****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ハバクク書〔חֲבַקּוּק〕

ハバクク書 (「ハヴァックーク」חֲבַקּוּק)

ベレーシート

●十二の小預言書の第八回目は「ハバクク書」を取り上げます。小預言書の中で、預言者が主に対して「いつまでですか」「なぜですか」と叫んでいるのは、ハバククだけです。その主の答えが、ハバクク書の重要なテーマとなっています。イェシュアが「御国の福音」を語るときにしばしばたとえを用いられました。それは分かりやすくするためではありません。それは「どういう意味ですか」という問いかけをもって、尋ね求めることを待っておられるのです。問いかけることによって、神の本意を見出すことを求めているのです。無関心で、問いかけることがなければ、それ以上は知らされないということが、神の知恵なのです。ハバクク書の特徴は、ハバククの鋭い問いかけによって、神のご計画が開示されていくことにあります。

●ハバククが「いつまでですか」(「アド・アーナー」עַד־אָנָה)、「なぜですか」(「ラーンマー」לָמָּה)と神に問いかけているのには理由があります。それは、「不法と苦悩」、「暴行と暴虐」、「争い事といさかい」のため、「みおしえは麻痺し、さばきが全く行われておらず、悪しき者が正しい者を取り囲み、曲がったさばきが行われている」からです。ヨシヤ王がかかげた主の律法(おそらく申命記)によるかつての宗教改革も空しく、エジプトとバビロンの狭間で政府の高官たちがそれぞれの思いや利得で、バビロンに従属したり、あるいはエジプトに従属したり、やがてはそれに反旗を翻したりと、王のリーダーシップが希薄となり、律法による神の統治にも信頼することのない現実の中でハバククは神に叫んでいます。その答えが5~11節に記されています。

【新改訳2017】ハバクク書1章5~11節
5 「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、たじろげ。わたしは一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それが告げられても、あなたがたは信じない。
6 見よ、わたしはカルデア人を起こす。あの強暴で俊敏な国民だ。
彼らは地を広く行き巡り、自分のものでない領土を占領する。
7 それは凄惨そのもの。彼らはさばきと宣告を自ら下す。
8 その馬は豹より速く、日暮れの狼より敏捷だ。その軍馬は跳ね回り、その騎兵は遠くから来て、鷲のように、獲物にさっと舞い降りる。
9 彼らはみな暴虐を行うためにやって来る。そろって顔を前方に向け、砂のように捕らわれ人を集める。
10 王たちを嘲り、君主たちを笑いものにし、すべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて町を攻め取る。
11 こうして、風のようにやって来て過ぎ去る。しかし自分の力を神とする者は、責めを負う。」


1. 「見よ。わたしはカルデア人を起こす」という受け入れ難い神の計画

●ハバククの問いかけに対して、「見よ、わたしはカルデア人を起こす」と主は答えられました。「異邦の民」(「ゴーイム」גּוֹיִם)とは「ユダを取り巻くバビロンをはじめとする諸国」という意味です。そこに、主は「一つの事を行う」とあります。「一つの事」とは、バビロンが諸国の多くの民を捕囚の民とする事です。この驚くべきことに「目を留めよ」と主は命じています。このことを「あなたがたの時代に」、つまりハバククが生きている時代に行うと主は語っています。事実、それが起こりました。

●カルデア人(=バビロン)がハバククの時代に諸国を「攻め取る」(10節)ようになる、というのが神の答えなのです。当然、その中にはユダも含まれているわけですから、「それが告げられても、あなたがたは信じない」と言われているのです。しかもそのカルデア人というのは「強暴で俊敏な国民」で、諸国を占領するだけでなく、「それは凄惨そのもの。彼らはさばきと宣告を自ら下す」(7節)のです。「さばきと宣告を自ら下す」とは、自らを神の地位に置くことを意味しています。この神の答えを、ハバククは正しく理解できたのでしょうか。

●預言者エレミヤはこの神のご計画の不可解性を理解できた人でした。ですから無駄な抵抗をせずに、バビロン(カルデヤ人)に従属するようにとユダの人々を説得しようとしました。しかし、当然ながらそのようなことはユダの人々には受け入れられません。それゆえエレミヤは苦難を受けたのです。なぜユダの民がバビロンの捕囚の民とならなければならないのか、エレミヤが見た神のご計画は以下の通りです。

【新改訳2017】エレミヤ書29章10~14節
10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──【主】のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める──
【主】のことば──。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』

●エレミヤによれば、神がユダのために立てているご計画は、「わざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」です。しかしそれが実現するためには、ユダの民が捕囚という死を経験する必要があったのです。こうした神のみこころを理解して、信仰をもって身を委ねることはとても難しいことであったのです。ですから主は、「それが告げられても、あなたがたは信じない」(ハバクク1:5)と語っておられるのです。神がハバククやエレミヤに伝えたメッセージは、いわば「死んで、生きる」(死と復活)というものです。滅びて、再び復活した国はありません。ですから到底信じることができないのです。

2. ハバククの第二の問いかけ(1:12~17)

●ハバククの第二の問いかけの焦点は何でしょうか。神のミシュパート(統治)として神が据えられるカルデア人は、あくまでもユダの民を叱責するための神の道具であること、またユダが彼らによって滅亡してしまうことは決してないことをハバククは正しく理解しました。しかし、たとえ彼らが神の目的のために据えられるとしても、なぜそれによって彼らが豊かになり繁栄がもたらされるのか、そしてその豊かさをさらに求めるために、容赦なく諸国の民を引きずり上げ、集めて喜び楽しむ「網」(=支配力)をいつまで行使し続けるのか、そこが第二の問いかけの焦点でした。

【新改訳2017】ハバクク書1章12~17節
12 あなたは昔から【主】ではありませんか。私の神、私の聖なる方よ、私たちが死ぬことはありません。【主】よ、あなたはさばきのために、彼を立てられました。岩なる方よ、あなたは懲らしめるために、彼を据えられました。
13 あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。
14 あなたは人を海の魚のように、治める者のない、這う虫のようにされました。
15 彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、自分の網で引き上げ、自分の引き網で集めます。こうして、彼は喜び楽しみます。
16 そのため、彼は自分の網に、自分の引き網にいけにえを献げ、焼いて煙にします。これらにより、彼の分け前が豊かになり、食物が豊富になるからです。
17 そのため、彼は自分の網を空にし続けながら、諸国の民を容赦なく殺すのでしょうか。

●ユダを叱責するための神の道具を、12節、および15~17節では「」としていますが、その「彼」とは「バビロンの王」のことです。その彼が、支配力によって豊かになるという現実に対して、ハバククは受け入れ難いものを感じていたのです。カルデア人(バビロン)が豊かさ(繁栄)の味を覚えて、さらなる繁栄を求めて容赦なく諸国の民を殺し続けることがいつまで続くのか、ハバククは主に問いかけたのです。

●諸国から富を搾取することでもたらされる繁栄は、ハバククにとって耐え難いことだったと思います。詩篇73篇(以下は「新改訳第二版」)の作者である霊的指導者アサフも、「誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見た」とき、「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みはすべるばかりだった」(73:2)と赤裸々に告白しています。アサフにとっては、「悪者が、いつまでも安らかで、富を増している」ことに耐えられなかったのです。まさに彼の心は獣と同様の状態だったようです。もしこのことが人に知られるならば、多くの者がつまずきかねないことも知っていました。ハバククも同じ心境になっていたのではないかと思います。

3. 神の定め(終わり)の時の幻を書き記して、信じて待て

●ハバククのこの問いかけに対する主の答えは、以下の通りです。ここからが重要です。

【新改訳2017】ハバクク書2章2節
【主】は私に答えられた。「幻を板の上に書き記して、確認せよ。これを読む者が急使として走るために。

(1) 幻を書き記せ 

●主から書き記せと言われた「幻」とは「主の定められた時」のことであり、「終わりの日についてのこと」です。それは、神のご計画においてはメシア王国(千年王国)のことを意味します。詩篇73篇の作者が抱えた葛藤は、彼が「神の聖所に入り、ついに、彼らの最後を悟った」(73:17)ことで解決されたように、ハバククも同様に、主から示される「」(「ハーゾーン」חָזוֹן)を「主の定めの時」として、つまり、神のご計画の「終わり」について悟ることで答えを得たのです。その内容については2章5節以降に記されていますが、「幻」を板の上にはっきりと書き記す目的は、「これを読む者が急使として走るため」とあります。原文には「急使として」という意味を持つ語彙はありませんが、この幻の啓示の重要性のゆえに、これを読んだ者が急いで人々に知らせなければという衝動に駆られる意味として意訳されているようです。また、「走る」と訳された「ルーツ」(רוּץ)には、単に「走る」という意味だけでなく、「急いで走る、一心に走る」という意味合いがあります。なぜ急いで走らなければならないのでしょうか。それは、板に書かれた幻の内容が「終わりの時について告げられているもの」であり、神のご計画の目的だからです。そのご計画の目的とは、メシアの再臨によってこの地に神の主権が確立され、神と人とが共に住むということの実現です。そのためにはメシアなるキリストが再臨する必然性があるのです。これがイェシュアの伝えた「御国の福音」なのです。それが神にとっては最も緊急性のあることなのです。ですから、私たちはこのことに関心を持たなければなりません。

(2)「終わりについての幻」は必ず実現する

【新改訳2017】ハバクク書2章3節
この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。

●「定めの時」「定められた時」(「モーエード」מוֹעֵד)とは、神のご計画のマスタープランにおける最後の時、終わりの時についての啓示だということが明確にされています。ですから、それが「必ず来る」と訳された部分の「それ」とは「終わりの事柄」(3人称単数)です。「来る」(「ボー」בּוֹא)という動詞を二重 (不定詞+未完了形) にすることで、「必ず来る」ことが強調されています。

(3)「遅くなっても、それを待て」

●「待て」と訳された原語は「ハーハー」(חָכָה)です。ヘブル語には待望用語が多くありますが、「ハーハー」はその一つで(旧約で14回)、一縷の望みとして熱心に待つことを意味します。「待つ」ように命じられているのは、「終わりについての事柄」です。それは神のご計画の完成を意味します。「終わり」を意味するヘブル語は「ケーツ」(קֵץ)です。この「ケーツ」のゲマトリア(文字の数値)は「100+900」=「1000」です。「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)、これが神の世界の単位です。ですから、「遅れることはない」と神が言われても、人間の数の感覚ではなく、神の感覚で理解しなければなりません。「遅くなっても、遅れることはない」という表現を私たちの感覚で理解しようとするならば、ある人々のように、「彼(キリスト)の来臨の約束はどこにあるのか。・・・すべてが創造のはじめからのままではないか。」(Ⅱペテロ3:4)と言い張るのです。そうした者は、ハバクク書2章4節にあるように「心はうぬぼれていて直ぐでない」者と言えます。

●教会の携挙も、イスラエルのためのメシアの再臨も、御国(神の国)が必ず来ることも告げ知らせることが急務なのです。特に、後のものが先になった教会の関心は、2章14節にあるように、「まことに、水が海をおおうように、地は、【主】の栄光を知ることで満たされる」ことでなければなりません。それは、あらゆるひざがかがめられ、あらゆる舌がキリストの主権を告白することです。そのために、御国が天にあるように、地にも来たらせてくださいと祈ることです。御国(メシア)の到来は神の豊かないのちが地に満ちることです。その実現の途上において、神はご自分の支配に逆らう者を黙らせ、高慢な悪から全地を解放します。それは人間の力や策をどんなに結集させたとしても、決して達成することはできないのです。

4. 正しい人はその信仰によって生きる

●2章4節にある「正しい人はその信仰によって生きる」とは、使徒パウロがいう、救われるために必要なのは「行ない」か、それとも「信仰」かということではありません。ハバククの場合の正しい人(義人)とは、神の「幻」(「終わりについてのこと」)を信じる人のことであり、その人はその「幻」を信じる信仰(「エムーナー」אֱמוּנָהとも訳せる)によって「生きる」という意味です。「私たちの信仰によって生きる」ということではなく、「主によって実現する幻(御国の福音)を生きる」ということです。「終わりの事柄」はすべて主が計画されている約束に基づいていますから、それを信じる信仰が人に希望を与えて、力強く生かしめるのです。つまりイェシュアが語られた「御国の福音」こそが、その人を生かすようになるということです。要約するならば、
「その信仰」=「神の幻」=イェシュアの語った「御国の福音」です

●第二次世界大戦において、日本では多くの教会の牧師たち(特に、ホーリネス教会の牧師たち)が治安維持法違反によって逮捕され、処罰されました。その中には獄中で天に召された牧師たちもいたのですが、なにゆえに彼らは逮捕されたのでしょうか。それを一言で言うならば、再臨されるキリストの王権を信じる彼らの信仰が、天皇の王権への反抗とみなされたからです。今日、信仰の自由を認められたクリスチャンには信じ難いことかもしれません。今日の私たちの信仰は、キリストの再臨に対する待望がボケています。私たちは、戦時中の弾圧にも屈しなかった信仰者たちの目がどこに向けられていたかを注視すべきです。彼らは、まさに終わりの事柄に対する信仰によって生きる力を与えられていたのです。それは初代教会においても然りです。私たちはどうでしょうか。そのような信仰が果たして確立しているでしょうか。主の霊こそが、手ごわいストイケイアに対して、恐れることのない力を与えてくれるのです。

5. 実にぶどう酒(富)は欺くものだ

【新改訳2017】ハバクク書2章5節
実にぶどう酒は裏切るもの。勇士は高ぶっていて、定まることを知らない。彼はよみのように喉を広げ、死のように、満ち足りることを知らない。彼は自分のもとに、すべての国々を集め、あらゆる民をかき集める。

●「カルデア人」(バビロン)の繁栄は決して長続きせず、恥が彼らの繁栄(栄光)をおおうことになるというものです。そのことがいろいろな表象を用いて表現されています。今回は、5節の「ぶどう酒」に焦点を当ててみたいと思います。

●「終わりの時」とは、最後の七年間、イスラエルは獣と呼ばれる反キリストと平和の契約を結ぶことから始まることが預言されていますが、どうしていとも簡単にイスラエルはだまされることになるのでしょうか。それは「繁栄の志向」のゆえです。その「繁栄」の象徴が「ぶどう酒」です。1946年に発見された「死海写本」、クムラン文書の中に「ハバクク書注解」があります。それによれば「ぶどう酒」の部分が「富」となっているようです。新共同訳は「富」と訳しています。「ぶどう酒」も「富」も人を欺くことには変わりありません。神を拠り所としない者にとっては、富は安心感を与えてくれるものです。ですから人は決して満足せず、富を貪欲に求めるのです。しかしその安心は偽りです。そのことを5節の後半で、「彼はよみのように喉を広げ、死のように、満ち足りることを知らない。彼は自分のもとに、すべての国々を集め、あらゆる民をかき集める。」と記しています。まさに「終わりの日」には、「貪欲さの権化」が台頭し、多くの者が惑わされるのです。このことは、ヨハネの黙示録にも記されています。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録17章1~2節
1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦(=「大バビロン」=反キリストの統治)に対するさばきを見せましょう。
2 地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」

●イスラエルの民もこの女の淫行のぶどう酒に酔いしれるのです。それに対する神のさばきこそ「未曾有の大患難」の出来事なのです。かつて神はアッシリアの王やバビロンの王を用いて、イスラエルやユダに憂き目を通らせたように、終わりの時にも同様にこの「女」を通して、ご自身の民をきよめ、さばかれるのです。

●メシアニック・ジューであるアミール・ツァルファティ―氏は、「反キリスト、だれ、どこから、いつ、なぜ」という動画をアップしました。彼は、その動画の中で、「獣」と呼ばれる反キリストを以下の三つの接点を満たす者であると語っています。

画像の説明

1. 世界支配の接点・・・政治的・経済的・宗教的統一の力を有する。
2. イスラエルの平安との接点
3. エルサレムの神殿との接点

●「どこから」・・ヨーロッパ。欧州は政治的・経済的条約を結んでいます。また、反キリストの霊が氾濫していて、神のみことばに対する盲目、無関心が蔓延しています。「いつ」・・Ⅱテサロニケ2:6~8。ある国が他国と戦争を始めるとき、最初にすることは、使節たちを自分の国に呼び戻すことです。私たちも「キリストに代わる使節」であり、御国の福音を告げ知らせる使節なのです。ですからその者たちはキリストのもとに必然的に呼び戻され(=携挙され)なければならないのです。
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【新改訳2017】Ⅱテサロニケ人への手紙2章6~12節
6 不法の者(=反キリスト)がその定められた時に現れるようにと、今はその者を引き止めているもの(=教会)があることを、あなたがたは知っています。
7 不法の秘密はすでに働いています。ただし、秘密であるのは、今引き止めている者(=教会)が取り除かれる時までのことです。
8 その時 (=携挙)になると、不法の者(=反キリスト)が現れますが、主イエスは彼を御口の息をもって殺し、来臨の輝きをもって滅ぼされます。
9 不法の者(=反キリスト)は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、
10 また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
11 それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。
12 それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。

●ここに教会(エックレーシア)の重要な務めがあります。パウロが訣別説教としてエペソの教会の長老たちに語ったように、神のご計画である「御国の福音」のすべてを、余すところなく告げ知らせ続けることです。「余すところなく」とは、「怯むことなく」という意味です。ところが、キリスト教会は「ヤベツの祈り」(Ⅰ歴代誌4:10)に代表されるような、「私の祝福を大いに求め、私の地境が広げられること、御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることがないこと」を求めてはいないでしょうか。「私、私、私」です。

6. ご自分の民を救うために出て来られる主(3:1~15)

①3節「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる(「ヴォー」בוֹא)。」
※「テマン」はエドムの北に位置し、「パラン」はその南に位置します。そこにメシアが再臨するからです。

② 13節「あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出て来られます(「ヤーツァー」יָצָא)。」
※13節の「御民」と「油注がれた者」とはパラレリズムで同義です。

●主が「来られる」ときにさばきがもたらされ、「諸国の民」は震え上がります。聖なる神が「来られる」目的は、ご自分の民(=イスラエルの残りの者)を救うためです。そのとき、神に敵対する勢力がどのようになるかをハバククは以下のように記しています。

【新改訳2017】ハバクク書3章13~15節
13 ・・・あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます。 セラ
14 あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。
彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。
15 あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。

(1)「悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます」

●「頭」と訳されたヘブル語は「レーシュ」(רֵאשׁ)ですが、新共同訳はこれを「屋根」と訳し、「基から頂に至るまでむき出しにされた」としています。その「基から頂に至るまで」とは、メリスマ法で「全体」を意味します。「あらわにする・むき出しにする・裸にする」とはその存在の根源を露わにするという意味です。

(2)「あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。」

●ここで「戦士たち」とは神に敵対する者たちです。「私」とはハバククに代表される神の民のことだと考えることができます。「あなた」である神が彼らの頭を杖で突き刺すことで、彼らは神の民を絶滅しようと「荒れ狂います」。それは「海・湖」が荒れる表象と似ています。終わりの時が近づくにつれて、海はますます荒れて来るのです。キリストの再臨は新月ではなく満月の時(仮庵祭の時)です。ですから海は最も荒れている時です。

(3)「あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます」

画像の説明

●ハバククがここで語っていることはすべて「終わりの時」の幻です。つまりメシア王国の直前の出来事の幻です。「あなたは馬で海を、・・踏みつけられる」という表現に注目すると、「馬」は神の力を象徴するものです。「海」は常に神に敵対する者たちの勢力を意味します。ですからその海が「荒れ狂っている」ということは、神に敵対する勢力の最後のあがきと言えます。その海を主が「踏みつける」のです。「海」も「大水」も聖書では神に敵対する勢力を象徴しています。

●イェシュアのすべての言動の背景には旧約全体があり、預言があります。イェシュアはイスラエルのストーリーを完成(成就)させるために来られるのです。私たちの現実に起こる問題解決のためにではありません。それゆえ、私たちは旧約に語られている「幻」を、謙虚に、より注意深く、しかも「霊で悟る」必要があるのです。なぜなら、イェシュアが語った御国の福音は「霊であり、いのち」(ヨハネ6:63)であるからです。「(「ハーゾーン」חָזוֹן)がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)と警告されているからです。私たちは幻がなければ、「ヤベツの祈り」で終わってしまいます。そこから脱却して、ハバククのように「幻を確認し」、怯(ひる)むことなく、「急使として走る」ことが求められているのではないでしょうか。

三一の神の霊が私たちの霊とともにあります。

2023.8.20
a:316 t:1 y:0

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