理が要求されるということです。かといって正式に結婚(婚姻)をしたわけではありません。結婚するのはキリストが空中再臨される時です。その時がいつかは私たちに知らされていません。その時は御父がゴー・サインを出した時です。それまでは花婿は天において花嫁と共に住むための家づくりに専念しているようです。教会は神のひとり息子の妻となるべく永遠の昔から神のみこころの中に定められていたということです。それゆえ、そうしたご計画に基づいて、パウロは「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」(Ⅱコリント11:2)と述べているのです。私たちには、キリストの花嫁として結婚するという意識を明確にもった教会形成が重要です。それは同時に、神のご計画全体(神のマスタープラン)を意識することにもつながるのです。
  • さて、Ⅱコリント11章2~3節には、キリストの花嫁の品格―「清純なおとめ」について語られています。まずは、使われている語彙の意味について把握しておきたいと思います。「清純な」(きよい、純潔な、純真な、潔白な、貞潔な)と訳されるギリシア語は「ハグノス」(ἁγνός)で、新約で8回使われています。その中のひとつが下記のみことばです。

【新改訳2017】Ⅰヨハネの手紙 3章2~3節
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

  • 「この望み」とは、2節にある「私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」という望みです。これは別のことばで言うならば「一心同体」ということです。この「望み」をいだく者はみな花婿なるキリストにふさわしく「自分を清く」しなければなりません。すでに教会はキリストの愛といのちのあかしである血潮によって「きよい」者とされているのです。と同時に、それにふさわしく生きることが求められているのです。なぜなら、その課題は、私たち(花嫁)に与えられている究極の望みから来る必然的な結果なのです。もし「自分を清くする」ことをしないなら、花婿なるキリストと結ばれて一つになることを心から願っていない花嫁であることを、自ら証明しているようなものです。
  • 「自分を清くする」とはどういうことでしょうか。使徒パウロの表現によれば、「思いが汚されない」(Ⅱコリント11:3)ことです。思いが汚されないためには、花婿の語ったことばを自分の思いとすることですが、花婿の語ったことばだけを自分の思いとすることは決して容易ではありません。ですから、使徒パウロは「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないか」と心配しているのです。
  • 「花嫁」が「純真なおとめ」として婚約中の身であることを意識し続ける必要があるのですが、「自分を清くする」とはどういうことなのでしょうか。ジャック・ヘイフォードという牧師の『地震』という本の中に、黙示録2~3章にある七つの教会に対する使信から、「教会のいのちを奪う4つの要素」としてまとめて指摘しているものがあります。それを引用しながら、付け加えて説明したいと思います。

(1) 活動や働きが教会の優先順位の第一になること

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  • 教会のいのちを奪う要素の一つは、活動や働きが教会の優先順位の第一になることです。エペソの教会は、よく働き、仕え、聖書の価値観にも忠実でした。そして長い間、忍耐してきたと主からほめられています。ところが「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」と非難されているのです。教会はいつの時代でも、この種の危険性を抱えています。この世においては何らかの目に見える結果を出し、何らかの業績を残すことが常に求められます。成果主義とも言えます。しかし目に見える偉大な業績を成し遂げて成功したとしても、その後には必ず停滞し、成長が止まり、やがて崩壊してしまうケースが多くあるのです。どのようにして建て直すことが可能でしょうか。教会も同様です。
  • 「はじめの愛から離れる」ことになる原因のひとつとして、活動や働きが教会の優先順位の第一になっているとすれば、悔い改めて、花婿イェシュアとの親しい交わりに戻らなければなりません。イェシュアとの親しい交わりが失われて、御父の心を見失うとすれば、教会の力の源泉を放棄したことと同様です。イェシュアは「あなたがたはわたしから離れては何も出来ない」と言われました。いのちの源泉はイェシュアにあります。忙しいことは必ずしも良いとはいえません。エペソの教会がそうであったように、活動主義に陥ってはならないのです。忙しく活動し続けることが第一優先事項となってはならないのです。

(2) 不純を認可すること

  • バラムとイゼベルの教えに関連する「サタンの深み」(黙示録2:24)は、過剰な刺激を与えることです。現代はまさに「高度刺激社会」です。ゲームはますますリアルになり、その刺激性は増大しています。刺激性の強いゲームをするとコカインや麻薬を投与したときと同じような現象が脳内に起きて快感が得られるのだそうです。快感を伴う刺激が与えられると、それがまた欲しくなり、次第に同程度の刺激では満足できなくなり、さらにより刺激の強いものを求めるようになります。ゲーム依存症、ネット依存症、スマホ依存症、パチンコ依存症、セックス依存症、薬物依存症はみな同じからくりです。そうした依存症の人たちが加速度的に増えつつある社会、これが「高度刺激社会」です。こうした刺激性を求めることを許すことによって、心と思いが汚され、悪霊たちの影響下に自分をさらすことにもなります。それによって、神の目的を全うする人物になる力が制限されます。なぜなら、神のみことばを学ぶことは、一見退屈極まりないものと思われるからです。しかし私たちがキリストの花嫁としてやがて永遠のかかわりを築くためには、じっくりと聖書を読むことは不可欠です。確かに聖書はとても退屈な部分が多々あります。しかし時間をかけてじっくりと読み解いていくとき、それまで見えなかった神の豊かな世界(鉱脈)を見つけることができるのです。地道な取り組みの先に、私たちの霊を喜ばす感動があるということを経験していく花嫁でなければなりません。今日、みことばの飢饉が襲い、みことばに飢え渇く者たちが少しずつですが、起こって来ているように思います。

(3) 金銭的な成功が神の祝福に等しいとする誤信

  • 「繁栄神学」では金銭的成功と祝福を同じものと考えています。そのような「繁栄神学」は次第に教会から真のいのちを奪い取っていく考え方です。黙示録3章17節には次のように記されています。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」と。物質的な祝福が神の祝福であるというのは全くの嘘だと言うわけではありません。しかし、金銭的成功は神の祝福だと思い込む「惑わし」について、花婿は警告しているのです。花婿よりも「祝福」にウェイトが置かれている信仰は気をつけなければなりません。これはご利益信仰と何ら変わりません。むしろ、常に、無尽蔵な神ご自身の豊かさを求め続ける「⼼の貧しい花嫁」でなければならないのです。

(4) 恵みと栄光を取り除く宗教的な組織

  • イェシュアが非難された教会の第四の問題点は、主の恵みと栄光を取り除く宗教的組織にあります。ニコライ派について二度も言及されています(2:6, 15)。また、「サタンの会衆」という言葉もあります(2:9)。これらは、今日にいうマインドコントロールされたカルト集団です。もともとニコライという言葉は、ニカオスとラオスという二つの言葉からなり、講壇に立つ教職についた人々が他の会衆と自分たちを区別するための階級制度を示す言葉でした。指導者だけが重要で、他は指導者に従うだけの存在とみなす考え方です。このようにニコライ派の人々は、人々の思いを支配し、自由にあやつろうとします。真の牧師、および教会の霊的指導者の働きはそのようであってはなりません。イェシュアのいのちが人々を通して流れるように導くことです。花嫁たちの行くべきところに最大限の関心がもてるように助けることです。 


ベアハリート

  • やがて婚礼の時には、「花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された」(新改訳2017)とあります(黙示録19:8前半)。「その亜麻布とは、聖徒たち(=花嫁)の正しい行いである」(黙示録19:8後半)と記されていることに注意を払わなければなりません。「花嫁の正しい行い」とは(1) ~(4)で説明したことが排斥されることです。
  • さらに花嫁は、「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。」という使徒パウロの心配について、十分に理解する花嫁とならなければなりません。「純潔」「真実」「貞潔」は、婚約中である花嫁に求められている美しい品性であり、花婿から求められた品格なのです。しかし花嫁のきよさは、花嫁が「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」(新改訳2017、雅歌2:7)とあるように、自発的なものでなければその価値はありません。ただただ花嫁が、花婿の愛に目覚めるように祈りましょう。


2015.7.26
改定2018.11.14


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